十九 途次のこと
「ごめん、そんな顔してほしかったわけじゃなくて、一緒にやってたらいつか話すだろうから、いまでもいいかなって思っただけだ。みんな知ってるし」
「住んでた村に掟があってさ、それに背いちゃったから押されたんだよ。そのあと追い出されて、ここに来たんだ」
背筋がぞくりとする。焼き印を押されると、火傷がうまく治らずいのちを落とすこともあると聞く。そんな罰を与えなければならないほどの、だいじな掟だったのか。詳しく聞こうとは、思わなかった。右目のあたりが痛いように思った。早瀬はやっとのことで、そうかと相槌を打った。
「うん。でもそういうやつでもなれて、そこそこひとの役に立てるのが、
緋高は早瀬を見やって笑う。早瀬はうなずいた。緋高とおなじように、柵にもたれかかってみた。下に墓場が見える。
「罪滅ぼしにはならないけど……」
緋高がぽつりとこぼした言葉が、胸に潜り込んでくる。じわじわと、広がって疼く。
「おれも……」
緋高がかるく目をみはる。早瀬は小さく笑みを浮かべて言い直した。
「わたしはひとを守れると思ったから、傀廻しにしてもらった」
守れると思ったから。
「してもらった?」
少し間を置いたあと、緋高が眉を寄せて首をかしげる。早瀬はちょっと困った。してもらったという言い回しは、とくに意図したものではなかった。頭を掻きながら考えた。
「えっと、師匠とまわりのひとたちが、修行つけてくれて、たくさん助けてくれたから」
なんとか言葉にすると、緋高はそういうことか、とやわらかい声で言った。柵に手をかけ、身を乗り出して空を見上げる。
「ならおれも、『してもらってる』だなあ。ここに来てからいっぱいお世話になった」
ゆっくり、噛みしめている。早瀬は緋高の真似をして伸び上がった。空は、深い藍色、星屑がちらちら舞っている。青白い月のまわりは藍がうすらぎ、少しまぶしい。
櫓には屋根がついている。見ないと見えない光。緋高は、上を見たままで喋った。
「いまはいないんだけど、すっごくおっかねぇ師匠がいてな。そのひとに修行をつけていただいたんだけど」
すっごくおっかねぇ師匠。早瀬は笑ってしまった。しかし緋高は、おおまじめな顔をして言う。
「いくら血を入れたって素地がへっぽこでは、いかんまったくいかん、
「えっと、どなたですか?」
「ん、おれたちの師匠。だから最初はとにかく走れって言われた。ものすごく……日が出てるあいだはずっと走ってた気がする。で、ときどき師匠が太刀持って襲ってくるんだよ」
「おっかねぇ」
「そうだ。何回か、たぶん見てはいけないものも見たよ。すごくきれいな川みたいなところで、花が咲き乱れてた」
「生きろ緋高」
「生きてるよおかげさまで」
緋高はおかしそうに言って、柵から身を乗り出した姿勢をもとに戻す。ふと、気づいたことがあって、早瀬は緋高を振り向いた。
「おれたちの師匠って言ったか?」
「ああ、うん」
緋高はなんだかうれしそうな顔をする。
「おれたちの師匠だ。
「そうなのか」
緋高のどこか得意そうな様子を見ていると、胸の奥からほっこりとあたたまる心地がした。
吊頭所は、もうずいぶん前から、
「わたしもお会いしてみたかった」
緋高が目を丸くする。
「その師匠と、奥さまは、すてきなかたたちだったんだろうって思う」
ここの吊頭所のひとたちが、気心の知れた仲だということはよくわかる。かといって互いに踏み込みすぎることもなく、それぞれの持つものを尊び合っているように見える。いまはいないふたりのもとで、作ってきた空気なのだろう。
まだ戦っているところを見たことはないが、みんな手練れだという感じがするし。斎丸に締められたことをちらりと思い出す。ものすごい力だった。
「ありがとう、なんかうれしい」
緋高はそう言って、少し照れくさそうに笑った。
「でも、奥さまにはもう会えないけど、師匠には会えるかもしれない。奥さまがなくなってから、師匠は旅に出たんだよ。たとえじゃなくてほんとに」
緋高はにやりとする。
「いまどこにいるのかわからないけど、もしかしたらいつか帰っていらすかもしれない。そしたら早瀬もしごいてもらえるぞ」
せっかくだけれど遠慮したい旨、述べようとしたときだった。ぞっと鳥肌が立ち、早瀬は振り返った。聞こえた。
「あー……、来やがったな……」
緋高がつぶやく。細められた左目が、早瀬を見ていた。早瀬はうなずいてみせ、柵を両足で一気に乗り越え下へ、身を躍らせた。
一瞬ふわりと、羽織の袖が広がる。地面に降り立ち、走りだす。櫓に梯子はあるが、わずらわしかった。
「おい早瀬!」
上で緋高が叫んでいる。
「おれが行くって! 言おうとしたのに! このばか! 死に急ぎ!」
早瀬は走りながら、先刻緋高がずり下げた布を一度取り去った。頭巾をうしろへ払い、顔に布をかけ直し頭のうしろで紐をきつく縛る。頭巾を深くかぶる。
さきほど聞こえたのは、指笛だった。傀がやってきて、そこにいる者だけでは対処できないと判断したとき、鳴らすことになっている音だ。西からだった。今日は斎丸と瑞延がいるはず。ふたりいても帰せないらしい。
緋高が櫓の上で、まだなにか声を上げている。北側を空けるわけにはいかないので、ひとりは残らなければならない。おれが行くって言おうとしたと、言っていた。ばか。死に急ぎ。
そうだった。傀などでなくても、血など飲まなくても、前からこういうことをしていた。すぐに突っ走って、それで、なにかを守れるとか。信じたくて。
墓場を突っ切る途中、もわりと生臭さに押し包まれた。思わず顔をしかめつつも、打刀を抜く。そして見た。墓場を出てすぐの、ひらけた場所に。いた。足が生えた、大きななまずのすがたの傀。
二太は村のほうを向いていた。村からまっすぐ飛び出してきた早瀬は、正面から二太と向き合うかっこうだ。二太は四本の足で立ったまま、なまずの体だけ、狂ったように横方向に波打たせている。水から掴み出され暴れる様子に似ている。唇なのか知らないが、分厚い唇の上下を合わせたり離したりして、濁った両目をきょろきょろさせている。
その行く手を阻むように、瑞延と斎丸がいた。二太が激しく動き続けているため近づくことができていない。体の動きというより、口のそばから生えたひげの動きのためだ。
長い四本のひげは、それぞれがものを考えているかのように、ふたりを襲っている。足もとを薙ぎ、頭上へ降る。首を刈りそうに、胸を突きそうに伸びる。ふたりはそれを飛び回って避けている。ときおり、黒い血が飛び散る。しかし傷は浅く、すぐに塞がるのだろう、見えない。
早瀬は無言でうしろへ下がった。いま、二太は立ち止まっているが、いつ進みだすかわからない。このなまずを村へ入れないためには、注意を引きつけ、飽きるまでつき合ってやらなければならない。二太は、しばらくひげで遊んでいれば、ふらりと帰ることが多いと聞いた。しかしふたりが助けを呼んだということは、もう長くこの状態が続いているのだろう。忌々しい。刺激が足りないのだ。
早瀬は二太の正面に立っているが、一度も目が合っていない。二太は、墓に囲まれた早瀬のほうを見ていない。ひげの攻撃をかわし続ける瑞延と斎丸を、しつこくからかっているように見える。つまり気を取られている、裏を取れる。
早瀬は駆けだす。二太に向かってではなく、二太と相対した墓場を横切るように、走る。遠ざかる。ちらりと振り返る。尾ひれまでが視界に収まる位置。早瀬は向きを変え、墓場から飛び出した。
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