二十 陰気面
地面に弧を描き、
「早瀬!」
身体が大きく揺さぶられ、ふっと、宙に浮かぶ感覚。突き刺した刀につかまったまま、眼下に、動きの止まった二太の頭を見る。
二太から打刀が抜け、血が噴き出す。反動で宙返りした早瀬の頭上に、黒い橋を架ける。垂直に立っていた二太の半身が、倒れていく、徐々に傾斜がゆるくなる。その背の上を早瀬は、頭に向かって滑り下りる。その間左手で、脇差を引っこ抜く、刃を肉にぶち込む、黒を撒き散らす軌跡を刻んでいく。右手の打刀の切っ先を、迫る二太の脳天へ向け狙いを定める。脇差の刃が折れる。残った柄をほうり捨てる。
「動くぞ!」
ふたたびの瑞延の声。直後、横方向に二太が揺れ、早瀬は背から投げ出された。受け身を取って転がると、肩にべちゃり、となにかが落ちてくる。白濁して、照りがある。この粘液が体じゅうを覆っているせいで、滑るのだ。臭うがどうでもよい。早瀬は立ち上がり、もう一度尾ひれの方向へ走った。
二太は、ぬめった体をゆるゆるとくねらせている。かと思えば急に頭をもたげ、身をよじって振り返る。血を流す潰れた目と裂けた口、ずたずたに切れたひげ。早瀬がそれらをみとめたとたん、二太はぶんと頭を振った。
一瞬でひげが目前に迫る。背を反らして避け、振り向きざまに叩き落とす。ひとの腕ほどの、重い音がする。二太はどすどすと足踏みをし、早瀬のほうへ体ごと向けた。
背に長く走らせた切り傷、顔にいくつも刻まれた刺し傷、そこから血が、地面にこぼれ出している。治す様子がない。動きも、遅くなっている。さっさと山へ帰ればよい。でもまだだ、まだやる気だ。
早瀬は、先刻よりゆっくりと振られるひげをかいくぐり、二太の顔のほうへ向かう。少し弱ったいまなら、根本からひげを落とせるかもしれない。ひげの邪魔がなくなれば、えぐり出せる。いや、ちがう。えぐり出す必要は、ない。
一瞬、早瀬は動きを止めた。止まってしまった。目の前に、二太の口があった。むせかえるような色を、垂れ流す口が、あった。
どろどろと、渦を巻く。望まぬその色に、染め上げられたひとのすがたを、見る、見える、そのひとが、それが抱えた踏みつけた、無数の、なんのいわれもなくすべてを、うばわれたひとたちの、なきがら、もうくちもきかなくて、せめられることはなくて、でも、ああ、こんな、みんなころされて、みんな、おれの、おれの、せいで────
「早瀬っ?」
瑞延の叫びが頭に響き、つぎの瞬間、背中に衝撃が走った。地面に倒れ込む。とたん、心臓がすくみ上がる。背を蹴られた。かばわれた。
早瀬は身を起こしつつ二太の顎の下へ潜った。力任せにえぐった。降り注ぐ血と、二本の長いひげを避けて立ち、残りのひげも断とうとする。しかし、なかった。口の上にまだ二本生えているはずの邪魔ものは、もうなかった。根元から断ち切られている。ひげを失い、傷だらけになった二太の目は虚ろで、黒を流していた。
****
「そりゃ大変だったな」
瑞延から話を聞き、
「でも、だれも怪我がなくてよかった」
二太が血を垂れ流しながら帰っていったあと、ほどなく空が白んできた。瑞延と
五人で片づけをすませて、
「ほんとうに、怪我しなくてよかった。二太が暴れたのはひさしぶりだったしね。元気もよかったから危なかったよ。みんな無事で重畳だ」
瑞延はそう言ったが、すぐに早瀬を振り向いて困ったように笑った。
「あまり無事でもないかな……」
早瀬は首を振った。
「いえ、だいじょうぶです、わたしは……」
早瀬はいちばんうしろを、四人から少し離れて歩いている。二太のねばねばが生臭いので、そばをうろつくのが申し訳なかった。三人は、こっちに来いとそれぞれ何度か言ってくれたが、まちがいなく臭うので行けなかった。それに先刻は、また血迷ってひとりで突っ走ってしまったのだ。
本気でえぐり出そうとしなかっただけましかもしれないが、でも、また斎丸に迷惑をかけた。瑞延が言うには、突っ立ったままの早瀬に口を開けた二太が迫り、あと少しでぱくりといきそうなところだったらしい。そこへ斎丸が走り込んで、早瀬を蹴り飛ばし二太のひげを切り飛ばしたのだという。面倒をかけた。危ういことをさせた。そもそも、
「まあ、そのぬめぬめは、がんばって洗えばだいじょうぶだよ。害はないからね」
瑞延に力強く励まされ、早瀬は笑ってうなずいた。にこりとして前に向き直った瑞延を、先頭の尽平が呼ぶ。
「瑞延よ、そんなこと言ってるがおまえも若干臭うぜ。多少がんばって洗えよ。斎丸おまえもだ」
斎丸がやや不満な様子ではいと応じて、緋高がくすっと肩を揺らす。瑞延は、なんだと、と言って尽平の背中にこぶしを当てた。
「あのね、二太とやり合ったのだから、臭ってもしかたがないでしょう。あなたも来てくれていれば、わたしたち三人とも臭わなかったかもしれないのに、寝ていたの?」
「だれが寝るかよ仕事中だろ。まあなんとかなるだろと思ったんだよ、おまえらふたりだし、早瀬が行ってるのが見えたし。なんとかならなけりゃ、一足飛びに駆けつけてすぐ片づけてやれるしな」
早瀬はうつむいた。二太の上に飛び乗った足も、よごれている。
「そうか。いろいろと厚く信頼しているようですばらしい」
「ふん、あたりまえだろうが」
ややわざとらしいやりとりをしているふたりのうしろで、斎丸と緋高が顔を見合わせている。緋高が笑った。斎丸の表情はわからなかった。
尽平は寝ていたとか寝ていなかったとかではなく、櫓を空けないためにひとまず残っただけだ。指笛が聞こえればまずは、ふたりいる櫓からひとりが駆けつけることになっている。
腹減ったなぁ、と尽平が気の抜けた声を出した。瑞延がくすりと笑った。
「そうだね、腹減った」
「早くあったまりたいですね」
「ほんとうに」
「だめだおまえらは、まず身体を洗え」
「よいではないの。ほんとうは鼻、慣れてきているんでしょう」
「
「あなたはやっぱり慣れているんだね」
「おれも慣れてますけど、洗ったほうがいいですよ。取れなくなっちゃう」
「ああ、緋高が言うならそうしようかな」
「尽平の言うことも聞けよ、なあ斎丸?」
「ええ……」
「うわ、なんだよその顔!」
ほのかな日差しが、四人を照らしている。早瀬はうしろからそれを見ている。四人はただ、お喋りしながら歩いているだけ。だから、ずっと、こうでいてほしい。
そのときふと、緋高が振り向いた。笑っていた。その朗らかな笑顔を、分けようとしてくれる。
「ごめんなさい────」
緋高が目をみはる。瑞延がくるりと振り返る。尽平も首をひねって早瀬を見る。早瀬ははっとして立ち止まった。脈絡のないことを言いだしてしまった。口から勝手にこぼれていた。そんなことを言うつもりはなかったのに。
「すみません、なんでもありません」
早瀬は笑みを浮かべてみせた。
「早瀬……?」
緋高が一歩、近づいてくる。早瀬はあとずさった。ためらいながら足を止めた緋高から、目をそらしてうつむく。さらにうしろへ下がろうとすると、つまずいて膝がかくりと折れた。崩れ落ちる。瞬間、ざっと足音がして手首を強く掴まれた。力の抜けた身体を荒く引き上げられ、そして突き放される。地面に転がった直後、大きく頭が揺れた。胸倉を鷲掴みにされていた。斎丸だった。光を背にし、塵屑塵芥を見る表情を浮かべ、早瀬を見下ろしている。
「おい、斎丸……」
近づいてきた尽平が肩に置いた手を振り払い、斎丸は早瀬を、視線でじりりと焼く。早瀬がなにも言葉を出せないうちに、口をひらく。
「おい貴様」
鋭い声は、早瀬を脳天から刺した。
「貴様、その顔は、なんだ」
早瀬は、口を開けた。ひゅ、と喉が鳴った。斎丸は頬をわずかに引きつらせ、首を傾ける。
「言ってみろ。その顔は、なんだ」
その、顔。
「四六時中貼りつけているその陰気面は、なんなのかと、聞いている」
緋高が斎丸を呼ぶのが聞こえた。斎丸は振り返らない。早瀬をつかまえ、見下ろしたまま。
「この世の不幸はすべて、おのれのものとでも言いたそうな面だ」
鼻を鳴らして目を眇め、口の端を引き上げる。
「その、陰気面。死ななければ治らないのだろう。ちがうか」
見下げ果てたと言いたげに、わらう。
「気色わるい。怖気がする。反吐が出る」
ぐ、と衿が締められる。
「すべてがおのれの責だと思っている」
布が裂ける、小さな音がする。
「そうではないか。ずいぶんと、おめでたい頭をしているのだな」
その声は、冷えては、いない。
「おまえ、おのれが因果の因にならなければ、気が済まないのだろ」
煮えたぎっている。
「この世でも作ったか」
煮えたぎっている。
「そしておのれを軸に、回しているのか」
煮えたぎって。
「すばらしく尊いなおまえは」
内はきっと、ただれてぼろぼろで。
「かみさまかなにかのつもりらしいが、死ぬほどすてきなことを教えてやる」
斎丸は早瀬をがくんと揺さぶり、引き寄せる。
「おまえは、ただのひとだ」
ただの。
「無知、無能、無力、この世になんの力も及ぼさない、わからないか。おまえは軸ではないし、なんの因でもない。思い上がるな。このくそ野郎が」
投げ出すように、衿から手が離される。早瀬は地面に倒れ込んだ。背中に、声が降ってくる。
「生まれ直せぼけ。かす。ごみくずちりあくた」
「それは変だ斎丸っ」
緋高が駆け寄ってくる音がする。
「おい、おかしいだろ。さっきはただのひとだって言ってたのに。なんかひとじゃなくなってるけど、どういうつもりだ」
やたらとまじめな声音で、緋高は斎丸に詰問している。早瀬は地面を見つめたまま動けなかった。斎丸の返事は聞こえない。
「だいじょうぶか早瀬?」
そばにひざまずいた緋高に、肩をたたかれる。早瀬はやっと顔を上げた。緋高は途方に暮れたような顔をしており、その肩越しに、背中を向けた斎丸が歩いていくのが見えた。尽平と瑞延の横を通り過ぎ、遠ざかっていく。
「あれは、ええっと……」
緋高は口を曲げて黙り込む。尽平が早瀬の腕を掴み、引き上げた。早瀬はなんとかおのれの足で立った。
「まあ……あんなのはじめて見たな」
尽平はそう言ってふっと笑みをこぼす。歩み寄ってきた瑞延もうなずき、早瀬の頭にぽんとふれた。
「ぜんぶ言わせようと思って、止めなかった。すまなかったね。でもまあ」
帰ろう、と瑞延はおだやかに言った。四人で歩きだした。早瀬は、小さくなった斎丸の背中を眺めて歩いた。
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