二十四 貪る罪
夜に備えて、
離れたくない。離さないでほしい。そんなことを望んでよい、ものではない。血の効き目が切れてばけものではなくなったとしても、それはおなじだ。たくさん迷惑をかけているうえ、どうしようもない役立たずで、たくさんのひとを死なせてきたのだ。殺してきたのとおなじだ。殺したのだ。
先刻はほんとうに、楽しかった。
みんな、燃え尽きてしまったのに。ささやかで、あたたかい日々は、するりと手からすり抜けて、炎に巻かれて消えたのだ。
十二のとき、ここからはずっと遠い故郷で戦があった。早瀬の住んでいた小さな村も略奪に遭った。
早瀬は母と、弟と妹と一緒にどこかの兵に引っ立てられた。その途中で、どこかの兵に襲われた。早瀬は守れなかった。守れなかった。無理だった。
そのあと、なんとか残ったほかのひとたちとともに荷車に乗せられ、運ばれた。がたんがたんと全身揺らされながら、村からどんどん、遠ざかった。村は火を放たれて、燃えていた。
早瀬を含めたひとびとは、品物になった。売るためにつかまえられたのだ。どこかの国まで連れていかれて、そこの町で売られることになった。
その国に着くまでに、一緒だったひとたちは何人もいなくなっていた。食べものや飲みものを、与えられなかったわけではない。商品であるし、生きものとしての扱いは受けていた。でも、逃げ出したり、ものを食べられなかったりするひとたちがいたのだ。早瀬は守れなかった。無理だった。
それから早瀬はもうなにも、見なかったし聞かなかった。閉じていた。そうしていたらいつの間にか、買われていた。早瀬を買ったひとは、
そこは
近康が早瀬を買ったのは、早瀬が死にそうだったかららしい。傀廻しのもとで暮らしていると、ほかのひとたちからは遠ざけられてしまうかもしれないが、それでもほうっておけなかったと言った。よくわからなかったが、早瀬の身体は徐々に回復した。
夢を、見るようになった。村が燃えていて、一緒に荷車に乗せられたひとたちが、泣いていた。ほんとうに無理だったのだろうかと、思うようになった。ほんとうに、だれにも、なにも、できなかったのだろうか。やらなかっただけではないのか。すべてかけて、守ろうとしたのか。生かそうとしたのか。そんなことを問うている時点で、きっとこたえは出ていると思った。
だからもう、これ以上なにも、取りこぼさないのだと決めた。ひとを守りたかった。近康に頼み、傀廻しになる修行を始めた。
おまえは強いと、近康は早瀬に言った。頭を撫でて、強いと、言った。そんなわけが、なかったのに。強いのは、
そのひとは早瀬がろくに喋りもしなかったころから、ずっと声をかけて微笑みかけてくれていた。いつもうしろをついて回るようになっても、いやな顔ひとつしなかった。呼べばすぐに顔を向けてくれたし、長いみみずを見つけたとかいうくだらない話も、面倒がらずに聞いてくれた。礼儀作法を知らずに、師匠や先輩に失礼な態度を取ると、納得できるまで教えてくれた。読み書きも教えてくれた。弟だと思っていると、言ってくれた。
早瀬を見て晴康に、この子が弟さんなのですね、と言ったひとがいる。
いま思えば、ふたりは想い合っていたのかもしれない。景はなにかが忙しくなってしまったらしく、吊頭所に来ることが減っていったけれど。それでも、晴康は景からの贈りものを、いつも身につけていた。色とりどりの糸で作った、組紐だ。それをいつも、手首につけていた。いつも、ずっと。きっと、いまも。
修行をして、入れ墨を手首に刻み、傀廻しになることができたから。これでもう、ひとを守れるのだと、信じたかった。あの日、暴れて守るべき場所を襲ってきた
なにも、できなかった。かばわれただけだった。ひとりで突っ走った早瀬はあっさり死にかけ、駆けつけた晴康に守られた。
それは、咄嗟のことだったから。晴康は、自身までかばいきることができなかった。傀に倒され下敷きにされた。そして真っ黒い、まっくろい血を顔面に吐き出され、潰された。
うしろから来た先輩が、暴れる早瀬を抱えて走った。その腕の中で、早瀬は見た。傀の下で、もう動かないはずの晴康が、手を伸ばすのを見た。その手で、上にのった傀を引きちぎり、その力の抜けた巨体の下から、這い出し立ち上がり、去っていくのを、見た。
あのとき、早瀬が先走っていなければ、晴康は、そんなことにならずにすんだ。近康のあとに、吊頭所の長になっていた。また景と話をして、笑い合えた。
傀の血をかぶらずにすんだ。傀にならずに、すんだ。
先走っていなければ。それをかばおうとなんかしなければ。もっと来るのが遅ければ。ちがう。そもそも、おれなんて、もっとずっと前に。
死に急いだ早瀬は晴康にかばわれ生かされた。その晴康は傀の血を浴び傀になった。
身内から傀を出しても、正式に咎められることはなかった。傀廻しは、処罰して減らせるほど数がいない。これまでどおり、守るべきこの場所を守り、戦えなくなるまで戦わなければならないと近康は言った。
けれど早瀬は
傀になるくらいなら。
晴康があるとき言ったのだ。夕焼けが燃えるころだった。
修行を始める前だった早瀬は、仕事のしたくをしている晴康につきまとっていた。どうしてひとは死ぬんだとか、どうして腹は減るんだとか、よくわからないことばかり問うて、晴康にあまえていた。
傀になるのは、わるいやつだ。みんなそう言う。それなら、よいひとのように見えても、傀の血が入って傀になったのなら、わるいやつだったということだ。わるいやつのように見えても、傀の血が入って傀にならなかったのなら、よいひとだったということだ。それは、なにかへん。よいとわるいとは、なにがちがう。わるいとよいとは、だれがきめる。
そのようなことをたずねた。すると晴康は、手首に組紐を巻く手を止めた。そして、わからない、と言った。
晴康が早瀬の問いに、わからないとこたえたのは、はじめてだった。いつもなにかしら、わたしはこう考えるのだと教えてくれていた。早瀬が呆然としていると、強くまっすぐなあのひとは、わたしも傀になるかもしれないなと、つぶやいた。最初で最後の、こわれそうな横顔を見せた。
でも、すぐに、朗らかな笑顔が戻った。沈む間際の日に灼かれ、笑っていた。言ったのだ。傀になるくらいならわたしは、その前に死んでしまおう。
早瀬が旅に出た日、
狂っていた。狂って、狂ってとち狂っていた、世の中は狂い死んでいた。
たくさんの、あまりにもたくさんのものを。壊させた。侵させた。奪わせた。もう、なにをしても遅いとわかっていた。なにをしても、なにひとつ、戻らない。いのちをかけても捧げても、なくなったものはかえってこない。謝ることもつぐなうこともできない。でもせめて、これ以上はなにも、失わせずにすむように、だれも、失わずにすむように。
えぐり出す。殺す。殺すためならなんでもする、なんでも、死んでも殺す。殺して死ぬ。
そうしなければ、生きていけない。
早瀬はあれを追いかけ、旅をした。いろいろな場所で、ひとに聞きながら、あれを捜し続けた。眠るたびに全身悪夢に食らわれ、起きていても、その腹の中にいる心地だった。ずっとそうだった。
道中、ある町から依頼を受けたのだ。近くの山に手ごわい傀がいるので、離れびとに頼みたいとのことだった。早瀬は山に入って件の傀を見つけ、仕留めようとした。
大きな目玉に、手足がにょきにょき生えたすがたをしていた。早瀬を見るなり飛びかかってきた。速かった。早瀬は倒れて頭を打ちつけ、身体の痺れで動けなくなった。傀は早瀬の上にのっていた。早瀬は下敷きになっていた。
すさまじい力で肩を掴まれ、地に押しつけられ。骨が軋む、砕ける。膜に覆われたばかでかい目玉が、顔にゆっくりと、近づいてくる。突如、目玉の表面が、ぱかりと割れる。口。中には大量の、錆びついた色の歯。濁った涎が垂れてくる、ぬるりと衣を濡らす、細長い舌が伸びてくる、顔にかけた布を絡め取る。そして口はさらに大きく裂け、止めようもなく、迫ってくる。
息が、できない、頭がだんだん、冷えていく。取られる。終わる。終わり。
ごめん、晴康兄さんはもっと、もっと苦しかったよね、ごめん、みんな、ごめん、守れなくて、なにもできなくて、みんなごめんなさい、おれのせいだった、もうこんなのおわりで、ずっとまえから、おわりで、よかった────
すべて、手放しかけたときだった。内から悲鳴が上がった。いやだ。
いやだ。そんなのはいやだ。いやだ。
気づく。打刀を握った手だけは、なんとか少しだけ動かせる。かろうじて、傀を刺せる。たったそれくらいで、上からどいてくれるばけものではない。しかしそれでも、じゅうぶんだ。ひとつだけある、その方法を試すには。
そんなことをしても、いのちを落とすだけかもしれない。それどころか、ひとを傷つけ奪うものに、なり果てるかもしれない。けれどそうはならないことだって、ある。半分、傀になっても、こいつをどけてえぐり出し、ながらえられるかもしれない。いま、それに賭けることが、できる。
勝ちなどはない賭け、けれど賭けなければ、終わるのみ。そう、それだけだ。ひとは普通のひとのままでは、傀にかなわない。だから傀廻しは、傀の血を少し身体に入れる。でもそれでも、ひとはひと。だから及ばない、足りない、殺せない、あれを、殺せない、殺される、いやだ。いやだ。死にたくない。
早瀬は、かろうじて動く手を曲げた。阿呆な方向へ捻じ曲げて、目玉の横面に刃を刺した。抜いた。舞った。血が舞った。くろい、黒い、くろい血が。
ああ、降ってくる。降ってくる。落ちる。ぬるいとろみが、内へひとひら、落ちる。なだれ込みあふれ出す。溺れる。
早瀬は飲んだ。降りかかるものをすべて、飲み下した。死ななかった。傀になり果てることも、なかった。目玉から心臓を引きずり出し、町に骸を突き出して去った。
ばけものになったことは、もちろんわかっていた。あまんじて受け入れていた。楽だったので。
夢を見なくなった。傀を殺す、晴康を殺すと、ひとりのときはそればかり思っていた。苦しくなかった。夜になれば、ひたすら傀と殺し合い、毎晩殺し合い、ひと晩じゅう殺し合った。
良庫国の暁城に、いる。それは間違いないことだとわかった。そのときはすでに、羽流からも良庫からもずいぶん遠ざかっていたが、目指すべき場所は羽流の、となりの国にあったのだ。だから戻ってきた。でも直前で怖気づき、寄るはずではなかった村に立ち寄った。
またなにもできなかった。ばけものだったのにできなかった。ここでやったのは、傀の心臓を六体ぶんえぐり出すことだけ。それらに替わってどんなものが来るかわからない、危うい状況を作り出しただけ。そして
おのれの身体はきれいなままで、血池の中のものと戦うことはできない。暁城のことを教えてくれたひとは、そんなことを言っていた。よごれることを覚悟しなければ、なにも守れない。しかし早瀬は、そんな覚悟で血を飲んだのではない。その気構えがあったなら、飲むことなどしなかったはずだ。
ただ、死にたくなかった。あのときたしかに、そう思った。いまも。奥底で、ずっと。だからばけものになることを、甘受した、望みさえした。なってしまうと、苦しくなくなった。だからばけものであることを、甘受した、望みさえした。やわい黒に包まれ浸っていた。
それでもどこかで、まっとうなひととして生きたいと、ねがっていた。苦しくても、ひとでありたかった。求めた。ほしかった。光が。でも、ほしくなかった。
欲張りなうえ、裏も表もめちゃくちゃなのだ。生きていられない、生きていたい。ひとでありたい、ばけものでいたい。闇がこいしい、光がほしい。光が。苛烈にすきとおったその中の、やわらかな、白が。
早瀬は地面に手をつき、ゆっくりと、立ち上がった。やはり、ここに座ってはいられない。眠っていないのに、勝手に声がもれてきそうだ。
歩きだすと、地面がくにゃくにゃと波打っているような気がした。まっすぐ歩けているのかわからなかった。それでもやっとのことで垣を乗り越え、外へ出た。
建物に守られていて、知らなかった。冷え切って尖った風が吹いていた。でもやはり、なまくらだった。身体をさらしていても、どこにも傷がつかない。
無事なまま、色褪せた道をなんとなく歩いていると、うしろになにか気配を感じた。早瀬は緩慢に振り向いた。ぎょっとした。
少し離れたところに、立っていたのは
千世は、じっとその場を動かなかった。早瀬も、動くことができず、言葉を発することもできなかった。なにを言うかを決められず、なにを言ってもしかたがないような気がしていた。
するとふいに、千世が早瀬に向かって一歩踏み出した。びくりとして見ると、千世はどんどん、歩み寄ってきていた。まっすぐに、向かってくる。早瀬はあとずさった。踵でつまずきよろけていると、千世はもうすぐそばにいた。逃げられ、ない。
「千世、さま」
早瀬は下を向いて声をしぼり出した。千世の爪先と、早瀬の爪先のあいだには、ほとんど隙間がなかった。
「どうして」
千世の手が、きゅっと袖をしぼるのが見えた。
「わからないけど、帰りましょう。みんな心配してしまいます」
早瀬は言って、千世の横を通り過ぎ吊頭所のほうへ歩きだした。すぐに足が止まった。ぐいと、うしろから袖を引かれていた。千世が、片手で早瀬の袖をつかまえている。引っ張っている。
その表情は、はじめて会ったときから少しも変わっていない。感情を読み取ることのできない、人形よりも静かなおもてだ。
「千世さま、なに……」
千世は早瀬の袖を離さない。握りしめたまま、うしろに顔を向ける。早瀬がなんとなしに歩いていこうとした先を、もう片方の手で示す。そしてその手は、早瀬の腕に移った。袖を握っていた手も、腕にふれる。細い指が食い込む。千世は両手で、早瀬をとらえていた。
千世を吊頭所に送り届けたら、またひとりでほっつき歩くはずで、それを千世に見抜かれている気がした。それなら一緒に行く、と告げられているように思った。でもそんなのはほしく、ない。
けれども千世は、ぐいぐいと強く早瀬を引っ張り始める。うしろへ傾くくらい引いている。危ない。そんなに、地曳網みたいにしなくても。早瀬は笑った。千世の手から、力が抜ける。その瞬間うしろへ倒れかけた千世を引き寄せ、受け止めて、離れながらもう一度、笑ってみせる。
「散歩です」
千世の瞳は、ひたりと早瀬をとらえている。少しだけ揺れている気がして、でも、しっかりと見ることはできず、わからない。
「
たずねると、千世はすぐにうなずいた。くるりときびすを返し、早瀬よりも先に立って行く。早瀬はそれを追いかけた。
千世の足どりはかろやかで、迷いがない。ふわり、振り返る。早瀬がついてくることをたしかめているように見える。幼子に戻った気分になる。視線を千世からずらして前のほうへ投げると、向こうから、だれかが来ることに気づいた。
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