第5話 二人で暮らすという意義

 蛍火と対面する形で食卓を囲む。

 待ちに待った夕飯には、なんと鶏の照り焼きとサラダがお出しされた。

 焼き加減の素晴らしさが伝わるような香ばしい匂いが、鼻をほろほろさせる。

 サラダも緑野菜にトマトが盛り付けられており、栄養バランスの整った食事だ。


 テーブルに出されたのは二人分だ。

 思えば、蛍火と一緒に食事を取れたことは意外だった。

 彼女は俺の顔も見たくないはずなのに、夕飯はこうして一緒にいてくれるらしい。

 育ちがいいからか、自室で食べようという発想が生まれなかったのかもしれないけど。


「よし、こんな感じでしょうか」


 蛍火は盛り付けにスマホのカメラを向けて、角度を調整していた。

 本当にエンスタグラムに投稿する為に、ここまでのものを作ったのだろうか。

 彼女は満足そうな表情で少しスマホを操作した後、端末をテーブルに置いた。


 そこで、ふと良いアイデアを閃いた。

 これは……仲良し作戦を進めるチャンスかもしれない。


「そうだ。せっかく初めての夕食を一緒に食べるんだし、写真撮って両親に送ってみないか?」

「は? なんですか、唐突に」


 いざ手を合わせようとした瞬間、水を差されたと言いたげに眉をひそめた。


「俺が勝手に、二人で食事しているところを撮るだけだから、笑ってくれないか?」

「待ってください。なんでそんな恥ずかしいことを私がしなければ――」

「早く猫かぶらないと、ムスッとした顔そのまま写すからな?」


 ただちにスマホの内カメラを起動し、テーブル全体と俺たち二人をフレームの中に入れる。

 躊躇なくシャッターボタンを押してみたが――


「おっと、不機嫌な顔は撮れなかったか」

「気持ち悪っ、これだから男は嫌いなんです。強引で、自分勝手」

「いやいや、ピースサインまで作っちゃって、ノリ気だったんじゃないか?」

「…………」


 蛍火は父親のことを、まるで存在しない人物のように語っていたが、本心は違うだろう。

 家族の前では笑い、夕飯の作り置きまで作るのは、どう考えても嫌いな相手に対する行動じゃない。


 そうは言っても、蛍火から強引に本心を引き出すことは無理があるだろう。

 彼女は俺を一瞬強く睨んだ後、黙りこくってしまった。

 言葉数が少なくても、こうしてコミュニケーションを取れただけで、上手くいっている気がする。

 写真を両親に送った後、俺も蛍火も同じ瞬間に手を合わせた。


「いただきます」

「いただきます」


 彼女の料理は見た目や香りだけでなく、味までよくて、食事中に会話がないことを忘れるくらい、夢中になってしまった。


 あっという間に食事を終えると、蛍火は即座に立ち上がる。

 早くこの場から逃げようとする、強い意思を感じ取る。

 彼女が皿を取ろうとした瞬間、俺は彼女の前に立ちふさがった。


「皿洗いは俺の仕事なんだろ? 片付けも俺がやる」

「っ、近づかないで……話しかけないでって、言いましたよね?」

「話しかけて死ぬようなものじゃないだろ」

「いえ死にます」


 ……ならとっくの昔に死んでいるだろう。

 冗談でもそういうことは言うべきではないと思うのだが、そんなことを咎めても余計に嫌われるだけだ。

 彼女との適切な距離感は、何となく掴めてきている。


「とにかく、後は俺がやるから、朝比奈さんはお部屋でおくつろぎくださいな?」


 食事前に彼女から煽られた時の台詞を真似て、言い返してみた。

 これ以上俺の顔を見るのも、俺の言う通りに退くのも、どっちにしても嫌だろう。

 けど、それが同じ屋根の下で同居するということなのだ。


「っ! もう知りません。勝手にしてくださっ……ひゃっ!!」

「蛍火!」


 急ぎ足でリビングを去ろうとした蛍火は、突如としてバランスを崩した。

 敷かれたばかりで滑りやすいカーペットが、またしても人を転ばせたのだ。

 俺は急いで蛍火へと近づき、転ぶ前に支えたつもり……だったが――


「って、うおっ……いってて」


 とっさの行動に身体の重心が傾き、そこへ傾いた蛍火の体重が加わることで、二人まとめてその場に倒れてしまった。

 しっかりと助けられたらよかったものの、ままならないものだ。

 とはいえ、どうにか俺が蛍火の下敷きになっただけ、最悪ではない。


「……な、ななな」

「だ、大丈夫か? 蛍火」


 明らかに狼狽して、言葉が上手く発せられていない蛍火に声をかけるが、彼女は落ち着きがなかった。


「……ん?」


 そこで気づく、何か……そう、何か柔らかい感触を、右手に感じた。

 指に力を入れずとも、手の甲の力で、何に触れているのか……今の体勢も含めて、俺は気づいてしまった。

 これは、女性の胸の感触だ。


 すぐに腕を広げ、俺はそのまま彼女から距離を取る。

 そうしてようやく、蛍火は落ち着いたのか、ギロッと俺に視線を向けた。


「さっ、最低っ! これだから男は……死ねっ!」


 彼女は体を縮こまらせ、顔を赤らめながら胸元を守るように腕で隠すと、足早にリビングを去っていった。

 罵倒されても仕方ない……今回ばかりは、俺に120%非がある。


 男嫌いの女の子に、無自覚にセクハラをしてしまったことだけではない。

 それ以前に彼女の転倒も、カーペットが滑りやすいことを俺が前もって伝えていれば防げたことだった。


「……やっちまったなぁ」


 順調に仲良し作戦が進めていたと思ったものの、振り出しに戻ってしまった。

 いや、もしかすると初期地点より後退しているかもしれない。

 頭を空っぽにしたくて、皿洗いに没頭することにした。


 その後も、蛍火は自室にこもったことで、声をかけることができず……とりあえず、お風呂に湯を張ることにした。

 直接声をかけることができないとしても、お風呂の順番も決めていない状態だったので、連絡アプリを開く。

 するとそこには、俺の思考を先回りしたように、メッセージが届いていた。


『お風呂は先にどうぞ』


 男性の後に入るのは嫌だろうと考えていたが、それよりも俺とばったり顔を合わせるのを避けたのかもしれない。

 自分のやってしまったことを悔いた俺は、シャッターだけ浴びてすぐに浴場を後にした。


「こういう時は、アレしかないか。最近、お預けだったしな」


 気分が晴れない。そんな時の対処法は決まっている。

 いくら乙女心がわからなくても、自分の心については詳しい。

 昔から……女の子と喧嘩した時、俺はいつもこの趣味に逃げてきたのだから。


「ちょっと黒めで合わせるか」


 蛍火は風呂に入るだろうし、それ以前に嫌っている俺の部屋に入ってくるはずもない。

 皮肉にも伸び伸びと女装できる環境が整っている気がした。


「はい、かわいい」


 可愛い服を着て、ニコリと表情を作るだけで、鏡には美少女が映っていた。

 いくら落ち込んでいても、この可愛さは色褪せない。


 情けない男の時間は終わり。

 かわいい自分を作り上げれば、世界は彩られるのだ。




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 少し言い過ぎだったかもしれない。いくら男が嫌いな私でも、さっきのことが義兄にとって不可抗力だったことはわかっている。

 でも、既に言葉に発してしまったことだ。

 強い言葉を使ったことに、彼は憤慨しているかもしれない。

 男は強引だし、暴力的だ……逆恨みされる可能性は、充分にある。


「戦略的に、話し合うしか……」


 多少の時間が過ぎて、頭が冷えてきた頃、そろそろ皿洗いも終えているだろうと思った私は、リビングへと入ると彼の姿はなかった。

 洗面所の方向から、湯を張る音が聞こえだす。

 ちょうどこちらへと近づく足音が聴こえて、忍び足で急いで部屋まで撤退した。


「……なんで、戻っちゃうの」


 こちらから攻めるのが得意でも、とっさのことに強くない自覚はある。


「これだから男は……」


 なんでかんでも男のせいにしてしまえば、いつもは気が楽になっていたのに、今はまだ心に重い陰が残ったままだった。


「お風呂に入ってから考えよう…………あっ」


 先ほどの出来事を思い出す。お風呂を沸かし始めていたが、順番は決めていなかった。

 このままでは、義兄の方から部屋にやってきて、話を聞きにくるかもしれない。

 しかし、私はまだ心の準備ができていなかった。


「どうしよう……とりあえず、顔を合わせるのは、無理っ」


 急いで連絡アプリを開き、お風呂は先を譲ることにした。

 本当は先に入りたかったけれど、そんなことを言えるほどの図太さは、私にはなかった。


「………………」


 しばらくしない内に、今度は義兄の方からメッセージが届く。

 曰く、風呂から上がったらしい。


「は、早くないっ?」


 悩み事で時間を無為にしていたかと時計を見るも、やはり数十分も経っていない。

 きちんと湯に浸かったのだろうか。無意識にそんなことを思った。


 なぜ、私が男の心配をしなければならないのか……どうも落ち着かない。

 これが、罪悪感であるという自覚はあった。


「謝りにいかなきゃ」


 男に頭を下げるなんて屈辱だけど、このまま悩み続けるのは明らかに健全じゃない。

 そもそも謝ろうとは思っていた。

 先ほどはちょっとタイミングが悪かっただけなのだ。

 そう内心で言い訳しつつ、私は義兄の部屋へと向かった。


「あのっ、少し話があるのですが…………え?」


 勢いよく扉を開けたその部屋は、どこかおかしかった。全体的に白色と薄桃色の家具が多く、リードディフューザーのまろやか香りが鼻元をくすぐる。

 まるで女の子の部屋だと考えながらも、本当の衝撃は部屋の中にいる人物だった。


「……へっ?」


 私の存在に気づいた彼女はこちらへ振り向き、目が合う。

 そこには…………絶世の美少女がいた。

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