第二章 巨魁
十二 目くばせの仲
うら寂しいように澄んだ青空を吸い込み、大あくびすると、横で小さな頭が揺れた。
「いいあくびだな」
言いながら、頭を撫でそうになってやめる。千世は小柄で幼く感じられるが、おそらくそこまでおちびさんではない。尽平の賛辞にも、反応しなかった。何事もなかったように前を向き、とことこ歩いている。
千世と
「おふたりとも、昨日からお休みになっていないですよね」
「えぇ?」
尽平は眉をひん曲げて早瀬を見下ろした。浅緋の水干すがたの早瀬は、青白い顔になにやら悲愴な表情を浮かべていた。
「執廻署までお連れいただいて、ついてきてくださって、申し訳ないです」
「しょうがねぇだろ。あんたひとりじゃ、おまえ何者だってなるぜ、入れてもらえねぇよ」
尽平は早瀬の言葉にかぶせて言った。早瀬は、そうですね、とつぶやき小さく微笑む。なんとも、吹けば飛びそうな様子だ。まだ具合がよくないのだろう。先刻の話で、悪化したのかもしれない。早瀬の身の上を決めるばかりの話だった。
「でもやっぱり、少しもお休みになっていないので……、お疲れでしょうに」
早瀬はうつむき加減にそう言った。たしかに昨日は、夕方まで
「あんたこそろくに寝てねぇだろ。今日は朝からお呼ばれで、昨日の夜はお暴れだったからな。ぶっ倒れる三歩前って顔してるぜ」
すると早瀬は、困ったように笑って首を振る。
「だいじょうぶです、わたしはなにも問題ありません。ぶっ倒れたりはいたしません」
「だろうな。お暴れだったんだもんな、まいるよなぁ千世さん?」
「それは、ほんとうに申し訳ありません……」
千世は相変わらず、素知らぬ顔で歩いている。早瀬は縮こまっている。尽平はこれ見よがしにため息をついてみた。
そばを歩いている千世を横目で見る。やさしげな白の小袖と、その衿もとに差し入れてある矢立は、尽平の師の妻だったひとのものだ。
その卯の花色の背中に流れる髪は、濡羽に似てつやがあり、よく手入れされてきたことがわかる。白い額にも長めに切り下げてあり、その下の目はくっきりとまなじりが切れている。瞳の色は髪とおなじだが、どこかあざやかという印象だ。そして、この千世という娘は、言葉を発さず、表情を変えない。
おそらく、千世の中ではいろいろなことが止まってしまっている。無理ないだろう。はっきりしないが、物守村の村長の娘というところだと思われるので。ずっと早瀬を追いかけたがっているのは、早瀬だけがよりどころだからではないかと、尽平は考えている。まわりを囲んでいた、五体もの
その早瀬に目をやる。
はじめて顔を合わせたときは、これから腹でも切るんかと聞きそうになってしまった。だがそれは、あながち間違っていなかった。そしていま、ここでの新しい任を得た早瀬は、なんだか腹切り終わったひとのようだ。そんなひとが歩いているわけはないが。
早瀬はもう、
話が終わり帰りかけたとき、主は尽平を呼んだ。そばへ行くと、ちらりと早瀬を見やり、よく面倒を見ろと言った。面倒見ろというのは、さまざまな意味でということはわかっている。この、ずっと綱渡りしているみたいな危なっかしいガキは、ほうっておくとなにをしでかすかわからない、かもしれないので。実際昨夜は、寝ていると思っていたのに外へ飛び出し、
それから主は、
また主は、千世についてもよく世話するようにと尽平に命じた。主も千世について、尽平とおなじように考えているようだ。早瀬のそばを離れようとしないのなら、引き離さなくともよいと言った。とりあえずは吊頭所で身柄を引き取り、ゆくゆくはどこかへ行ってもよいし、沙那や
千世のことは、沙那と小兎や、
「
早瀬がぽつりと言った。まだ、反省していたようだ。おのれが来たことでたくさんのひとに手間をかけたとか思っているのだろうか。尽平は早瀬の沈んだ声を笑い飛ばした。
「殿さまなんだからしょうがねぇだろ。ご領内の傀廻しが拾いもんしちまったんだ」
なかなかたいそうな拾いものだが。瑞延は、よくなんぞを拾ってくる。
「そう、ですね……」
「そうだ。いいかただったろ? お近づきになれたって喜んどけよ」
「そうですね、それは、はい……」
刀祢
武昌の、公平に気配りをする態度は前から変わらない。だが数年前までは、傀廻しのことは下賤の者というか、目に入らないものと考えているようだった。おそらく気配りの対象ではなかった。息子が傀廻しになったからなのか、傀廻しへの接し方を変えたらしい。いままで非礼をしていたと詫びられたこともある。しかし尽平は以前から、武昌に対しわるい殿さまという印象は抱いていなかった。いまの関係はわりあい気に入っている。
早瀬は武昌のことを思い出しているらしく、口もとをゆるめている。そういう顔をしておけばよいのに、いや、やわらかすぎてこれはこれで気味わるい。昨夜、思い切りよく締め上げてきた相手があのおだやかなひとの息子だと言ったら、どんな顔になるのだろうか。しかしいま言うのはよしておく。面差しはよく似ているし、いずれ知るだろうが、勝手に喋ると斎丸は気に入らないだろう。
小柴垣に囲われた、茅葺屋根の建物が見えてくる。吊頭所だ。ちょうど古びた木戸がひらき、桶を抱えた小兎が出てきた。尽平が大声で呼ぶと、小兎はぴゃっと肩を跳ねさせてから声を返してきた。
「おかえりなさい尽平さん! 早瀬さん千世さんもおかえりなさい!」
「ただいまぁ」
尽平が言うと、小兎は桶を持ったまま駆け寄ってきた。桶の中で、朝餉に使った器がからからと音を立てた。
「おかえりなさい、おつかれさまです!」
小兎はふわっと笑って言い、少し心配そうに眉を下げて早瀬を見上げた。
「早瀬さん、具合わるくないです?」
控えめな問いに早瀬は微笑み、平気ですありがとうとこたえる。小兎はこくりとうなずき、つぎは千世をのぞき込んでたずねた。
「千世さんは、握り飯お口に合いましたか?」
すると千世は、かすかに顎を引いた。小兎は安心したようにまた、ふわっと笑った。
「よかった。じゃあみなさんちょっと休んでくださいね、寒かったでしょ」
笑顔の小兎に促され建物の中に入る前、尽平はその頭をぐしゃっとかき回した。わあっなにするんですかもう、と小兎はふくれていた。
建物の中は空気がまろやかにくもっており、ほんのりとあたたかい。朝餉の味噌汁の、香ばしさが少し残っている。かまどの前に沙那がおり、焚口のまわりを掃除していた。沙那は、振り返ってひとこと言った。
「おかえりなさい」
「ただいまぁ」
尽平はこたえたが、早瀬は黙って頭を下げている。やはりただいまとは言えないらしい。尽平は先に土間から板の間に上がり、囲炉裏の前に腰を下ろした。土間でためらっている早瀬と、その顔を眺めている千世を横目に、大声で言った。
「早瀬と千世はここにいることになったぞ」
「えっ! ほんとですかっ?」
外から、手を濡らした小兎が走り込んでくる。尽平はうなずいた。
「ほんとだ。早瀬は豊手村の傀廻しになれって、お屋形さまのお達し」
「そうですか! じゃあもうここのひとなんですね! よくなるまでゆっくりもできますね、よかった!」
小兎はほっとしたらしくにこにこしている。せつないくらいにやさしい子だと尽平は思う。うつむいた早瀬が複雑な表情をしていることは、見えなくてもわかった。
「これからよろしくね千世ちゃん」
沙那が千世の肩にぽんとふれて言った。すぐに仕事に戻った沙那を、千世はぼんやりした目で見ている。その横で早瀬が顔を上げ、重々しい様子で口をひらいた。
「ここの、みなさんには、すでにお世話をおかけしていますが、これからもお世話になることになりました。できることはとても、少ないですがわたしに」
「よしわかった」
尽平は早瀬の口上を遮った。長くなりそうな気がしたからだ。
「これからはここがあんたたちの家みてぇなもんだぜ。そんなとこに突っ立ってるこたねぇだろ、立って飯食う民なんか?」
ふ、と沙那が小さく笑い、小兎は、それってどういう民なんですかと文句を言った。早瀬も、かすかに表情をやわらげ、千世を促してから板の間に上がってきた。
****
早瀬が騒ぎだす前に、尽平はさりげなく吊頭所を出て物守村へ向かった。まだ仕事が残っている。緋高と斎丸と瑞延は、すでに村で昨日の続きをやっている。三人がいないことに気づけば、早瀬は本調子でないくせにおのれも行くと騒ぐだろうし、尽平がいまから村へ行くと言ってもそうだろうから、黙って出てきたのだ。まことに手間のかかるガキである。沙那や小兎にはわるいが、沙那が本気を出せば早瀬などおそらくいちころなので、任せておける。
ただ早瀬も、雇われることになったのであまり勝手な真似はしないだろう。主の言葉を聞き、かなり打撃を受けたという顔をしていた。目的に釘付けになり、まわりが見えていなかったと気づいたらしかった。主に認められ雇われたというよりは、勝手な真似をしないよう内に取り込まれたということも、わかっているらしい。
そんな早瀬に対し、
まず、
そして、四郎党は傀を増やしてなどいない。そんなばかな話を聞いたときの、早瀬の反応を見ようとして言った。はじめは早瀬を、四郎党の手の者かと疑っていたためだ。その恐れはなさそうだが、抑止につながると踏んだので、いましばらくその嘘をついたままにすると決めた。
早瀬は、ひとをどんどん傀にする者たちの根城、と聞かされた場所に突撃し、引っ掻き回して去ることはできないと判断したのだ。さっぱりまわりが見えていないところがあったが、見せてやれば、おのれに勝手気ままを許すことはできないやつだ。おそらく。そのように見える。実際、早瀬はおとなしく主のもとに下った。しかし、ふいになにかをやらかしそうな危うさも、ある。
まちがっても、暁城に乗り込ませるわけにはいかない。傀を増やしてはいないが、長らく不安の種となってきた四郎党の、その頭目と話し合いをすることが決まりそうなのだ。それを、ふいにさせるわけにはいかない。
からからと落ち葉を舞わせ、風が向かってくる。尽平は腰に挟んでいた布を引き出し、顔にかけ、紐を頭のうしろで結んだ。目もとの織り目が粗くなった部分から、色褪せた景色を睨む。
早瀬は、手間がかかるが利己的にはなりきれないガキで、そしてやや様子がおかしい。暴れる。そしてまったくまわりが見えていなかったようだが、あえて見ようとしていなかったようにも感じられる。
また聞くところによると、早瀬が見た傀は寄り集まり苦しんでいたらしい。そしてあの村。だれも知らなかった村。いろいろと妙だ。面倒を見る必要がある。
たどり着いた物守村は、昨日よりはいくぶん片づいていた。傀廻したちが働いているが、ひっそりとして、だれもいないかのようだ。尽平はその中に山吹色の水干を見つけ、まっすぐ歩み寄った。息が詰まるような痕跡に、手でそっと土をかぶせている。さいわいというか、そばにほかの者はいなかった。
「おい。瑞延」
近づいていることに気づいていたらしく、瑞延はさほど驚いた様子もなく顔を上げる。手もとに置いてあった鍬を取って立ち上がった。
「おつかれさまだね尽平」
「いや、おまえのほうが」
「そんなことないよ。もうできることはこれしかないしね。それで、いちおう聞くけれど、どうなったの?」
「ふたりとも、うちで面倒見ることになった」
「わかった。ここにいることになったことは、村長さまにも伝えておくね。むごいことが起こったから、心配してくれている」
「頼む」
「うん。でも村のひとたちはやはり、村に置くのは恐ろしいと、思うかもしれないね」
「真っ黒血みどろで入ってきたからしょうがねぇけどな……、刀祢さまも立ち会って決まったし、納得できんことはねぇだろ」
「そうか。みんな刀祢さまがすきだからね」
「ああ。それとな」
布二枚ごしに目を合わせ、もう一度、名前を呼ぶ。すると瑞延は布の内側で、小さく笑い声をこぼす。内密ね、たぶんおなじようなこと考えているよと、大陸の故郷の言葉で言う。
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