二十二 今日は

 追いそうに、なってしまった。白い手が、離れていく瞬間に。はなさないでと、ねがってしまった。

 昨日、いつものように夢を見た。燃えていた。悲鳴と怒号が肌を炙って、熱風が耳をつんざいて、そして逆巻く炎の中から、黒い、すがたが現れた。そいつは早瀬はやせを殺さなかった。

 めちゃくちゃな夢だった。いろいろ入り混じっていた。たすけてほしかった。そのとき、ひんやりしたものが手にふれて、早瀬は引き戻された。目の前に千世ちせがいた。髪を布で包んできれいにたすきをかけた千世は、早瀬をじっとのぞき込んでいた。

 外で、壁にもたれて縮こまっていたから、なにか寝言を垂れ流していてもだれにも気づかれないはずで。気づかれることはなかったのに。昨日は千世に見つかった。その、曇りのない黒い瞳を見ていると、全身から力が抜けていった。白い手が、手から離れていくときに、待ってとすがりそうになった。


 数日前から、昼を山ではなく吊頭所ちょうとうしょで過ごすことが多くなっている。仕事のあと、緋高ひだかに打ち合いしようと誘われるようになったのだ。緋高とやり合ったあとは、吊頭所の壁にもたれて寝る。

 べつに手の内をさらさせようとしているわけではないとか、緋高は言った。早瀬も見られてること気づいてるんだろ、たぶんお屋形さまが、念のため用心なさってるだけだ。みんな早瀬がまともになってきてることわかってるし、打ち合いも見張りの一環とかじゃなくて単にやりたいだけだから。こともなげに言っていた。そんなことを聞かせてもよいのか、よくわからなかったが、緋高はすずしい顔をしていた。

 たしかに早瀬はもう、どこにも乗り込むつもりはない。外をふらつくときはだれかに見られていたが、吊頭所にいるときは隔てもなく扱われている。おだやかな時間を過ごしている。やすらぎを感じてしまう。そのたび、心臓がじくりと痛む。


 今日の仕事はつつがなく済んだ。一太いちた二太にた七太郎しちたろうも出なかった。一緒だった緋高とともに、吊頭所への帰路についている。今朝はずいぶん冷え込んで、ため息も白く見える。ふと、となりを歩く緋高が早瀬に顔を向けた。

「なあ今日もやるか?」

 そう言って、にやりと笑う。早瀬は笑い返した。

「わたしはいいけど、緋高は休まなくていいのか?」

「心外だ」

 緋高はきっぱりとこたえ、そして笑みを深めた。なにやら少し、怪しげな様子だ。早瀬がいぶかしんでいると、緋高はひとりでうなずいてから言った。

「今日は斎丸さいまるも誘ってみよう」

 早瀬は絶句した。緋高はけろりとしており、話を進める。

「ふたりで打ち合うのもいいけどさ、やっぱり人数が増えるとおもしろくなりそうじゃないか? ひとりがふたり組の相手をするとかしたら、いい鍛錬になりそうだろ。前から思ってたんだけど、そろそろいい頃合いだと思うんだよ」

 いったい、なんの頃合いか。なにもよくないと早瀬は思う。

「早瀬がどっちと組むかは草鞋を蹴飛ばして決めよう。表と裏が出たら早瀬は斎丸と組む。それ以外ならおれとだ」

 おかしい。そのとおりにすると、早瀬は斎丸と組むしかないのとほぼおなじだ。それに、そもそもなぜ「早瀬がどっちと組むか」を決めるのか。「おれがどっちと組むか」くらいにすればよい。

「なんだその顔。だって知ってるか、おれたちが打ち合い始めてから斎丸、そわそわしてるんだぞ」

 斎丸が、そわそわ。

「斎丸って毎日、西の山に行って鍛錬してるみたいだからな。最近は時間がいろいろだけど、起きてるからさ、おれたちが打ち合ってるのも知ってるんだよ。気づいてなかった?」

 気づいていなかった。出かけているのが毎日だったことも、知らなかった。

「こっち見てるよ、たまに」

 緋高は肩をすくめ、言い切る。

「あれは絶対一緒にやりたいんだね」

 早瀬は下を向いた。きちんと洗濯した足袋と、新しい草鞋が見える。草鞋は、履きつぶしすぎだと尽平じんぺいが言って、瑞延ずいえんが予備をくれた。足袋は、二太が暴れた日には沙那さな小兎こと千世ちせが洗濯してくれた。

「早瀬、強いしさ。いい相手だとか思ってるよたぶん」

 こたえることができない。

「でもあんなこと言っちゃった手前、もう近づけないんだよ。斎丸だから。早瀬もそうじゃないか? 早瀬だから怒ってはないんだろうけど。早瀬だから」

 斎丸の、焼けつく視線と声がよみがえる。陰気面。死ななければ治らない陰気面。そのとおりだと思った。すべておのれのせいだと考えていることも、思い上がりなのかもしれない。

 でも、どうして斎丸があんなふうに言ったのか、わからない。どうして揺さぶり罵りながら、顔を歪めていたのかも、わからない。まだ、はっきりわかっていない。

「でもやっぱり、一緒にやろうとか誘ってもだめだろうから、こうしよう」

 緋高は早瀬の鼻先に指を突きつけた。

「今日斎丸が出ていくときに、ふたりで奇襲する。そうしたら斎丸も、対処せざるを得ないだろ。あとはめちゃくちゃでいいよ、三人で遊ぼう」

 かろやかに言って、いたずらっぽく笑う。

「このままだと仕事でもずっと、おまえらふたり、組ませられないしさぁ」

「ごめん……」

 やっと声を出すと、緋高はしかたなさそうに眉を下げた。

「まあどうしても無理なら、おれがひとりで奇襲しとくけど。あ、それじゃ意味ないのか。でもおまえら揃って危なっかしくてさ、こっちはほんとに大変なんだよ、まあ斎丸は早瀬ほどじゃないかもだけど……。だって早瀬、打ち合い終わって寝るときどっかに消えるし……」

「やる」

 早瀬は言った。緋高は一瞬目をみはって、いいね、と笑った。





****





 するり、音を忍ばせ戸が滑る。軒の上、早瀬は緋高とうなずき合う。

 開いた戸から静かに、外へ一歩を踏み出したのは、やはり標的だった。寝るときの小袖の着流しではなく、仕事のときとおなじ格好をしている。縹の水干の袖はきりりとしぼられており、その手は腰に下げた太刀の柄を握っている。二歩、三歩、戸から遠ざかっていく。そして四歩目を踏み出したとき、緋高の袖が舞った。

 斎丸の頭上を越えて眼前に降り立ち、振り向きざまに木刀の横薙ぎを見舞う。即座に反応した斎丸が太刀の鞘ではじき、鐺を緋高の顎へ突き上げれば。緋高はふわりと飛びすさって着地、そのとたん、釣り合いを崩しよろける。斎丸の動きが止まる。そこで早瀬は、軒をとんと蹴った。

 地面に足がつく直前、斎丸が振り返る。目をみひらく斎丸へ、にや、と笑みを残しつつ瞬時背を向け、回る勢いで蹴りを放つ。空を切る。斎丸の足がしなり、こめかみへ伸びてくる。身を引き、手にした木刀を一本、投げてよこす。斎丸が反射のように木刀を掴んだのをみとめ、早瀬は一気に間合いを詰めた。

 小気味よい音と重い手ごたえ。二度、三度と感じつつ、後方へ素早く足をさばく斎丸を追う。視線がぶつかる。あのとき以来。鋭利な眼光が頬を切る。それでも攻める。突き、薙ぎ、振り下ろす。けれどもそれは、ただの木刀。素手で受け止めくいっとひねり、興味ないと去ってもよい。斎丸は、それをしない。攻めてくる。首を傾け、飛び上がり、受け止め跳ね返して防ぐ。攻める。ふと。うしろに気配を感じ、早瀬は刀を大きく振って飛び退いた。

 目の前。左に斎丸。右に緋高。ふたりとも、削るところのない端正な立ちすがた。緋高は肩越しに構え、斎丸は振りかぶっている。目が合った緋高が、にまりと笑った。

 少し話がちがう気がする。早瀬がどちらと組むか決めようとか、言っていたのではなかったか。めちゃくちゃでいい、三人で遊ぼう、とか。

 ふいに緋高が、笑みを静かに飲み下す。斎丸は、澄ましたままに燃えている。これは、遊ぶ気ないだろう。ふたりとも。

 早瀬は、口角がおのずと上がるのを感じていた。こちらも遊ぶ気はない。負けられない。

 すとん、力を抜き、両手を下ろす。浮かんだ笑みを舌先で舐め取る。斎丸と緋高は、静かなまま。先手。早瀬は身体を揺らがせ、ふたりのあいだへ滑り込んだ。

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