第10話 ウバティー

気がつけば、デザイン事務所で働き始め2年と半年以上が経っていた。わずかながら、仕事も任せてもらえるようになってきて、それなりのやりがいも感じ始めていた。と当時にお給料も上がった。契約社員には変わりはなかったが、残業代でかなり稼いでいた。カノジョの家に居候していたが、カノジョの判断で、家賃はまだ、支払わなくていい。と言われていた。

「その時が来たら、しっかりもらうわ。」とそのコトバに甘えていたワタシ。

 それが幸いして、フィガロへの夢は、わずかだけれど、近づいていた。300万円のフィガロ2台。それには到底及ばなかったが、100万円以下のフィガロ1台、には手が届きそうだった。ただ、それと引き換えにしたものはプライベートな時間だったことは言うまでもなかった。新しいプロジェクトの参加が決まり、休日出勤も当たり前。働き始めた当初のようにカノジョと食事に行くことなど、2ヶ月に一回あれば良い方だった。クタクタだった。ココロもどこか渇いていた。

 これも、ワタシ。という人間にとっては珍しいコトではなかったけれど、いつの間にかまた事務所の先輩との関係が再発していた。それは酷く蒸し暑い日、飲み会のキスがきっかけだった。

 初めての時から、先輩の唇はイヤじゃなかった。むしろ、好みだった。キスするたびに、イイと思う様になっていた。いつもどこかヒヤッとした唇が心地よかった。そんなズルズルグダグタの関係が始まって1ヶ月半位たった頃、季節は秋。いい頃だった。秋風に油断していた。またしても、ワタシの油断が、スキが、ワナ?にはまってしまったのか。

 「妊娠判定陽性」

ただ、ダレの子なのか、分からなかった。本当に、この時ばかりは焦った。

事務所で話せる人なんていないし、勿論、カノジョには話せない。

カノジョはこの手の話には非常に厳しい。きっと、相手を割り出して、結婚させようとするだろう。相手がわからなければ、DNA鑑定すらすすめられて、ワタシは追い込まれるコトになる。だから、絶対に話せなかった。

それと、もう1つカノジョに話せない大きな重大な理由がある。

 それは、カレと一度だけ、そういう夜があった。というコトだった。

しかも、同じ日に。

 

 その日のワタシは荒れていた。

カノジョと前の日に珍しくケンカというか気持ちの行き違いがあって、ココロの持っていき様に困っていた。その日休みだったワタシは昼間ズルズルグダグタの先輩の家に行き、話を聞いてもらうことにした。カノジョとの話を何も言わず聞いてくれる人もなかなかいない。結局、話を聞いていなかったかもしれないというリアクション、相槌ではあったけれど、それだけで充分だった。ただ、カノジョとのアレコレを話せれば良いだけのことだった。

 そして、当然、いつもの様に2人は半分裸になって、そういうコトになった。ただ、その日はカノジョともう一度話し合おうと思っていたので、早めに帰った。15時すぎ、くらい。

 するとカノジョは不在。久々にカレが来ていた。気がついたら、昨日のデキゴトを事細かく話していた。もうどうしようもなく涙が止まらなかった。いつまでも泣いているワタシ。その横で、そっと優しく髪を撫でるカレの手がひんやりと心地よかった。ふっと時計を見ると19時を少しまわっていた。

 そこからの記憶がどこか、曖昧だった。夕食を作ろうとキッチンに向かうカレ。まだ、離れたくなかったワタシ。カレを追いかけて後ろからカレの腰の辺りにしがみついた。あたたかかった。ホッとした。と同時にどうしようもなくカレを求めていた。

 ココロの中で。そのココロの声がまるで聞こえていたかの様に、カレは言った。

「大丈夫。心配しないで。大丈夫だから。ねぇ。」

 その当時のワタシは、人生で一番のモテ期。という様な荒れ方をしていた。病的だった。なので、よくカレに優しいスープを作ってもらっては、渇いて、泥まみれになったココロとカラダを癒してもらっていた。

 そんなカレとのたった一度きりの戯言。わす忘れようにも、忘れられるはずがなかった。

 一度だけのキス、一度きりの戯れ。それで、妊娠。

カレは、カノジョのカレ。ワタシのカレではない。あってはならない。ワタシの大切なカノジョ。その大事なカノジョのカレだった。

 本当に、カレの子?そうであってほしい。直感でそう思ったけれど、抑えきれない衝動、抗えない現実の落とし穴、見たくないこれからの未来。という思い、

 左のこめかみがギシリと音を立ててネジが埋め込れていくような激しい痛みとともにワタシの記憶は落ちていた。


 あれから数週間が経ち、ワタシの妊娠。はダレにも気づかれないまま静かに水面下で進んでいった。仕事はと言うと、相変わらずの忙しさで、休日もよく働いていた。妊娠がわかって以来、先輩との関係は一切拒んでいた。何かと理由をつけてははぐらかし、どうにかなっていた。カレとは、あまり会っていなかった。家に来てもすれ違いが多く、ワタシが帰ると、カレは不在。幸いカノジョとはその後話し合いができて、今ではすっかりわだかまりはなくなっていた。ように見えた。

 すっかり肌寒くなったある日、いつもの様に忙しく社内を動いていると急に、下腹部に激しい痛みが走った。便秘かな。しばらくお通じがなかった。

「いててててっ。」思わずうずくまった。と同時に、バタンッ。倒れた。

 どれくらいの時間が経ったのか。気がつくと、フカフカのベッドに横たわっていたワタシ。

天井を見ると、ソコが病院の個室だと分かった。

 流産。

悲しくなかった。むしろ、ホッとしている。

「パチンッ。」

何かの音が聞こえた。

 ふっと見ると、ワタシの横で、カノジョがジブンの頬を叩いていた。

なぜ?

「悔しいっ。」

「まったく知らなかったじゃない。」

カノジョはそれ以上、何も言わなかった。そして、そっとワタシの頬を撫でてくれた。

その手はあたたかくて、やわらかくて、しなやかで、そして泣いていた。

 その日、ワタシとカノジョのすすり泣きが部屋中に心地よく響いていたのを、ワタシは一生忘れなかった。

10月16日。その日は、カノジョの誕生日だったのだ。


 会社の配慮もあり、ワタシは新しいプロジェクトチームから外された。

もうしばらくは、休日出勤はないだろう。

病院は数日で退院したが、社内的には過労。またしても10日の有給休暇をもらうことになった。家に帰ったワタシは、本当に久しぶりに、じっくり、ゆっくりと過ごすコトをココロがけた。そして、毎日のように、お気に入りのカフェに行って過ごしていた。


 「ミルクティー、お好きですか?」

休暇中、毎日同じカフェで、だいたい決まった席で、空調が直接当たらない暖かくて、光が少し差し込む席で、だいたい同じ時間に、そこに静かにおさまっていた。

 座っているというより、すっぽりとその空間に静かにおさまっている感覚だった。

周りの景色と同化して、まるでカフェの一部のように、その様子は映って見えた。

カフェとそのカフェの周りの草木にも溶け込む佇まいで、ゆったり、ひっそりと静かだった。物静かに、淡々と、どこを見るわけでもなく、店内を時々見渡しては、ミルクティーで喉を潤した。

 ウバシュー。

そのお店がすっかり気に入ったワタシは、それが休日の日課になっていた。

正確には、この頃の休日の殆んどの時間というかんじだった。

不安定なココロを抱えてやってくるワタシは、ウバティー。

正しくは紅茶のウバのミルクティーと自家製シュークリーム。それを頼むことで、ココロがスッと落ち着いていくのを感じていた。

ティーカップに注がれたウバティーを少し飲んでは、また足して。

ポットにはたっぷり2杯半位入っていた。

でも、ワタシのウバティーは最後までなくなることはなかった。

不思議だった。

 ワタシは書くコトに夢中になると、何もかも見えなくなった。

周りはもちろん、ウバティーがどれだけ減ったのかも気づかなかった。

ウバティーが減ったカップにはまた、ウバティーが注がれていた。

何杯飲み干したのかもわからないまま、夢中で本日の新作コピーを仕上げていった。

自家製シュークリームは、とっくになくなっていた。

でも特に気にならなかった。いつまで飲んでもなくならないウバティー。

 それがワタシの休日だった。

ひとしきりコピーを書き、数時間が経ち、ふっとひと息ついた頃、急に物音を感じた。

 目の前に、カレが座っていた。

いったい、いつからいたのだろうか。

呼んだ覚えもなければ、連絡があったわけでもない。

びっくりしたワタシは、おはよう。とカレに囁いた。

ぐったり疲労した脳とココロで、ワタシはカレをはじめて出迎えた。

すでにカプチーノを頼んでいたらしく、カップに描かれたラテアートを丁寧になぞりながら、優しく口に含んでいった。

よく見ると、グラタンかドリアと、サラダを頼んで既に食べ終わっていたようだった。

するとカプチーノは食後の一杯というワケだった。

 ワタシの代わりに人知れずウバティーをおかわりし続けてくれていたカレに気づくことはなかった。

 それがワタシの休日だった。


 そんな休日が数ヶ月続いた頃、

ワタシは唐突にいつものカフェに行かなくなっていた。

自家製シュークリームの製作が中止となり、どこかのお店から取り寄せたシュークリームにスリかわったいた。それは、ひと口食べればすぐに分かった。

さらに、ウバから、アールグレイになっていた。

 絶望的だった。

食べるコトに酷く偏りのあるワタシにとって、ウバシューは、1日の大事な大事な食事でもあり、その頃の、唯一のカロリー摂取だった。

ワタシの1日のすべての食事が詰め込まれたウバシュー。

気がつくとワタシはいつものカフェの前にぼーぜんと立ち尽くし、目からはホロリホロリと熱い熱い大粒の涙が溢れていた。止まらなかった。止めどなく溢れる涙。

悔しかった。辛かった。切なかった。寂しかった。

 カレは気づいていた。明日からのワタシの食事が行方不明なることを。

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余韻 ももいくれあ @Kureamomoi

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