十七 倒国の美女
ここは昼間でも、ひっそり暗く、薄寒い。城の片隅、岩に張りつくように設けられた牢屋。中に、男がひとり、立っている。背を岩肌に預けて腕を組み、顔をうつむかせ。しっとりとした、薄闇に浸って。ただ、黙している。
明かりに暴かれる、そのすがた。じっと見つめる。うつくしい。うつくしい、男だ。
すらりと、上背があり、釣り合いの取れた体つきをしている。その引き締まった線を際立たせるのは、身に着けた黒。筒袖と括り袴、手甲と脚絆と足袋、うしろへ垂れた頭巾、すべて、黒に揃えてある。体を覆ってある。だから、長い指も、しなやかな首筋も、深く窪んだ鎖骨も、黒の中にちらりと、のぞいているだけ。それがなんだかもったいなく、けれどだからこそ、ずっと見つめていたくなるのかもしれない。そうだ。この男は、見つめていたくなるのだ。ひきつけられるのだ。
総髪がほんの少し乱れこぼれて、額にかかっているのも、ほの白くなめらかな頬に、睫毛の影が落ちているのも、薄い唇に力がこもらず、ふとなにか、ささやきそうでいるのも。
いまにも千切れそうな組紐を、手首に巻きつけてあるのも。
すべてどうしようもなく、衣子をひきつける。格子戸に鼻をくっつけそうになりながら、見入る。あどけなく清雅に、つやを帯びる、この男。これは、ばけもの。
この傀はとても、きれいだ。わたしも傀になるのなら、きっとこんなふうになる。衣子は、はじめてこの傀を目にしたときから、そう確信している。
「おい衣子」
突然、うしろで声がした。
「なにやってんだよ」
小さく抑えられた声は、聞き慣れすぎたものだった。なぜいま来る、お邪魔なのだ。衣子はうんざりしながら振り向いた。
そこに立っているのは、小柄な若い男。
「なにさ。あんたこそなにしに来たの」
声を尖らせて言うと、徳彦は童顔をしかめて人差し指を立てた。
「声がでかいんだよおまえは……。起きたらどうすんだよ」
ささやくように言って、牢に向かって顎をしゃくる。
「うるさいね、だいじょうぶだよ」
衣子は声をひそめるなどしなかった。すると徳彦は眉をひそめて衣子の手首を掴む。引っ張られ、衣子は牢屋から離れた。振り向く。格子戸の向こうの傀は、少しも動いていない。遠ざかっていくと、そのすがたは闇にとけて見えなくなる。格子戸の向こうが、黒ばかりに見えるようになる。
あの傀がいる房の、からっぽの両隣が見えるようになる。牢屋を囲む年老いた木々と、寡黙な岩の壁が見えるようになる。木は牢の屋根へ突っ伏すように枝を広げ、岩はまだらに苔むして、秘密めいているというよりただ、陰気臭い。目に映る湿っぽい景色と、手首をとらえた豆だらけの手の感触が、衣子を徐々に引き戻す。
藁葺屋根のついた門をくぐれば、日の光がまばゆかった。目を細めていると、手首から手が離れ、徳彦がくるりと振り向く。まじめな顔をしていた。徳彦は言った。
「おまえさ、近頃昼間から、あれのことずっと見てるよな」
衣子は眉を寄せた。
「勝手でしょ……」
「ほんとに、いま起こしちまったらどうするつもりだよ?」
衣子が言い終わらないうちにかぶせた徳彦は、どうやらちょっと怒っている。衣子はため息をついた。
「起きないよ」
「なんでそんなことわかるんだよ? 傀だぞ?」
「わかるよ。
「なんだよそれそんなこと関係ねぇよ、傀は傀だ。いつなにが起こるかわかんねぇだろ」
「
衣子が言葉を投げつけたとたん、徳彦は口を開けたまま黙り込んだ。
「四郎さまのことも、傀だからなにが起こるかわかんねぇとか、おんなじように言えるの」
衣子が迫ると、徳彦は一度口を結んで、ぼそりとつぶやいた。
「いまは、四郎さまのこと言ってるんじゃねぇ。四郎さまは特別だろ」
衣子は、徳彦からふいと目をそらした。そのとおりだ。四郎は特別だ。四郎はこの十三年間一度もひとを襲っておらず、いつも、この城の主のそばにいる。あの傀、晴康はとてもうつくしいが、四郎とはちがう。それなのにおなじ土俵に乗せるような言い方をしてしまったのは、徳彦の言葉がまちがっていないから。うまく反論できなかったから。
傀は、いつなにをするかわからない。とくに昼間は、起こすと殺される。そしてそれは、きっとおのれだけではすまない。わかっているけれど。
「やめとけよ」
徳彦は言って衣子から行灯をひったくり、先に歩きだした。衣子はすぐにそのあとを追いかけた。
「待ちなよ。なんで来たの。用があったんじゃないの」
徳彦は振り向きもせずにひらひらと手を振る。
「ねぇよ用なんか」
「なにそれ」
「たまたま通りかかっただけだ」
「そんなことある? あんたも晴康が見たかったの?」
「ばかか」
「ばかはあんたでしょ。昼間から散歩してないで寝とけばいいのに。仕事中寝るよ」
「おまえがな」
「わたしは平気だから起きてるんだよ。今日はこれから用事だし」
そして昼間に眺める晴康は、夜に見張るときとはまたちがうのだ。夜は艶麗なばけもの。でも昼は、そうではないなにかが、ほろりとこぼれ出す。それを一度のぞき見てしまうと、もう、忘れられなくなるのだ。
用事か、と小さくつぶやいた徳彦はそれでもすたすたと歩き、館のほうへ向かう。この城や、下の町にいるひとびとがお方さまと呼び慕う、
「おれは寝る。つき合ってらんねぇ」
徳彦がほうり捨てるように言うので、衣子はすぐさま言い返した。
「なににもつき合わせてないけど。つき合わせたこととかあった?」
「うるせ」
板葺きの切妻屋根の建物が見える。それを囲んだ板塀に細くあけられた隙間から、徳彦はするりと中へ入る。衣子はそれに続いた。入ってすぐ見える厩の横に、小屋がある。簡素だけれどしっかりしたつくりの小屋は、衣子と徳彦が寝起きする場所だ。
でも徳彦は、この小屋には入ってこようとせず、寝るときは厩で転がっている。お互い二十にもなるし、気を回しているらしいことは、さすがにわかる。でも十一年も毎日毎日、顔突き合わせてきたのにいまさらだ。
照は、ふたりともそんなところにいないで離れを使えと言う。けれども、主とおなじようなところで寝るのは恐れ多かった。まして寝るのは昼間だし。
徳彦は、黙りこくって厩の中へ突っ込んでいった。ほんとうに、寝床がそこでいいのかは知らない。なにを言っても聞かない。衣子は顔をしかめた。なにか胸糞わるい、お方さまのところへ行こう。そのあと町で、逢引きである。衣子はきびすを返し、母屋のほうへ向かった。
****
けれど父も母も、衣子を暮らしの糧にするためだけに売ったのではない。衣子が生きていけるようにしようとしていた。ちゃんとしたところに売れば、働く代わりに食べるものと着るものは与えてもらえる。いつかゆとりができたら、買い戻すこともできる。
その年は、おなじようなことをしている家がたくさんあった。徳彦のところもそうだった。照のそばで一緒に働くことになり、おない年ということもあって気心の知れた仲になった。いや、気心知れているというか、徳彦がとろくさいので、そばについていないと危うかったのだ。それでしかたなく、一緒に過ごすことが多くなったというだけのことかもしれない。
衣子が暮らすようになった暁城の、そのふもとの町は、昔からにぎやかな場所として知られていた。傀について独自の考えを持ったひとが、ひとびとを集めて作った町だ。上に立つひとはいるけれどなにかあったときに仲裁をするくらいで、領主の支配からも外れている。外からわざわざものを売りにくる商人や、贈りものをしてくる隣国の主などもおり、良庫国の中で栄えてきた。
わたしたちは四郎党だと、特定のひとびとが声高に叫んでいるわけではない。暁城のふもとの町に住んでいれば、広くそう呼ばれるようだ。かといって、そのような名で呼ぶな虫唾が走る、とか思っているひともおそらくいない。
暁城下のひとたちは、城を見上げつつ日々の暮らしをしているだけだ。その城に傀がいることを受け入れ、多少なりとも親しみを持っているのは、特別かもしれない。けれど、もっと野蛮な傀がいる山の下にだって町はあるので、さほど奇特なことでもない。
城下には、昔から住んでいるひとも、居場所を求めてやってきたひとも、衣子のように働きにきたひともいる。町を作るきっかけになった教えは、信じているひともいれば、そんな考えがあるのね、くらいのひともいる。町の外との交流もある。衣子は、おのれが四郎党だとか、傀になるのはどんなひととか、考えたことはあまりなかった。ただ照と四郎のそばにいるだけだ。
衣子や徳彦が暁城に来て、間もないころのことだった。戦が起こった。古弓家の忠実な臣たちが、謀反人に報復しようとしたのだ。城下のひとびとを率いて蜂起した。不作で不満が溜まっていたので、協力するひとが多かった。衣子と徳彦は、戦に出てはいないが支度を手伝った。
最初は鞘野の代官を殺めて屋敷に火をつけたり、名のある者の首を取ったりなどしていたのだ。けれどだんだん劣勢になった。最後は暁城に立てこもろうとしたけれど、その前に大将だったひとが討ち取られ、戦はおしまいになった。古弓家の臣たちは、処刑されてしまった。
そのころは、いまの当主の父親が鞘野家を束ねていた。鞘野は、「反乱」の温床となったうえ傀を持っている四郎党を、どうしようかと考えているようだった。
そのとき照は、四郎党は弱い者の集まりだと鞘野に訴えた。時代の流れのわからない臣たちに脅されて巻き込まれただけであり、関わっていない者もいるし、おのれも関わっていないと言った。鞘野は、四郎党を許した。戦のあとから、四郎が行方知れずだと思っているらしかったので、怖かったのだろう。
四郎がまだ生きているのかいないのかもわからず、そもそも傀の動きなど計れない。でもそんな傀を従えて、照はこの城に入った。しおらしいことを言っているのに責め立てれば、なにをするかわからないのではと、恐れたのだろう。四郎を蜂起に使うことだってできたかもしれないのに、それをしなかった意図についても、いろいろと勘繰ったのだろう。ともあれ、そのままほうっておかれることになった。
そのあとしばらくして、噂が流れるようになった。四郎党がさらなる報復のため、外からさらってきたひとに四郎の血を飲ませ、傀を増やしている、という噂だ。ばかばかしい。そんなことは、いまも昔もしていない。傀になるとならないとは制御できることではないし、そもそも、傀の数を増やしたり減らしたりなどはできない。国の内でも外でも、四郎党という集団の評判を落としたいがための、鞘野の策だろう。近くの村のひとたちは、そんなばかなと思っているはずだ。隣国は、必ずしもそうではなかったようだけれど。
鞘野は古弓家に謀反を起こしてから、伝統ある家が治めるまわりの国々に睨まれていた。けれど五年ほど前に、反逆した張本人である当主が死んで代替わりしてから、新しい当主がその国々との関係をよくしていった。四郎党の悪評を広めたこともうまく働いたのだろう。北の
この町では、四郎党と言われ始めるより前から、東の隣国を治める
そして照はいま、鞘野の現当主が持ち掛けてきた会談の誘いに応じようとしている。かの当主は、家を継いでからずっと、照に書状を送りつけ続けてきた。話し合いをしようと言って。いままで互いに、なにをするかわからない状態でやってきたけれど、それはもうやめようということらしい。非常に熱心。まるで恋文だ。
この城には、一年と少し前に迷い込んできた晴康がいる。傀は住処が決まっているけれど、まれに迷うらしい。そしてここには、四郎がいる。四郎と、照は、通じ合っている。衣子はそう信じている。けれど照は、話し合おうと言う鞘野に、こたえようとしている。もう、争いなど望んでいないから。それなのに。
切妻屋根の建物の縁に、衣子は慕わしいひとのすがたを見る。しどけなく横座りになり、細い手を膝の上に投げ出して、そこにいる。蘇芳色の打掛を、羽衣みたくふうわりまとい、つやめく黒髪のひと房を、その華奢な肩にこぼしている。もの憂げに伏せられた睫毛が、ほんのかすかに揺らぐさまは、まるで黒蝶のはばたき。紅をほんのわずかにさした、あでやかな唇は、さながら咲き匂う花のひとひら。色白のおもてに、よく映える。
あのひとは、この世でいちばん、うるわしいひと。買い戻されることのなかった衣子を、ずっとそばに置いてくれる。やわらかに、微笑みかけてくれる。まばゆいほどに、やさしくはかないひと。
「どうした、衣子」
近づく衣子に気がついて、照が言う。冬の朝日を思わせる声に、衣子は立ち止まりこたえる。
「はい、これから町へまいりますので、お伝えにまいりました、お方さま」
「そうか」
照はこたえて、ふっと笑みを浮かべる。そのたびに、こぼれ落ちる光を残らず、拾い集めることができればいい。代わりに衣子は、にこりと笑い返した。
「はい。それでお方さま、そんなところにいらしてお寒くありませんか。お風邪を召されては大変です」
すると照は、ほそやかな指を口もとへやって、笑い声をもらした。打掛の下の、かさねた小袖の胸もとに、その指先が移る。
「案ずることはない、なかなか厚着をしている。それに今日はよい日和だろう」
空を見上げると、雲もかからず、青くすきとおっていた。鳶が高く歌いながら、大きな円を描いて舞っている。
「そうですね。よいお天気です」
「そうであろう。ところで衣子、徳彦は寝ておるのか」
衣子は眉間にしわを寄せ首を振った。
「存じません」
「どうした、また喧嘩でもしたのか」
「いいえしておりません、では行ってまいりますお方さま」
衣子は照に一礼すると、さっさとその場を去った。うしろで照が、なにやら笑っているような気配がする。そんな照に、だれかが声をかけるのが聞こえた。二、三年前に入ってきて照のそばにいる、ていだ。寡黙で、年のわからない見た目をしているのだけれど、よく気がつく。ていもきっと、衣子とおなじように照が寒くないのか案じているのだ。
****
城から下りて、衣子は町を歩いた。平らに整えられた道の両側に、板葺きの屋根に土壁の建物が並び、ひとが出入りしている。ふわり、暖簾が翻る。薬屋、小間物屋、油屋。四角い下地窓のひとつから、なにがあったのかけらけらと大笑いする声が聞こえてくる。つられて、ひとりなのに、にまりとしてしまう。
にぎやかで、どこかのどかな町。いろいろなひとがいる。地面に敷いた筵の上で野菜を並べているひと、壁なしの掘っ立て小屋で魚が新鮮だと叫んでいるひと、屋台を構えて味噌入り饅頭を包んでいるひと。店主と値切りのたたかいをしているひと、天秤棒を担いで売り文句を響かせるひと、たらいを抱えて中をのぞき込みうれしそうなひと。いきいきした景色だ。その中にいると、ひとびとのぬくもりが、あざやかに迫ってくる。暁城下は縮んでしまったとはいえ、まだ、活気をすっかりなくしたわけではない。衣子は、口もとに浮かんだ笑みが、薄まるのを感じつつ歩いた。
そしてふいと角を折れ、暖簾をくぐって茶屋に入る。土間から上がった板の間に、ちらほら見知った顔がいた。看板娘の
「いらっしゃい衣子、いつものお団子でいい? 二皿ね!」
「うんおねがい、二皿」
衣子がこたえると、志乃はこくんとうなずき、楽しそうな足どりで奥へ戻っていった。衣子は苦笑しながらそれを見送り、板の間に腰を下ろした。
「まあ、『逢引き』だからね……」
つぶやいたとき、ちょうど入り口に影が差す。お相手が、現れたのだ。衣子はそのひとに、ひらりと手を振った。遠いところご苦労。やってくれたね。
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