二十一 使えない

 足踏みすると、ぎゅ、と重たい感触がして、ぱしゃん、とかろやかに水が跳ねる。地面に広がり土の色を濃くする。水は、はだしの足にはきりきりとつめたい。心地よいものではない。けれど、ふしぎといやでもない。何度も、足踏みをする。

千世ちせ、水入れるよ」

 柄杓を手にし、向かいに立っている沙那さなが言う。うなずいてみせると、沙那は桶から水をすくって、千世の足もとの黒い布にかけた。ぴしゃんとしぶきが足に届く。千世はまた、布を踏み始めた。

 千世は洗濯をしたことがなかった。みたことはあったけれど。何日かまえ、沙那に誘われてはじめてやった。今日もまたやることになった。

 吊頭所ちょうとうしょの敷地にある井戸のそばには、縦に割った竹のようなかたちの大きな石がある。その中に水と衣を入れて、足で踏んでよごれを落とす。濡れてしまうから、裾は上げて帯に挟み、袖はたすきをかけて、落ちないようにしている。やり方がわからなかったので、最初は沙那がしてくれた。いまは不格好でも、できるようになってきた。

「つめたいねぇ、もうだいぶ寒くなった」

 沙那は石の槽の中で足踏みしながら、身震いしている。千世はうなずいた。凛と冷えた風は、吹き過ぎても静かな余韻を残す。景色がなんとなく、銀の粉をかぶったようにみえる。冬のにおいを吸い込んで、吐き出しながら、千世は足もとの黒い筒袖をゆっくり踏みしめる。今日はさほどよごれていない。

「今日はみんな、あんまりよごれてないね」

 沙那が言った。沙那はときどき、ひとの考えていることがみえるのだろう。

「あのときは、ひどかったもんね」

 沙那は水の中から縹色の布を拾い上げ、縦に横に伸ばしながら笑っている。千世は、はじめて洗濯したときのことをおもいだした。

 あの朝は、いつものようにみんな揃って帰ってきた。けれど瑞延ずいえん斎丸さいまる早瀬はやせが、みたことのないねばねばをくっつけていた。二太にたというくぐつとやり合ったせいらしかった。二太は、からだじゅうぬめった液で覆われているので、戦うとひどくよごれるらしい。三人は、ねばねばだけでなく、黒い血もたくさんかぶっていた。いちばん被害をこうむっていたのは早瀬だった。衣はすこしくすんだ黒のはずなのに、あのときは、てかてかしていたのだ。

 ここでは、よごれがひどいものと、みずから洗いたいものは、それぞれが洗濯することになっているらしかった。よごれがひどいものに関しては、とくにこちらは気にならないのに、みんなが申し訳ないと言って洗わせてくれないのだと小兎ことが言っていた。でもあの日は、三人ともからだまでねばついていて、においもあった。着ているものを洗っておくから、そのあいだにからだをきれいにするようにと沙那が三人に命じ、三人とも最後にはおとなしく従った。

 千世は、いっしょうけんめい衣を踏んでいる沙那と小兎を眺めていた。すると沙那が石の中から手を差し伸べて、千世を誘った。

 はじめての洗濯は、つめたくてぬるぬるしていた。滑りそうだったから、手をつないでよごれを踏んだ。ふたりとも、くすくす笑っていた。

 いまも、おなじように、洗濯をしている。けれど、なにかちがう。

「千世?」

 沙那に呼ばれて千世は、はっと顔を上げた。沙那が目を丸くひらいて、のぞき込んできていた。千世は、沙那に手を差し出した。

「え?」

 沙那はさらに目をまんまるにして、千世の顔と手をみくらべる。でもすぐに、にやりと笑って千世の手を握った。ほんのり、あたたかい。ざらざらしているのは、働き者だからだと、瑞延が言っていた。沙那がもう片方の手も出すから、千世はその手を取った。両手を取り合って、衣を洗う。沙那はなぜか、ときどきふふっと笑い声をもらしていた。

「あ、千世」

 呼ばれて目が合って、千世が首をかしげると、沙那は千世の頬にちょんとさわって、そしてさらっと言った。

「ごめん。ちょっといい顔してたから」

 いい顔。千世は目をしばたいた。顔をさわってみる。あたたかかったけれど、なにがよいのかはわからなかった。沙那は何事もなかったように、帯に挟んでいた布で足を拭いて草履をひっかけている。

「よし、終わった終わった。干すよ」

 洗いものを広げて積んだ大きなたらいを抱え、沙那はもの干しのほうへ歩いていく。千世は急いで、足もとから筒袖を拾い上げた。きらきらと音を立てて、水がこぼれ落ちる。まず袖から、きゅっとしぼる。黒の中から、すきとおった水がしみ出してくる。よくしぼって、よく伸ばして、ちょっとかざしてみあげてみる。澄んだ日差しの中、まばゆかった。衿のところは、破れたようだけれど小兎がきれいに縫いつけてある。ほとんど目立たない。沙那と小兎は、なんでもできる。千世は筒袖をそっとふたつにたたんで、足を拭い草履を履いた。

 早瀬は、べとべとになって帰ってきたあとから、すこし、ぼんやりしている。昼間には出かけている。なにも言わずに行く日もある。でも、千世がみていることに気づけば、やわらかに微笑む。視線がつながるたび、そばを通るたびに、千世に声をかける。それは変わらない。おはようございます、おいしいですね、ありがとうございます、きれいですね、安心しました。どうされましたか。

 でも。

 あのひとは、くるしい。

 どうして。どうして、だろう。

 そのときだった。突然に、目のまえが染まった、赤く。くらくらするほど赤い、赤い部屋。ひとが。からだを引き裂かれたひとが、床の上に倒れ壁にすがりついている。声が、においが、耳の、鼻の奥から湧いてくる。叫んでいる、求めている、乞うている、息をするのがいやになる。言い聞かせられる。走って。止まらないで。走って。

 いやだ。

 じわり、と胸もとが湿る。千世はゆるりと顔を上げた。目のまえに広がるのは、みなれてきた景色。赤くなんかない。ひどくされた、ひともいない。悲鳴は聞こえない。おそるおそる、息を吸い込むと、ひんやりとした空気が千世をなだめた。冬のにおいがする。

 ふ、と息をついて、腕の中にあるものにすがる。ぬるい感触が、胸と腕に広がる。千世ははっとして、抱いていた筒袖を離した。またしわが寄ってしまった。伸ばさないと。懐に入れた矢立と帳面も、すこし濡れていることに気づく。

「千世? どうしたの」

 沙那が呼んでいる。千世は、沙那に駆け寄った。すると沙那は、すこし目を大きくした。

「あれ、水かかったの。着替えておいで。こっちはだいじょうぶだから、それ貸して」

 沙那は千世に手を差し出してそう言う。千世は、首を振った。すると沙那は何度かまばたきして、うなずいた。

「うん……、いやか。じゃあさっさと干そう。風邪ひく」

 二本の木の、枝から枝へ渡した竿に、沙那は手際よく衣を干していく。いやか。そうだ。いやだ。千世は筒袖を抱きしめた。ふと、上をみた。なぜ。影。空が、みえない。

「千世さまぁっ?」

 降ってくる。早瀬が上から降ってくる。千世のすぐそばに落ちてきて、地面でころりと一回転。立ち上がり、すこし離れたまま固まる。なぜか知らないけれどたぶん、屋根の上から飛んできたのだ。木刀を持っている。遠くに立ったままで、まくしたてる。

「すみませんだいじょうぶですか、当たっていませんか、怪我は?」

 そのとき、ふたたび頭上が暗くなる。浅緋がふわっと目の端に映る。早瀬とのあいだに、舞い降りてきたのは緋高だった。つぎの瞬間、緋高は早瀬に向かって素早く腕を伸ばす。このひとも木刀を手にしている。喉を突かれそうになった早瀬は、すんでのところで受け流し飛びすさった。

「待て緋高っ」

「待たないよ勝負だ」

 早瀬に言い放った緋高はちらりと千世を振り向き、ごめんなさいと笑う。そんな緋高に、姿勢を低くした早瀬が迫っている。千世がそちらへ視線を送ったとたん、緋高は飛び上がった。早瀬をかわして広い袖をひるがえし、羽ばたくように駆け去っていく。

 から振りした早瀬はざざっと土埃を上げて向きを変える。緋高のあとについていきかけて、振り返り、千世にたずねる。

「千世さま、お怪我は」

「ないよ」

 千世のうしろで沙那がこたえた。

「どこも当たってないのわかってるでしょ、かすりもしてない。心配しすぎ」

 千世の腕を引っ張って、下がらせる。千世は釣り合いを崩したけれど、沙那に受け止められた。沙那と千世は背丈がおなじくらいだし、年もおなじだ。けれど沙那のほうが、千世よりもずっとつよい。

「ほらみて早瀬」

 すっと、沙那が指差した先には、緋高がいた。建物の陰から顔をのぞかせ、笑ってひらひらと手を振っている。

「なんか腹立つので、一本取ってきてよ」

 沙那が言った。早瀬はかるく目をみはって、けれどすぐにうなずく。

「そうします」

 不穏な気配を察したのか、緋高が顔を引っ込めるのがみえた。木刀を握り直した早瀬が、ふと千世の腕の中に目をとめる。

「千世さま」

 早瀬が呼ぶので、千世は早瀬の目をみた。とろりとした黒の中に、澄んだひかりが、迷っている。

「ありがとう、ございます」

 喉が痛そうな声でそう言った。さら、と千世は風をさわった。覚えず手が伸びていたけれど、早瀬はもう、そこにいなかったから。緋高を追いかけていった。手を握り込む。

「また、なにが始まったんだろうねぇ」

 うしろで沙那がぽつりと言った。

「あれって稽古かな。遊び?」

 よくわからない。

「まあ、そこまでうるさくはないし、いいかな……緋高も気を遣ってるんだろうね……」

 つぶやいて、沙那は千世の肩をぽんとたたいた。

「あのひとたちは、ほっとこう。干しちゃおうか」

 千世は沙那を振り向いて、うなずいた。

 


 


****





 洗濯ものを干し終わって建物の中に入ると、冷えたからだが、じんとした。

「おつかれさまです」

 たすきをかけて床の拭き掃除をしていた小兎が、顔を上げて言った。沙那が、おつかれさま、と返した。小兎はにこっと笑って、また床を磨き始める。

 沙那が板の間に上がり、端のほうを通って奥の部屋へ行く。小兎が、それを呼びとめた。足を止めた沙那と、草履を脱いでいる千世を順番にみて、小兎は言った。

「あの、屋根裏」

 沙那が首をかしげる。

「え? 屋根裏?」

 小兎はこくりとうなずいた。重々しい様子だ。

「はい。あの、屋根裏から気配がしたこと、ありませんか? なんか、さっきすごく、大きいものがいるような感じがして、なんか、鼠かなとおもったけどそれどころじゃない感じがして……」

 小兎が話すのを聞きながら、千世は沙那のほうをみた。沙那は、口の端をちょっと持ち上げていた。小兎の声は、だんだん弱々しくなっていく。

「なにか気配とか、音がしたことないですか? おれはさっきはじめて気づいたんですけど……。絶対なにかいるっていう感じが、さっき……もうしないけど……」

「いるね」

 沙那がこたえた。小兎の肩が跳ねた。

「え、やっぱり……? でも、ただの鼠とかじゃ、なさそうで」

「そうだよ。すごくでかい。ふたりいるし」

「ふたり? ……なに? その言い方なに?」

「いるよ、上に。ふたり……」

「え? どういう……」

「あ……いまも聞こえるでしょ……。ほら……」

「えっ、まっ、待っていやだ怖い……」

 なにも怖くないのに。沙那は、いたずらをしている。千世は拭き上げられた床を爪先で歩いて、小兎に近づいた。

「えっ千世さんも……? 千世さんも知ってるんです?」

 小兎は手の中の雑巾をしぼり上げている。千世は、とん、とその肩に手を置いた。

「え……?」

 小兎が目を丸くして黙り込む。そんな小兎に、千世は首を振ってみせた。ぱちぱちと、小兎はまばたきする。

「え……」

「ごめん」

 沙那がそばにやってきた。笑うのをがまんする顔をしていた。

「なにもいないよ。さっきはいたけど」

 小兎は沙那と千世をみくらべて、まばたきを続けている。

「緋高と早瀬のふたりがね。なにか知らないけどふたりでじゃれてて、屋根の上にも上ってたみたい」

 沙那がほんとうのことを言ったとたん、小兎は眉間にしわを寄せて叫んだ。

「なんですかそれ!」

 沙那が人差し指を口もとに当てる。

「ほら、ちゃんと寝てるひともいるんだから静かに」

「叫ばせてるの、だれなんですか」

 ちゃんと声を小さくしている。

「ひどいですよ、ね?」

 そう言って千世のほうをみる。千世はうなずいた。すると小兎はすこし得意げな顔をした。でも沙那がくくっと笑うので、小兎はまた、きゅうっと眉を寄せた。

「笑いごとじゃないですよ。怖かったんですからね。音が聞こえたとき、外に助けを求めに行こうかとおもったんですからね」

「来てよかったのに」

「行きませんよ、さすがになさけないじゃないですか」

「なさけないとか気にしてたんだ小兎って」

「それどういう意味ですか!」

 ふくれた小兎と、おなかを押さえた沙那が言い合っているのを、千世はみていた。胸もとにそっと手を伸ばす。ひんやり濡れた衿に指を滑らせると、ざらりと帳面の表紙にふれる。さらっと木の感触がする。

 ここに来たばかりのとき、沙那がこの矢立と紙を持ってきてくれた。そしてここにいることが決まったとき、小兎が紙をまとめて表紙をつけて、帳面にしてくれた。早瀬と千世がそれぞれなまえを書いた紙も、中に綴じてくれている。それから矢立と帳面は、いつもここに入れて持っている。

 書きたくなったら書いてね、と言った。言いたいことがあったら言うって意味ね、と。

 書きたい。言いたい。書きたい言いたいって、なに。

 言えない。声がない。ものしするものだから。けれど書くことならできる。でも、なにを、書けばいい。わからない。どうしたら。どうしたら、つかまえてここに記せる。

「あっ、千世さん」

 小兎が声を上げた。

「濡れちゃってますね、着替えないと」

「そうだよ、着替えを取りに行こうとしたの」

 沙那が手を打って立ち上がり、奥の部屋へ入っていく。それをつい、ぼんやりとみおくっていると、小兎が言った。

「千世さん、怖くないの教えてくれて、ありがとうございます」

 肩をすぼめながら笑う。千世は、うなずいた。小兎はふたたび、床を拭き始めた。千世は隅のほうを歩き、沙那に続いて奥へ向かった。

 もっと、ちゃんと教えられたら、もっと怖くなかったかもしれない。でも、ありがとうと笑ってくれた。着替えを、取りに行ってくれた。いやか、とわかってくれた。

 手を出して、手を取れる。つめたい水もだいじょうぶ。部屋の中はじんわり、あたたかい。いつも、火が灯っている。囲炉裏を囲む。ご飯を食べる。声を聞きながら眠る。ひとりではない。もうひとりではない。

 おひいさま、とだれかが呼んでいた。目のまえが赤くて、黒かった。さむかった。とてもとても。さむかった。でもあのひとが。早瀬が、来てくれた。こちらにみむきもせず、ひたすらにばけものを絶った。そのすがたは、身悶え叫ぶ火みたいに、はげしくうつくしくて、それから。

 わからない。はやすぎて、おおすぎて、つよすぎて、はじめてで。なにも、わからない。つかまえられない。記せない。胸もとから手を離す。

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