十六  境界

 横の店から飛ばされてきたざるが、足もとに転がる。早瀬はやせはそれを拾って、店のひとに渡した。お礼を言ってもらい、笑顔でこたえてまた歩きだす。まっすぐ歩いていく。

 千世ちせさま。覚えず、そう言っていた。澄み渡り潤む瞳と、細くしなやかな指先を、思い出していた。千世に対して、早瀬はなにもできない。けれど、思い出していた。

 早瀬は道の端に立ち止まった。両側に並んでいた店が途切れ始め、まっすぐ続いていた道がくねり始めていた。正面に、高い山がぼんやりかすんで見える。頂上から段々に、曲輪が設けられていることがわかる。建物も、かすかに見える。高い櫓らしきものが立っている。

 あれが、暁城あかつきじょうだ。古い時代の廃城に、くぐつについて「おもしろい」考えを持つひとたちが集まり、拠点にした。長らく、見上げて尊ぶものだったのが、十三年前の鞘野さやの家による謀反のあとから変わった。四郎党しろうとうの根城になった。鞘野家に歯向かい、そして傀を増やしてきた。その集団が、その頭目が、あそこにいる。

 そしてあれも、あのどこかにいる。旅の途中で会ったひとの話を聞いて、確信した。あれはあそこへ、暁城へ逃げたのだ。たくさんの、あまりにもたくさんのものを、壊し、侵し、奪い、逃げた。そうだ。

 そんなことになったのは、おれのせい。おれだ。そんなことを、させたのは。

 あのひとは、強かった。傀など恐れなかった。いつもしゃんと、背筋が伸びていた。いつも笑顔で、名前を呼んでくれた。いつもひとを、たいせつにしていた。あのひとは強かった。

 言っていた。傀になるくらいなら、死んでしまうと。だから、もう二度と、奪ってしまうことのないように。

 殺したかった。そうしなければ、生きられないと思った。





****





 城に背を向け、町を出て、早瀬は吊頭所ちょうとうしょへの道をたどった。近づいてくると、足が鈍った。だれにもなにも言われていないのに、どの面さげて戻るのか、とか思うのだ。田畑のあいだに続く踏み固められた道を、早瀬はのろのろ歩いた。

 ふと、うしろを振り返ろうとして、やめておく。吊頭所を出たころからずっと、うしろをつけられているように思うのだが、かまわない。だれかに見張られているだけだ。背中など刺すつもりなら、長くつきまとうことはないはず。ひとけのないところも、無事に通り過ぎてしまっている。もっとうまく、気づかないように尾行することもできるはずだ。あえて気配を出し牽制しているのだろう。

 おそらく鞘野さやの尚孝なおたかが、見張りのひとをよこしたのだ。暁城に乗り込まないのかどうか、見られている。ほうっておけば、なにをするかわからぬ者だと考えられている。あの吊頭所のひとたちも、お目付け役に任じられているのだろう。無理もないことだ。ほっつき歩くことできっと余計な手間を取らせている、でもおとなしく寝ていることができない。

 道の端の干からびた草を、風が揺さぶっている。つめたい。息を吸うと、鼻の奥が痛い。

「あ?」

 急に近くで声がした。びくりとして路傍の草から目をはがすと、正面に、着古した小袖すがたの少年が立っていた。道はまっすぐだからだんだん近づいていたはずなのに、まったく気がついていなかった。

 少年は十歳くらいに見えた。小柄だが、どこかおとなびた様子だ。目を眇め、この視野狭窄野郎は何者か、といったふうに早瀬を眺めている。しばらく経っても少年がいぶかしげな様子のままなので、早瀬は慌てた。

「あの、申し訳ない、よそ見と考えごとをしていて……」

 そこまで言って早瀬は、少年が背中に赤ん坊を背負っていることに気づいた。赤ん坊は麻布で丁寧にくるまれて、気持ちよさそうに眠っている。あいらしくて、早瀬はついそちらに気を取られた。

「おい、兄ちゃん」

 少年がとがめるような声を出したとき、赤ん坊がぱちりと目を開けた。この子は美人になるねとか、少年に向かって言おうとしたときだった。赤ん坊がくしゅっと顔を歪め、つぎの瞬間泣き出した。

「えっ? うわぁあえぇっ?」

 うろたえておかしな声を上げてしまう。早瀬はあとずさった。もしかして、泣かせたのだろうか。顔だけで。

 赤ん坊は顔を真っ赤にし、背中を反らすようにして泣いている。その小さな身体からどうやってというほど、大きな声だ。赤ん坊の泣き声があまりにひさしぶりで、そんなに泣いてだいじょうぶなのかと思ってしまう。早瀬は、意味もなく前に進んだりうしろに下がったりした。

「ほらぁ、まったく、そんな泣くんじゃないよ」

 動揺しきりの早瀬に対し、少年は落ち着いていた。慣れた様子で赤ん坊に声をかけながら、身体を揺らしている。ちらりと早瀬を見て言った。

「近づいてくれるなって、言おうとしたんだよ」

「すみません」

 咄嗟に謝ると、少年は眉を寄せた。

「すみませんじゃなくてさ。これ、妹なんだけど。辛気臭い顔見たらすぐ泣くんだよね」

「辛気臭い顔……」

 早瀬は頬をさわってみた。それだけではよくわからないが、たしかにいままで辛気臭いことばかり考えていた。近頃とくに、ずっとそうだ。でも、ひとを泣かせるほどだったなんて、少し怖くなってしまう。鏡など見たほうがよかろうか。

「妹さんを泣かせて……申し訳ない……」

 顔に手を当て半ば茫然としたまま詫びると、少年は目を丸くした。そして、ははっとかろやかに笑った。

「え、なに……」

「冗談だよ」

 少年は言って、にやっと口の端をつり上げた。早瀬はわからなかった。

「だから冗談だって。すぐ泣くっていうのはほんとだけど。あと、兄ちゃんの顔が辛気臭いのもほんと。なあ、かや」

 少年がにこにこしながらあやしていると、妹の泣き声はしだいにおさまっていった。とりあえずほっとした早瀬を、少年が見上げる。

「兄ちゃん見かけない顔だね。もしかして最近来たっていうれびとさん?」

 早瀬は思わず身を引いた。少年は首をかしげて、平然とした様子でいる。

「山の中の村が、やられちゃったんだろ。その村からひとを連れて離れびとさんが来たって、みんな言ってるからさ。そんでここにいることになったって。村に入ってきたの、見たひともいるよ。黒くておっかなかったってさ」

「そう、か……わるいことしたな……」

「べつに。で、兄ちゃんそれなんだね?」

 少年の口調は軽妙なままで、怖がる様子はない。早瀬は戸惑いながらうなずいた。

「そう、それだ」

「そっか。大変だったな兄ちゃん」

 少年は北の山のほうをちらりと見やった。妹は泣きやみ、潤んだ目をぱちぱちとまたたかせている。世の中にはかなしいくらいにきれいなものがある。

「いや、わたしはそんなこと……」

「なに?」

 少年が怪訝そうでもなく聞き返すので、早瀬はさらに拍子抜けしてしまった。ふっと、笑みが浮かんできた。

「なんでもない、ありがとう。やさしいんだな」

「そうだね」

 少年はさらりとこたえた。背中の妹を振り返りながら言う。

「おれ清多せいた。妹はかや。兄ちゃんは?」

 少しためらったが、早瀬だとこたえた。清多は早瀬に向き直り、にっと笑った。

「じゃあな早瀬の兄ちゃん、帰って寝ろよ」

 どちらが兄ちゃんなのかわからないことを言い、清多はかるい足取りで早瀬の横を通り過ぎていった。かやは首をひねり、どこかふしぎそうな顔で早瀬を眺めていた。早瀬が恐る恐る手を振ると、ふいと顔をそむけた。

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