二十二 今日は
追いそうに、なってしまった。白い手が、離れていく瞬間に。はなさないでと、ねがってしまった。
昨日、いつものように夢を見た。燃えていた。悲鳴と怒号が肌を炙って、熱風が耳をつんざいて、そして逆巻く炎の中から、黒い、すがたが現れた。そいつは
めちゃくちゃな夢だった。いろいろ入り混じっていた。たすけてほしかった。そのとき、ひんやりしたものが手にふれて、早瀬は引き戻された。目の前に
外で、壁にもたれて縮こまっていたから、なにか寝言を垂れ流していてもだれにも気づかれないはずで。気づかれることはなかったのに。昨日は千世に見つかった。その、曇りのない黒い瞳を見ていると、全身から力が抜けていった。白い手が、手から離れていくときに、待ってとすがりそうになった。
数日前から、昼を山ではなく
べつに手の内をさらさせようとしているわけではないとか、緋高は言った。早瀬も見られてること気づいてるんだろ、たぶんお屋形さまが、念のため用心なさってるだけだ。みんな早瀬がまともになってきてることわかってるし、打ち合いも見張りの一環とかじゃなくて単にやりたいだけだから。こともなげに言っていた。そんなことを聞かせてもよいのか、よくわからなかったが、緋高はすずしい顔をしていた。
たしかに早瀬はもう、どこにも乗り込むつもりはない。外をふらつくときはだれかに見られていたが、吊頭所にいるときは隔てもなく扱われている。おだやかな時間を過ごしている。やすらぎを感じてしまう。そのたび、心臓がじくりと痛む。
今日の仕事はつつがなく済んだ。
「なあ今日もやるか?」
そう言って、にやりと笑う。早瀬は笑い返した。
「わたしはいいけど、緋高は休まなくていいのか?」
「心外だ」
緋高はきっぱりとこたえ、そして笑みを深めた。なにやら少し、怪しげな様子だ。早瀬がいぶかしんでいると、緋高はひとりでうなずいてから言った。
「今日は
早瀬は絶句した。緋高はけろりとしており、話を進める。
「ふたりで打ち合うのもいいけどさ、やっぱり人数が増えるとおもしろくなりそうじゃないか? ひとりがふたり組の相手をするとかしたら、いい鍛錬になりそうだろ。前から思ってたんだけど、そろそろいい頃合いだと思うんだよ」
いったい、なんの頃合いか。なにもよくないと早瀬は思う。
「早瀬がどっちと組むかは草鞋を蹴飛ばして決めよう。表と裏が出たら早瀬は斎丸と組む。それ以外ならおれとだ」
おかしい。そのとおりにすると、早瀬は斎丸と組むしかないのとほぼおなじだ。それに、そもそもなぜ「早瀬がどっちと組むか」を決めるのか。「おれがどっちと組むか」くらいにすればよい。
「なんだその顔。だって知ってるか、おれたちが打ち合い始めてから斎丸、そわそわしてるんだぞ」
斎丸が、そわそわ。
「斎丸って毎日、西の山に行って鍛錬してるみたいだからな。最近は時間がいろいろだけど、起きてるからさ、おれたちが打ち合ってるのも知ってるんだよ。気づいてなかった?」
気づいていなかった。出かけているのが毎日だったことも、知らなかった。
「こっち見てるよ、たまに」
緋高は肩をすくめ、言い切る。
「あれは絶対一緒にやりたいんだね」
早瀬は下を向いた。きちんと洗濯した足袋と、新しい草鞋が見える。草鞋は、履きつぶしすぎだと
「早瀬、強いしさ。いい相手だとか思ってるよたぶん」
こたえることができない。
「でもあんなこと言っちゃった手前、もう近づけないんだよ。斎丸だから。早瀬もそうじゃないか? 早瀬だから怒ってはないんだろうけど。早瀬だから」
斎丸の、焼けつく視線と声がよみがえる。陰気面。死ななければ治らない陰気面。そのとおりだと思った。すべておのれのせいだと考えていることも、思い上がりなのかもしれない。
でも、どうして斎丸があんなふうに言ったのか、わからない。どうして揺さぶり罵りながら、顔を歪めていたのかも、わからない。まだ、はっきりわかっていない。
「でもやっぱり、一緒にやろうとか誘ってもだめだろうから、こうしよう」
緋高は早瀬の鼻先に指を突きつけた。
「今日斎丸が出ていくときに、ふたりで奇襲する。そうしたら斎丸も、対処せざるを得ないだろ。あとはめちゃくちゃでいいよ、三人で遊ぼう」
かろやかに言って、いたずらっぽく笑う。
「このままだと仕事でもずっと、おまえらふたり、組ませられないしさぁ」
「ごめん……」
やっと声を出すと、緋高はしかたなさそうに眉を下げた。
「まあどうしても無理なら、おれがひとりで奇襲しとくけど。あ、それじゃ意味ないのか。でもおまえら揃って危なっかしくてさ、こっちはほんとに大変なんだよ、まあ斎丸は早瀬ほどじゃないかもだけど……。だって早瀬、打ち合い終わって寝るときどっかに消えるし……」
「やる」
早瀬は言った。緋高は一瞬目をみはって、いいね、と笑った。
****
するり、音を忍ばせ戸が滑る。軒の上、早瀬は緋高とうなずき合う。
開いた戸から静かに、外へ一歩を踏み出したのは、やはり標的だった。寝るときの小袖の着流しではなく、仕事のときとおなじ格好をしている。縹の水干の袖はきりりとしぼられており、その手は腰に下げた太刀の柄を握っている。二歩、三歩、戸から遠ざかっていく。そして四歩目を踏み出したとき、緋高の袖が舞った。
斎丸の頭上を越えて眼前に降り立ち、振り向きざまに木刀の横薙ぎを見舞う。即座に反応した斎丸が太刀の鞘ではじき、鐺を緋高の顎へ突き上げれば。緋高はふわりと飛びすさって着地、そのとたん、釣り合いを崩しよろける。斎丸の動きが止まる。そこで早瀬は、軒をとんと蹴った。
地面に足がつく直前、斎丸が振り返る。目をみひらく斎丸へ、にや、と笑みを残しつつ瞬時背を向け、回る勢いで蹴りを放つ。空を切る。斎丸の足がしなり、こめかみへ伸びてくる。身を引き、手にした木刀を一本、投げてよこす。斎丸が反射のように木刀を掴んだのをみとめ、早瀬は一気に間合いを詰めた。
小気味よい音と重い手ごたえ。二度、三度と感じつつ、後方へ素早く足をさばく斎丸を追う。視線がぶつかる。あのとき以来。鋭利な眼光が頬を切る。それでも攻める。突き、薙ぎ、振り下ろす。けれどもそれは、ただの木刀。素手で受け止めくいっとひねり、興味ないと去ってもよい。斎丸は、それをしない。攻めてくる。首を傾け、飛び上がり、受け止め跳ね返して防ぐ。攻める。ふと。うしろに気配を感じ、早瀬は刀を大きく振って飛び退いた。
目の前。左に斎丸。右に緋高。ふたりとも、削るところのない端正な立ちすがた。緋高は肩越しに構え、斎丸は振りかぶっている。目が合った緋高が、にまりと笑った。
少し話がちがう気がする。早瀬がどちらと組むか決めようとか、言っていたのではなかったか。めちゃくちゃでいい、三人で遊ぼう、とか。
ふいに緋高が、笑みを静かに飲み下す。斎丸は、澄ましたままに燃えている。これは、遊ぶ気ないだろう。ふたりとも。
早瀬は、口角がおのずと上がるのを感じていた。こちらも遊ぶ気はない。負けられない。
すとん、力を抜き、両手を下ろす。浮かんだ笑みを舌先で舐め取る。斎丸と緋高は、静かなまま。先手。早瀬は身体を揺らがせ、ふたりのあいだへ滑り込んだ。
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