十三  飲みもの

 早瀬はやせは囲炉裏のそばに座っていた。灰の上で火がゆらゆらと揺れ、ときどきぱちんと、はじけて見せている。目の前には、素朴な木の膳があった。丁寧に使われてきた趣のある膳の上では、麦飯と味噌汁が湯気を立てている。隙間に置かれた小皿には、厚めに切られた大根の漬物がのっている。お屋形さまがおすきだって殿さまがおっしゃっていたなと、ぼんやり思い出す。

 顔を上げて、見回してみる。囲炉裏のそばにいるのは早瀬だけではない。早瀬の左隣には千世ちせがおり、右には緋高ひだかがいる。緋高の右は小兎こと、その横は尽平じんぺいだ。尽平のとなりの、早瀬の真向かいに瑞延ずいえん、その横に斎丸さいまる沙那さながいる。一緒に囲炉裏を囲み、膳を並べている。

 執廻署しっかいしょをたずね、良庫国らくらのくにで働くことが決まってから一夜明けた。まだ休んでいろと言われたが、平気なので昨夜から仕事をさせてもらった。朝が来たので吊頭所ちょうとうしょに戻り、みんなで朝餉を食べている。

 昨夜は、なまずに手足が生えたようなくぐつがちらりと出てきた。二太にたと呼んでいるものらしい。上を走れば鬱憤晴らしになりそうな長さだった。えぐり出さなければならないと思った。それよりほかは、考えたくなかった。なにも。黒に身を任せ、浸っていたかった。澄み切った光など、いらなかった。白く、ほそやかな手など、ほしくなかった。

「早瀬」

 右から呼ばれ、はっと顔を上げる。緋高が、麦飯の器と箸を持って見ていた。

「これ。おいしいぞ」

 緋高はなんでもなさそうに言うと、大きく口を開けて麦飯を頬張る。早瀬はうなずき、緋高に倣って器を取り上げた。じんわりと、あたたかい。左側を見ると、千世がもぐもぐと口を動かしていた。

 千世はここへ来たときから、粥をおかわりしたり握り飯をぺろりと平らげたりしており、食欲が落ちている様子はない。それを見るたび、早瀬は少しほっとする。食べられなくなっては大変だ。

 視線に気づいたのか、千世が早瀬のほうを向いた。早瀬が持っている、きれいに麦飯の盛られた器に目をやり、つぎに早瀬の顔を見る。どうしておまえは食べないのか、と問われているような気がした。

「いただきます」

 早瀬は小さく言って、麦飯を口に入れた。噛んだ。袖をしゃぶっている気分になった。飲み下すと、ゆっくりと喉を落ちていった。蛙をこなす蛇になった気分だった。夜に見たなまずの、濁った目玉が頭の隅をちらつく。空気の生臭さが鼻の奥によみがえる。えぐり出さなければならないと思う。

「早瀬」

 今度は、向かいから呼ばれた。瑞延だった。味噌汁の器を手にした瑞延は、少し首をかしげて早瀬を見ていた。その横で、明らかに不機嫌そうな顔の斎丸が漬物をぼりぼり噛んでいる。沙那がそれを横目で見ながら味噌汁を飲んでおり、尽平は半分あきれたような笑みを浮かべていた。小兎は気まずそうに縮こまっていて、思わずとなりを見ると緋高も困った顔をしている。千世だけが、何事もないという様子で味噌汁の器を傾けていた。

 空気が微妙に歪んでいることに、早瀬はようやく気がついた。原因はおのれだということにも、思い至った。食事中にぼんやりするばかりは、失礼だろう。早瀬は器を膳に置いた。

「早瀬」

 瑞延は器を持ったまま言った。

「聞きたいことがあるので、こたえてほしい」

 その声に圧はなく、やわらかによく通った。早瀬は、はいとこたえた。瑞延はひとつうなずき、早瀬に問うた。

「あなた、傀の血を飲んだのではない?」

 ぱちっと、火の粉が散って。灰に落ちて吸われ消える。え、と横で緋高が声をもらす。瑞延はすっと、早瀬の手首に彫られた入れ墨を示す。

「わたしたちは、傀の血を身体に入れているね。あなたにも入っている。それが証」

 早瀬はおのれの手首に目を落とした。傀廻しになるときに彫った入れ墨。意味のない黒い模様。傀廻しの証。

「だから暗くてもよく目が見えるし、必要なら傀と戦うこともできるし、夜は傷が塞がるのも早いよね。でもあなたは、少し妙だ。突然飛んできて一太いちたを仕留めようとしたというのは聞いたし、さっきも二太を仕留めようとしていたそうだね。押さえなければ襲いかかっていたという様子だったと聞いた」

 尽平が、かるく肩をすくめる。

「なんだか、尋常の様子ではなかったようだね。声が届かないような。それに千世を助けたあとのことも、よく覚えていないのだよね。とにかく傀を仕留めなければならないと、それだけで」

 瑞延はまっすぐに、早瀬を見ている。

「ひとが傀になる恐れが出てくるのは、ある程度たくさんの血が身体に入ったときだよね。その量がどのくらいなのかはわからないけれど、ともかくわたしたちの入れ墨程度では傀にならない。まあ少し傀のような力が使えるわけだけれど、制御できる。ひとを失うことはできない」

 瑞延は器を置き、みずからの手首の、入れ墨を示す。

「でも、これよりも多く傀の血が入ると、傀になるかもしれない。そうでなければ死んでしまう。なるか、ならないかだ。それが原則。でも、原則なのだから例外もあるよね」

 瑞延の目が、光をはじいた。

「ひとのまま、ひとを失う。我を忘れてしまう。制御ができなくなってしまう」

 槍の、穂先のようだ。

「半分、傀になる」

 ずぶり、と心臓を、貫かれた。そんな気がして、息ができなくなる。痛む。ふるえる。脈動のたび、疼く。

「傀は、ひとを傷つけにやってくるね。だから半分ほど傀になったら、おなじような衝動が生まれてくるのだろう。でも、半分ほどはひとのままのわけだから、罪もないひとをどうこうするわけにはいかないと思う。だから代わりに、どうしてもやらなきゃならないと思う」

 傀をね、と瑞延は薄く微笑んだ。

「そうなったひとが、れびとのはじまりだとも言うでしょう。あなたは、そうなのではない? 傀の血を飲んで、ではなくても、身体に入れているのではないかな。この入れ墨以外にも」

 早瀬は、囲炉裏の火を見つめていた。めらめらと、燃えて、なまやさしかった。そのかすかな煙の流れ込む喉から、体がただれていくようだった。早瀬はなんとかそこに、空気を通した。

「ん? すまないけれど、もう一度言ってほしい」

 瑞延が落ち着いた様子で言う。早瀬はおなじことを、もう一度繰り返した。

「そう、です」

「え、早瀬──」

 となりの緋高がつぶやくが、そちらを見る余裕はなかった。早瀬は言葉を吐き出した。

「傀の血を、飲みました」

 心臓の上を鷲掴む。

「飲みました。でも、傀になってしまうことはなくて、ひとのような様子を保っています。けれどやはり夜には、ちがうふうになってしまうことが多いようで、傀を見つけると、とくに。我を忘れてしまうことも」

 考えないようにしていたことだ。傀を前にすると、殺す、ことしか頭に浮かばない状態になっている。それはあのとき、傀の血を飲んでからなのだ。

 あのとき、それを望み、そうなってでもながらえることを望み、傀の血など飲んだのだ。そんなことをしても、いのちを落とすかもしれないことはおなじだった。それどころか、すっかり傀になってしまうこともありえた。でもどうしても、あそこで終わるわけにはいかないと思ったから。飲まなければ、終わりしかなかったから。だから賭けてしまった。勝ちはない賭けだった。

「ですから……みなさんには……、わたしは……」

 おのれの意志で、傀の血を飲んだ。いのちを落とすことはなく、すっかり傀になってしまうこともなかった。しかし、ひとと呼べる存在では、なくなった。

 そして、戦ってきた。ほかの離れびとたち、そんなものはほぼいないが、彼らがどうなのかは知らない。でも早瀬は、ひたすら戦ってきた。あれを仕留めるために叩き上げなければならないと、思って。

 その気のない傀にまでちょっかいを出し、ひたすら守りに入るところをしつこく挑発し、おのれのほうを向かせた。そうやって、だれかを巻き込むかもしれない、いのちの取り合いをしてきた。ひと晩じゅうということも、珍しくなかった。討伐を頼まれてもいない傀さえ、屠った。ひたすら切って、えぐり出してきた。

 それは、ひとのためなどではない。あれを仕留めるための鍛錬ですら、ない。そうしたかったからだ。そうしたかった。

 傀はひとには量れない。いたずらに突っかかれば、だれかを巻き込んでしまうかもしれない。一体尽きれば、つぎになにが来るかわからない。よって無用の戦い、無用の殺しは避けなければならない。

 傀廻しの仕事は、沈着に傀をいなし、廻し、ひとを守ること。傀を殺すことではない。傀廻しは傀殺しではない。煙たがられても怖がられても、変わらないことだ。離れびとであっても、深くを流れるものは、おなじはずだ。しかし早瀬は違った。

 もう、狂っている。戦うことに、殺すことに。殺し合うことに。魅入られている。惑っている。それが、そうしているときは、なんだか楽で。

 そのように、傀を見れば殺し合おうとするおのれは、正気でないとどこかで知っていた。以前は、こうではなかった。血を飲んでからなのだ。でも、考えたくなかった。考えないようにしていたかった。そのままでいたかった。

 血を飲んでから、苦しいことを思い出さなくなったから。わるい夢に襲われることもなくなったから。

 そのままでいたかった。やわくまろい、黒に沈んでいたかった。ほかにはなにも、いらなかった。


 傀の血など、必要以上に身体に取り入れ半分傀になり。傀を見ると暴れだすようになったのに。それはいけないと、考えることから、逃げているようなもの。ここにいるのはそういう、ものだ。

 鞘野さやの尚孝なおたかも、この吊頭所のひとたちも、見張るため、責任をとらせるためとはいえそのようなものを内に入れるのはおかしい。傀を見て我を忘れるのでは、責を負うこともままならない。

 ここを出ていくべきだろう。出ていく。

 決めた早瀬のとなりで、千世が静かに箸を動かしている。ゆっくり、よく噛んで食べている。そのやわらかな白のすがたが、映らないよう目を閉じる。千世は、連れていけない。ここのひとたちに頼みたい。千世はもともと早瀬の連れではなく、一緒にここのひとたちに助けられただけだ。みんな、早瀬が出ていくからといって千世も追い出すことなどしないだろう。なにも、心配することはない。もっと早くこうしておくべきだった。傀の血など飲む前に。いや、それより前。あのひとを、ひととしてのあのひとを、死なせたときに。いや。それよりも、前か。

 早瀬は目を開け顔を上げた。瑞延をまっすぐとらえたつもりで、目が合ったのは、その横の斎丸だった。斎丸は、早瀬を睨みつけていた。でもなぜか、ひどく傷ついているように見えて。早瀬は、目をそらし瑞延を見据えた。

「ばけものだったのに、いままでそのことを、まともに考えることもしていませんでした。教えていただいて、ほんとうにありがとうございます」

 身体をうしろにずらし、床に手をついて頭を下げる。早瀬さん、と小兎がつぶやくのが聞こえた。早瀬は床に向かって続けた。

「ほんとうに、申し訳ないことですが、お屋形さまに、鞘野さまにお伝えねがえないでしょうか。わたしはこちらで務めを果たすこともできないので、おいとまいたします。ほかに申し上げられることは、とてもございません」

「んん、早瀬?」

 尽平がなにか言おうとしているので、早瀬は急いで口を動かした。

「二晩までも、まことにお世話になりました。わたしが申し上げるのはおこがましいことですが、このひとのことをどうぞお頼み申し上げます。どうか。ご恩はけっして忘れません」

 姿勢を戻し、うしろに置いてあった刀を取って立ち上がる。

「おい早瀬っ」

 緋高に袖を掴まれた。強く引かれ、抗えず床に座り込む。がちゃんと、膳が音を立てる。味噌汁が、たぷたぷ揺らいでいた。麦飯もおなじに見えた。立ち上がれない。

「そんな急に出ていくことないだろ、なんかいろいろおかしいぞ早瀬」

 緋高が言う。早瀬は首を振った。

「なんもちがわねぇよ。あんたなんか絶対、最後の手考えてるだろ」

 いつのまにか横に来ていた尽平も言った。小兎が、そんなと悲鳴を上げた。早瀬は首を振った。

「瑞延さんよ、あんたやりすぎだぜ。この早瀬さん、いまいろいろ弱ってるんだからさ、よく知らねぇけど」

 尽平が、勘弁してくれと言いたげな声を出す。瑞延がこたえるのが聞こえる。

「申し訳ない。そんなに追い詰めるつもりはなかったのだけれど……」

 声が近づいてきた。

「つもりはなくてもやってしまったね。はじめてのことが多くて、気が立っているみたいだ。早瀬、わるかった」

 ぱたぱたと足音がし始める。沙那と小兎がなにか動いてくれているという気がした。朦朧としながら、早瀬は首を振った。片手で衿を手繰った。そのとき、床についたほうの手になにかがふれる。千世の指だとわかった。白い指先は手の甲から手首まで滑り、くるりとなぞる。

 早瀬は、重たい頭を上げた。そこに千世の瞳があった。離れられずに、見つめていると、力が抜けていくように思った。

「千世ちゃんにまた心配かけてる」

 沙那の落ち着き払った声が降ってくる。

「あなた、もう寝たほうがいいですよ。なんというか、たしかに傀の血は飲みものじゃないと思うけど、いま調子がわるいって、おのれのことわかってないほうが重大でしょ」

 尽平がふきだした。瑞延が、早瀬を呼んだ。

「あとね早瀬。まだ続きがあるから、聞いておいてほしい」

 そう言って、早瀬の肩に手を置いた。

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