二十一 使えない
足踏みすると、ぎゅ、と重たい感触がして、ぱしゃん、とかろやかに水が跳ねる。地面に広がり土の色を濃くする。水は、はだしの足にはきりきりとつめたい。心地よいものではない。けれど、ふしぎといやでもない。何度も、足踏みをする。
「
柄杓を手にし、向かいに立っている
千世は洗濯をしたことがなかった。みたことはあったけれど。何日かまえ、沙那に誘われてはじめてやった。今日もまたやることになった。
「つめたいねぇ、もうだいぶ寒くなった」
沙那は石の槽の中で足踏みしながら、身震いしている。千世はうなずいた。凛と冷えた風は、吹き過ぎても静かな余韻を残す。景色がなんとなく、銀の粉をかぶったようにみえる。冬のにおいを吸い込んで、吐き出しながら、千世は足もとの黒い筒袖をゆっくり踏みしめる。今日はさほどよごれていない。
「今日はみんな、あんまりよごれてないね」
沙那が言った。沙那はときどき、ひとの考えていることがみえるのだろう。
「あのときは、ひどかったもんね」
沙那は水の中から縹色の布を拾い上げ、縦に横に伸ばしながら笑っている。千世は、はじめて洗濯したときのことをおもいだした。
あの朝は、いつものようにみんな揃って帰ってきた。けれど
ここでは、よごれがひどいものと、みずから洗いたいものは、それぞれが洗濯することになっているらしかった。よごれがひどいものに関しては、とくにこちらは気にならないのに、みんなが申し訳ないと言って洗わせてくれないのだと
千世は、いっしょうけんめい衣を踏んでいる沙那と小兎を眺めていた。すると沙那が石の中から手を差し伸べて、千世を誘った。
はじめての洗濯は、つめたくてぬるぬるしていた。滑りそうだったから、手をつないでよごれを踏んだ。ふたりとも、くすくす笑っていた。
いまも、おなじように、洗濯をしている。けれど、なにかちがう。
「千世?」
沙那に呼ばれて千世は、はっと顔を上げた。沙那が目を丸くひらいて、のぞき込んできていた。千世は、沙那に手を差し出した。
「え?」
沙那はさらに目をまんまるにして、千世の顔と手をみくらべる。でもすぐに、にやりと笑って千世の手を握った。ほんのり、あたたかい。ざらざらしているのは、働き者だからだと、瑞延が言っていた。沙那がもう片方の手も出すから、千世はその手を取った。両手を取り合って、衣を洗う。沙那はなぜか、ときどきふふっと笑い声をもらしていた。
「あ、千世」
呼ばれて目が合って、千世が首をかしげると、沙那は千世の頬にちょんとさわって、そしてさらっと言った。
「ごめん。ちょっといい顔してたから」
いい顔。千世は目をしばたいた。顔をさわってみる。あたたかかったけれど、なにがよいのかはわからなかった。沙那は何事もなかったように、帯に挟んでいた布で足を拭いて草履をひっかけている。
「よし、終わった終わった。干すよ」
洗いものを広げて積んだ大きなたらいを抱え、沙那はもの干しのほうへ歩いていく。千世は急いで、足もとから筒袖を拾い上げた。きらきらと音を立てて、水がこぼれ落ちる。まず袖から、きゅっとしぼる。黒の中から、すきとおった水がしみ出してくる。よくしぼって、よく伸ばして、ちょっとかざしてみあげてみる。澄んだ日差しの中、まばゆかった。衿のところは、破れたようだけれど小兎がきれいに縫いつけてある。ほとんど目立たない。沙那と小兎は、なんでもできる。千世は筒袖をそっとふたつにたたんで、足を拭い草履を履いた。
早瀬は、べとべとになって帰ってきたあとから、すこし、ぼんやりしている。昼間には出かけている。なにも言わずに行く日もある。でも、千世がみていることに気づけば、やわらかに微笑む。視線がつながるたび、そばを通るたびに、千世に声をかける。それは変わらない。おはようございます、おいしいですね、ありがとうございます、きれいですね、安心しました。どうされましたか。
でも。
あのひとは、くるしい。
どうして。どうして、だろう。
そのときだった。突然に、目のまえが染まった、赤く。くらくらするほど赤い、赤い部屋。ひとが。からだを引き裂かれたひとが、床の上に倒れ壁にすがりついている。声が、においが、耳の、鼻の奥から湧いてくる。叫んでいる、求めている、乞うている、息をするのがいやになる。言い聞かせられる。走って。止まらないで。走って。
いやだ。
じわり、と胸もとが湿る。千世はゆるりと顔を上げた。目のまえに広がるのは、みなれてきた景色。赤くなんかない。ひどくされた、ひともいない。悲鳴は聞こえない。おそるおそる、息を吸い込むと、ひんやりとした空気が千世をなだめた。冬のにおいがする。
ふ、と息をついて、腕の中にあるものにすがる。ぬるい感触が、胸と腕に広がる。千世ははっとして、抱いていた筒袖を離した。またしわが寄ってしまった。伸ばさないと。懐に入れた矢立と帳面も、すこし濡れていることに気づく。
「千世? どうしたの」
沙那が呼んでいる。千世は、沙那に駆け寄った。すると沙那は、すこし目を大きくした。
「あれ、水かかったの。着替えておいで。こっちはだいじょうぶだから、それ貸して」
沙那は千世に手を差し出してそう言う。千世は、首を振った。すると沙那は何度かまばたきして、うなずいた。
「うん……、いやか。じゃあさっさと干そう。風邪ひく」
二本の木の、枝から枝へ渡した竿に、沙那は手際よく衣を干していく。いやか。そうだ。いやだ。千世は筒袖を抱きしめた。ふと、上をみた。なぜ。影。空が、みえない。
「千世さまぁっ?」
降ってくる。早瀬が上から降ってくる。千世のすぐそばに落ちてきて、地面でころりと一回転。立ち上がり、すこし離れたまま固まる。なぜか知らないけれどたぶん、屋根の上から飛んできたのだ。木刀を持っている。遠くに立ったままで、まくしたてる。
「すみませんだいじょうぶですか、当たっていませんか、怪我は?」
そのとき、ふたたび頭上が暗くなる。浅緋がふわっと目の端に映る。早瀬とのあいだに、舞い降りてきたのは緋高だった。つぎの瞬間、緋高は早瀬に向かって素早く腕を伸ばす。このひとも木刀を手にしている。喉を突かれそうになった早瀬は、すんでのところで受け流し飛びすさった。
「待て緋高っ」
「待たないよ勝負だ」
早瀬に言い放った緋高はちらりと千世を振り向き、ごめんなさいと笑う。そんな緋高に、姿勢を低くした早瀬が迫っている。千世がそちらへ視線を送ったとたん、緋高は飛び上がった。早瀬をかわして広い袖をひるがえし、羽ばたくように駆け去っていく。
から振りした早瀬はざざっと土埃を上げて向きを変える。緋高のあとについていきかけて、振り返り、千世にたずねる。
「千世さま、お怪我は」
「ないよ」
千世のうしろで沙那がこたえた。
「どこも当たってないのわかってるでしょ、かすりもしてない。心配しすぎ」
千世の腕を引っ張って、下がらせる。千世は釣り合いを崩したけれど、沙那に受け止められた。沙那と千世は背丈がおなじくらいだし、年もおなじだ。けれど沙那のほうが、千世よりもずっとつよい。
「ほらみて早瀬」
すっと、沙那が指差した先には、緋高がいた。建物の陰から顔をのぞかせ、笑ってひらひらと手を振っている。
「なんか腹立つので、一本取ってきてよ」
沙那が言った。早瀬はかるく目をみはって、けれどすぐにうなずく。
「そうします」
不穏な気配を察したのか、緋高が顔を引っ込めるのがみえた。木刀を握り直した早瀬が、ふと千世の腕の中に目をとめる。
「千世さま」
早瀬が呼ぶので、千世は早瀬の目をみた。とろりとした黒の中に、澄んだひかりが、迷っている。
「ありがとう、ございます」
喉が痛そうな声でそう言った。さら、と千世は風をさわった。覚えず手が伸びていたけれど、早瀬はもう、そこにいなかったから。緋高を追いかけていった。手を握り込む。
「また、なにが始まったんだろうねぇ」
うしろで沙那がぽつりと言った。
「あれって稽古かな。遊び?」
よくわからない。
「まあ、そこまでうるさくはないし、いいかな……緋高も気を遣ってるんだろうね……」
つぶやいて、沙那は千世の肩をぽんとたたいた。
「あのひとたちは、ほっとこう。干しちゃおうか」
千世は沙那を振り向いて、うなずいた。
****
洗濯ものを干し終わって建物の中に入ると、冷えたからだが、じんとした。
「おつかれさまです」
たすきをかけて床の拭き掃除をしていた小兎が、顔を上げて言った。沙那が、おつかれさま、と返した。小兎はにこっと笑って、また床を磨き始める。
沙那が板の間に上がり、端のほうを通って奥の部屋へ行く。小兎が、それを呼びとめた。足を止めた沙那と、草履を脱いでいる千世を順番にみて、小兎は言った。
「あの、屋根裏」
沙那が首をかしげる。
「え? 屋根裏?」
小兎はこくりとうなずいた。重々しい様子だ。
「はい。あの、屋根裏から気配がしたこと、ありませんか? なんか、さっきすごく、大きいものがいるような感じがして、なんか、鼠かなとおもったけどそれどころじゃない感じがして……」
小兎が話すのを聞きながら、千世は沙那のほうをみた。沙那は、口の端をちょっと持ち上げていた。小兎の声は、だんだん弱々しくなっていく。
「なにか気配とか、音がしたことないですか? おれはさっきはじめて気づいたんですけど……。絶対なにかいるっていう感じが、さっき……もうしないけど……」
「いるね」
沙那がこたえた。小兎の肩が跳ねた。
「え、やっぱり……? でも、ただの鼠とかじゃ、なさそうで」
「そうだよ。すごくでかい。ふたりいるし」
「ふたり? ……なに? その言い方なに?」
「いるよ、上に。ふたり……」
「え? どういう……」
「あ……いまも聞こえるでしょ……。ほら……」
「えっ、まっ、待っていやだ怖い……」
なにも怖くないのに。沙那は、いたずらをしている。千世は拭き上げられた床を爪先で歩いて、小兎に近づいた。
「えっ千世さんも……? 千世さんも知ってるんです?」
小兎は手の中の雑巾をしぼり上げている。千世は、とん、とその肩に手を置いた。
「え……?」
小兎が目を丸くして黙り込む。そんな小兎に、千世は首を振ってみせた。ぱちぱちと、小兎はまばたきする。
「え……」
「ごめん」
沙那がそばにやってきた。笑うのをがまんする顔をしていた。
「なにもいないよ。さっきはいたけど」
小兎は沙那と千世をみくらべて、まばたきを続けている。
「緋高と早瀬のふたりがね。なにか知らないけどふたりでじゃれてて、屋根の上にも上ってたみたい」
沙那がほんとうのことを言ったとたん、小兎は眉間にしわを寄せて叫んだ。
「なんですかそれ!」
沙那が人差し指を口もとに当てる。
「ほら、ちゃんと寝てるひともいるんだから静かに」
「叫ばせてるの、だれなんですか」
ちゃんと声を小さくしている。
「ひどいですよ、ね?」
そう言って千世のほうをみる。千世はうなずいた。すると小兎はすこし得意げな顔をした。でも沙那がくくっと笑うので、小兎はまた、きゅうっと眉を寄せた。
「笑いごとじゃないですよ。怖かったんですからね。音が聞こえたとき、外に助けを求めに行こうかとおもったんですからね」
「来てよかったのに」
「行きませんよ、さすがになさけないじゃないですか」
「なさけないとか気にしてたんだ小兎って」
「それどういう意味ですか!」
ふくれた小兎と、おなかを押さえた沙那が言い合っているのを、千世はみていた。胸もとにそっと手を伸ばす。ひんやり濡れた衿に指を滑らせると、ざらりと帳面の表紙にふれる。さらっと木の感触がする。
ここに来たばかりのとき、沙那がこの矢立と紙を持ってきてくれた。そしてここにいることが決まったとき、小兎が紙をまとめて表紙をつけて、帳面にしてくれた。早瀬と千世がそれぞれなまえを書いた紙も、中に綴じてくれている。それから矢立と帳面は、いつもここに入れて持っている。
書きたくなったら書いてね、と言った。言いたいことがあったら言うって意味ね、と。
書きたい。言いたい。書きたい言いたいって、なに。
言えない。声がない。ものしするものだから。けれど書くことならできる。でも、なにを、書けばいい。わからない。どうしたら。どうしたら、つかまえてここに記せる。
「あっ、千世さん」
小兎が声を上げた。
「濡れちゃってますね、着替えないと」
「そうだよ、着替えを取りに行こうとしたの」
沙那が手を打って立ち上がり、奥の部屋へ入っていく。それをつい、ぼんやりとみおくっていると、小兎が言った。
「千世さん、怖くないの教えてくれて、ありがとうございます」
肩をすぼめながら笑う。千世は、うなずいた。小兎はふたたび、床を拭き始めた。千世は隅のほうを歩き、沙那に続いて奥へ向かった。
もっと、ちゃんと教えられたら、もっと怖くなかったかもしれない。でも、ありがとうと笑ってくれた。着替えを、取りに行ってくれた。いやか、とわかってくれた。
手を出して、手を取れる。つめたい水もだいじょうぶ。部屋の中はじんわり、あたたかい。いつも、火が灯っている。囲炉裏を囲む。ご飯を食べる。声を聞きながら眠る。ひとりではない。もうひとりではない。
おひいさま、とだれかが呼んでいた。目のまえが赤くて、黒かった。さむかった。とてもとても。さむかった。でもあのひとが。早瀬が、来てくれた。こちらにみむきもせず、ひたすらにばけものを絶った。そのすがたは、身悶え叫ぶ火みたいに、はげしくうつくしくて、それから。
わからない。はやすぎて、おおすぎて、つよすぎて、はじめてで。なにも、わからない。つかまえられない。記せない。胸もとから手を離す。
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