十四  休む間もなく

 いきなり、けたたましい音がして、目のまえの木戸がこなごなにくだけた。ぽっかりあいた穴から部屋に入ってきたのは、とても大きな犬だった。口からひとを、ぷらんとぶら下げて、目からよだれを、てろてろ垂らしていた。

 犬は入ってくるなり、くわえていたひとを吐き出した。そして部屋の中で、めちゃくちゃに暴れ回り始めた。ひっくり返って、ごろんごろん転がったり、床を掘ろうと、がりがり削ったりして、それで、立ち上がって噛みついて引きちぎった。

 そのうしろから、またなにか飛び込んできた。それはひとのすがたをしていて、長い髪をばさばさ振り乱していた。それも、入ってくるなり床に倒れ込んで、じたばたのたうち始めた。甲高い声でなにか叫び、這いずりながら外へ出ていった。

 腕を引かれた。逃げるよと言っていた。壊されたのとは反対側の戸から、外へ出た。あまいみたいにくらかった。うしろから、声がいくつも聞こえていた。叫んでいた。いのちだから。

 絶対止まらないでと、言われた。走ってねと、言われた。走って。走って。止まらないで。だから、止まらなかった。走った。とけてしまいそうなのに、とても、さむかった。さむい。さむい、さむい。


千世ちせ?」

 声がして、顔を上げると、頭に布を巻いたひとが目のまえにいた。沙那さな。あたりは、ほのぼのと明るい。くらくない。夜じゃない。

「だいじょうぶ? 寒い?」

 だいじょうぶ。寒い。頭の中でその言葉を繰り返し、千世は小さく首を振った。寒くない。

 沙那のうしろでは、囲炉裏の火が躍っている。火に近い膝のあたりはとくに、じんわり熱を持っている。寒くない。

「そう、寒くないの。よかった。寒そうにみえたの、ちょっとふるえてるのかなって」

 沙那は言って、千世の手に手をかさねた。ひんやりした。離れていった。

「うん、だいじょうぶそうだね。でも、あったかいの飲もう。ほら」

 床に置いていた盆を持ち上げて、沙那はすこし口もとをゆるめる。盆には、ほわほわ湯気の立つ器が、三つのっていた。

「白湯だけどね」

 そう言ってから外に向かって、小兎こと、と呼んだ。すぐに返事が聞こえて、足音が近づいてくる。沙那は千世のとなりに座り、盆を膝のそばに置いた。器をひとつ取り上げて両手で包み込み、ひとくち飲む。

「あったかい」

 沙那はひとりごとを言った。そのときがらんと戸が開いて、小兎が飛び込んできた。

「おつかれさまです!」

 小兎はぴょこんと板の間に上がってくると、千世のとなりに腰を下ろした。千世は挟まれた。

「あぁあ、あったかい」

 小兎も白湯を飲んで声を上げている。鼻先と耳が赤くなっていた。外は寒い。

「千世も飲むといいよ」

 沙那が言った。千世は残った器に手を伸ばした。ちょんとさわると、さらっとしていて、あたたかい。あたたかくて、指がほどけそう。器とくっついてしまいそう。持ち上げると透明な水がゆらゆらして、湯気がふわっと目のまえをかすませる。顔をうずめて、ひとくち飲んだ。あったかい。

「あったかいですね」

 小兎が笑って言うので、千世はうなずいた。小兎はもっと笑った。沙那も湯気の中で、ふふっと声をもらしていた。

 千世は器を置いてあたりをみまわした。いまは昼だから、くぐつは出ない。傀廻くぐつまわしのひとたちは、となりの部屋で休んでいる。あのひとは。

「あ……、もしかして早瀬はやせ?」

 沙那がのぞき込んでくる。千世はうなずいた。すると沙那は、小さくため息をつく。小兎が、あの、と言うので、千世は顔を向けた。

「早瀬さん、さっき裏から外に出てました。止めようとおもったけど、なんか声かけられなくて、ごめんなさい」

 小兎は言いながら、だんだん縮こまっていった。沙那が、さきほどよりも大きなため息をつく。

「まったく、どこほっつき歩いてるんだろうねあのひとは」

「さあ……。でも、近頃はちょっと調子がよくなってきたみたいだし、いままでも、昼になにかやる習慣があったのかも……」

「お散歩とか?」

「えぇと……、鍛錬とか?」

「ああ、やってるもんね斎丸さいまるも」

 小兎が口を結んでうなずいた。沙那は喉をのけぞらせて白湯を飲み干した。

「ほんとになにやってるんだろうねぇ……」

 数日かかった村の片づけは、昨日ひとまず済んだと、瑞延ずいえんが言っていた。昼には村へ行き、夜には傀に備えるという毎日は、もう終わった。近頃はあのひとも、傀をみても絶とうとすることがなくなったようだ。この吊頭所ちょうとうしょに戻ってくるときは、いつも笑っている。でも、ひっそり下を向いて、なにか考えている。千世がみていることに気づくと、なまえを呼んで、また笑う。くるしそう。

「無茶しなきゃいいんだけどね」

「ほんとです……」

 あのときも、おなじだった。どろどろのからだを、地面から引きはがすみたいに起き上がって、まっくろに濡れた布を顔から外して、千世をみて、笑った。もうだいじょうぶ、ひとがいるところまで行くから、怖いだろうけどついてきてほしい、と言った。

 でも千世は、地面にへばりついたまま凍ったみたいに、動けなかった。あのひとはそれに気がついて、何度も謝りながら千世を背負った。くろく浸されたからだにふれて、千世の着ているものも、からだも、くろく染まった。歩きながら、あのひとはまた何度も謝っていた。きたなくて申し訳ないと、ずっと。

 あのひとの背中は、あたたかくもつめたくもなかった。頬を寄せると、背中だけれど鼓動がわかった。はやくて、よわかった。そうしていると、あのひとはなんだか、がくがくし始めて、千世を下ろしてからその場に倒れ込んだ。千世は座って、そのすがたを眺めていた。

 そのとき、だれかが。ちがう。そのときではない。もっと、ずっとまえ。だれかが、呼んでいた。おひいさま。おひいさまと。ちせちゃんと、呼んでいたひともいて、よく近くに来ていた。ものしするものの近くに。

「ねえ千世」

 沙那が呼んで、くりっと目を動かして、言った。

「だいじょうぶだよ。いろいろおもい知らされてるみたいだから、勝手なことはしないはず」

「沙那さん、言い方……」

「だってそうでしょ。千世もここにいるんだし」

 沙那が千世の肩をつつくと、小兎がぱっと口を覆った。

「小兎、なにその顔」

「えぇっ、だって……」

「うん。なんだかんだ言ってたけどさ、御託を並べてただけじゃないかって。早瀬だって、千世と離れたくないはずだよ、そうみえる」

「わ……」

「ん? かわいいね小兎。南天みたいだよ」

「ちがっ、ちがいます寒いからですっ!」

「あぁそう」

 いま、どこにいるのだろう。ここで待っていれば、もどってくるのだろうか。

 ねえ千世、と沙那が言った。

「それ、書きたくなったら書いてね。わたしもそうしてるから」

 沙那は、千世の懐に差し込んである矢立と帳面を示していた。

「余計なお世話だけど。顔みてたら言いたくなった」

 言いたいことがあったら言うって意味ね、と沙那はつけ加えて、にっと笑った。おれもそうします、と小兎が大きい声で言った。千世は、ひとつうなずいた。

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