二十五 うばい合い
「こんにちは、
向かい側から歩いてきたひとに向かって、
「あれ。早瀬の兄ちゃんだ」
早瀬が清多と呼んだひとは、石から石へ飛んで川を渡るみたいに、かろやかに近づいてくる。
「かやも、こんにちは」
早瀬が、ふたりから顔を背けて言う。すると清多がふきだした。
「兄ちゃんどこみてんだよ」
「だって、かやが泣いてしまう……」
「そうか? ちょっと顔みせてみろよ」
「いや……」
早瀬は頭を掻きながら千世のほうをみた。子供たちを示して言った。
「千世さま、この村の子で、清多とかやです。ここに来たばかりのときに知り合って、ときどき会うんです。清多は家の手伝いをよくしていて、すごくお兄ちゃんで、かやはすごく美人」
つぎは清多のほうをみて、千世を示す。
「清多、あのひとは……」
「あ、わかった」
清多が早瀬を遮った。伸び上がって早瀬に顔を近づけて、言った。
「あの姉ちゃん。兄ちゃんの嫁さんだろ」
「うん、ちがう」
早瀬はすぐにこたえた。伸びたまま固まっている清多と目線を合わせる。
「あのな清多。そういうふうに言うのは、よしてほしい」
「え」
「あのひとに失礼だから」
「えっ?」
「えっ?」
ふたりはおなじような声を上げて、しばしみつめ合っていた。にらめっこ。負けたのは清多だった。顔を覆って、肩をふるわせ始めた。
「なんだ、どうしたんだ」
何度もまばたきしている早瀬に、清多は笑いながら言う。
「嘘だろ兄ちゃん、まじめな返事するなよ」
「まじめな返事?」
「そうだよ。おれ、いま兄ちゃんのこと、からかったんだよ?」
清多はなぜか大声を出した。早瀬は口をぽかんと開けて、黙り込んでしまった。
「まったく、この兄ちゃんくそまじめだな。なあ、かや?」
清多が背中のかやに声をかけて、早瀬のほうに顔を向けさせる。早瀬は慌てた様子で空を仰いだ。なにをしているのだろう。そのとき、かやが、ひくっとしゃっくりみたいな声を出した。そしてぐずり始めた。よじよじとからだを動かして、不機嫌そうにしている。
「あらっ、泣いちゃった」
清多が言って、かやを下からとんとんと、あやし始める。
「ほらぁ、かや、だいじょうぶだって」
お兄ちゃんだ。千世は我知らず、胸もとに手を置いていた。指になじんだ、帳面と矢立の手ざわりを感じる。でも、どうすればいいのか、まだよくわからない。千世は早瀬に目を移した。早瀬は清多とかやをみつめながら、ゆっくりあとずさっていた。気づいた清多が、ちょいちょいと手招きする。
「おい兄ちゃん。なにしてんの」
「だって、かやが」
「いいって、兄ちゃんのせいじゃないから。みて、もうだいじょうぶそう」
それを聞いて、千世は清多に近づいた。清多の背中で揺らされている、かやをのぞき込む。かやは、ふくふくした顔をすこし赤くしていた。小さな口を結んで曲げている。つぶらな瞳がきらきらとして、空みたいにみえた。早瀬が言ったとおり、美人。
「姉ちゃんほら」
清多がからだの向きを変えて、かやの顔がよくみえるようにしてくれた。
「かわいいだろおれの妹」
千世はうなずいた。清多はふふ、と笑った。
「ほっぺやわらかいんだよ」
千世は清多とかやをみくらべた。清多はこくんとうなずく。かやは目をぱちぱちさせながら、千世をみている。ほっぺた。ほんとうに、やわらかそう。千世はそろりと手を伸ばして、指先でほんのすこし、その頬にふれてみた。
ふわ、とかすかなぬくもりと、はじめての感触が指先に伝わる。千世はすぐに、手を引っ込めた。清多が笑い声を上げた。
「ふたり揃って怖がりなの? だいじょうぶだよ、壊れないから」
この子もはじめは怖かったんじゃないかと、千世は清多をみつめた。清多は首をかしげている。
「なに? ほらみて。かやも怖がってないよな」
かやはすこし、口をとがらせていた。千世はつい、つられておなじようにした。
「わ、みて兄ちゃん。姉ちゃんへんな顔してる」
清多が早瀬に言った。そのとき、千世のうしろから声がした。清多とかやを呼んでいる。わかったよ母ちゃん、と清多が大声でこたえた。
「じゃあ、おれ帰るね。これからどっか行くんだろ、気をつけて行けよ」
清多は早瀬と千世を順番にみて、ひらりと手を振り、小走りに戻っていった。お兄ちゃんだ。
ふたりをみおくってから、千世は早瀬に歩み寄った。清多が帰っていった集落のほうを眺めていた早瀬は、はっとしたように目をみはった。
「ほんとうに、すてきな子たちです」
早瀬は言う。千世はうなずいた。袖をちょいと掴んで歩きだすと、早瀬はついてきた。
「かやがよく泣くから、清多があやして、散歩をしてるんだそうです」
早瀬は下を向いて話しているようだ。
「わたしの顔をみたら、いつも泣いてしまうんです」
かやから顔を背けていたのは、泣かせてしまうから。
「はじめて会ったときは、ものすごく泣いてしまって、怖かった」
千世は早瀬を振り返った。早瀬は、すこし笑った。
「だけどとても、かわいらしいですよね。大きくなるのが楽しみです」
千世はうなずいた。
****
町というのは、はじめてだった。長い、通りがあって、両側に建物が並んでいる。屋根があるとか、壁がないとか、いろいろの建物たちだ。その中にも外にも、ひとがたくさんいる。色あざやかな反物を広げて流しているみたいに、横を通り過ぎていく。
「千世さま、だいじょうぶですか?」
早瀬がすこしうしろから問うてくる。千世はうなずいてみせた。きょろきょろしてしまって、ちょっと目が回っているけれど、いやな感じではない。
「
早瀬の声を聞きながら、千世はこりずにあたりをみまわした。筵の上に色白の大根が並んでいる。かごに盛られた里芋が、ころんとひとつ転がって、魚の鱗が、ぴかっとひかる。ひとびとはかごを抱えたり、箱を背負ったりしていて、それぞれにものを売り買いしているようだ。威勢のいいかけ声や、大きな笑い声がほうぼうから響いており、どこからか、香ばしい匂いもしてくる。なんだろう。
「千世さま、団子はおすきですか?」
早瀬がそっと、千世にたずねる。千世は顔を上げ、早瀬をぼんやりとみた。
団子は、村でもときどき、食べていた。ほんとうはよくないけれど、持ってくるだけではなく、一緒に食べてくれたひとがいた。とよちゃん。
おひいさま、と。ちがう。千世ちゃん、と呼んでくれた。あのひとが、そばにいてくれた。そしてあのとき言ったのだ。走って、止まらないで。走って。走って。そんなの。そんなの、いやだった。
「千世さま?」
早瀬の声音がすこし変わった。千世は急いでうなずいた。団子は、すき。
「千世さま、お加減が、よくないのではないですか?」
早瀬がしゃがんで、千世の顔を下からのぞく。
「顔色があまり、よくありません」
そんなことを言うけれど、それは早瀬のほうだ。どことなく、青ざめている。顔色がいいなんて言えない。目の下は陰って、唇も乾いている。
「どこか座りましょう。そうだ、すこしだけ、がまんしていただけますか」
背負います、と早瀬は、わずかに顔を歪めて言った。千世に背中を向けようとする。千世はとっさに両手を伸ばした。早瀬の頬にふれて挟んだ。
早瀬は目をみひらいた。かすかに口を動かす。千世のなまえを、呼ぶときのかたち。声にはならず、頬は、つめたかった。千世は早瀬を、のぞきみた。
深く、深く。ふかくまでくろい。底を作ろうとしない黒。このひとはもう、ちがうのに。このひとは、ひと。ものじゃない。はじめてこの目をみたときから、もうばけものではなくなっている。ちゃんとひとにもどるまで、ずっとみていたから、もうだいじょうぶなはずなのだ。このひとは、ひとだ。でも、だから。
さっき、差し出したあたたかい器を受け取ってくれた。きっと、くるしかった。それなら。また、おなじことをしてくれとは、言いたくない。言いたくない。
早瀬の黒い、瞳が揺らぐ。ちらりと、ひかりが流れて消える。もう、くるしくなりすぎないでと、ねがいをかけるひまもなく。
どこへも行かないだろうけれど、どこかへ行ってしまいそうで、離してしまうのは、怖い。さがして起こすし、追いかける。ひとりにしたくない。ひとりは、いや。わたしが、いや。くるしい。
「ちょっとおまえさんたち」
突然声をかけられて、千世ははっと顔を上げた。天秤棒を担いだひとが、目のまえにいた。そのひとは、困った顔で言った。
「通りのまんなかだよ」
「すみません!」
早瀬が急に立ち上がって、謝った。千世の背中をかるく押して、道の端に避ける。
「いや、べつにいいんだけど、だいじょうぶかい? なんかただごとじゃなさそう?」
「いえ、ただごとです」
なんだか心配そうなそのひとに、早瀬は笑ってこたえている。
「すみませんでした。ご心配ありがとうございます」
「いやいや、だいじょうぶならいいんだけど。じゃあ、気をつけてね」
「はい」
天秤棒のひとは行ってしまった。そのうしろすがたをみおくった早瀬は、また千世の顔をのぞき込んできた。
「千世さま」
千世は首を振った。早瀬の袖を引き、あたりをみまわす。さっき漂ってきたいい香りを、忘れてはいない。まだ感じている。
「あ、あの、団子?」
早瀬が戸惑ったような声で問うてくる。千世は力強くうなずいた。すると早瀬は、ふわりと微笑んだ。なみだがこぼれたと、おもった。
「わかりました。でも無理はなさらないでくださいね、なにかおかしい気がしたら、すぐに教えてください」
なにも、こぼれていなかった。
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