第9話 長くて遠い朝へ
カノジョとの共同生活、時折訪れるカレ。デザイン事務所のコピーライターアシスタント。すべては順調にいっているように見えた。少なくともワタシには。毎日は、決していいコトばかりではなかったけれど、それでもストレスが溜まる頃にはカノジョが外食に誘ってくれて、渋谷、下北沢、新宿、青山、麻布十番、表参道、六本木、赤坂、お台場、銀座、代々木上原、代田橋、他にも沢山、この1年半あまりで忘れるくらいの土地土地を散策した。会社でイヤなことがあった。カレがなかなか家に来ない。公募に出したコピーが落選しかしない。懸賞で応募した洗濯用洗剤すらもらえなかった。スーパーで買い物したら、カートで子どもに足を踏まれて、お気に入りのスニーカーが茶色く汚れた。また、知らない男と路上でキスをしていた。などなど、ありとあらゆる些細な戯言を、オシャレで、ステキな数々のお店に行っては穏やかに聞いてくれた。そうやって、ワタシを家という箱の外側へ連れ出してくれたカノジョ。
勿論、家でも食事は楽しんでいた。当然のとこながら、カノジョの作ってくれる手料理はどれも美味しいに決まっていた。それが、今のカノジョだった。昔とちっとも変わっていない。大好きなワタシのカノジョだった。ワタシとカノジョの色違いの2台のフィガロ。いつまでたっても変わらないワタシの貯蓄額。いったいいつになったらその思いは叶うのか。いっそのコト、ローンを組んで買おうか。などと、最近は本気で考え始めていた。
有名になって、お金持ちになって、お金持ちになったら、フィガロ2台持ちの夢。ワタシもいい大人になってきたのかな。なんて、最近時々鏡を見ては思う日があるけれど、実際は誰もそんなコトは言ってはくれなかった。
何故だろう?そんなに悪くないはずなのに。仕事だって、遊びだって、交友関係だって、そんなに悪くないはずなのに、なぜかなかなか認めてもらえない。ワタシには欠陥があるのか?他の人にはない、欠落した部分が、それが、外まで滲み出てしまっているのか。
「ダレッ?」
後ろを振り向くと、今、そこに確かに誰かがいた気配が残っていた。
「出て来なさいよっ。」
少し語気を強めて言った。
でも、誰も現れなかった。逃げられたのか。
悔しい。また、逃してしまった。いつもそうだった。隙をついてくる。
今日はちょっと疲れているのかもしれない。早めに休むコトにしよう。ゆったりとぬるめの湯ぶねにつかって、頭をスッキリさせるためにも、ペパーミントのアロマオイルを数滴入れた。心地良い爽快感が鼻の奥を抜けていって、気がつくと静かに眠りについていた。
「あああっ。」
寝過ぎてしまった。風邪ひいちゃう。ふっと目を覚ますと、なぜかベッドに横たわっていてしっかり布団がかけられていた。
カレだった。そんなコトが簡単に出来るのは、この世界中どこを探しても、カレしかいなかった。
ワタシはカレを信頼していた。それは、カノジョを思うのと同じ様に。
または、時として、それ以上に。
私の朝は夜だった。というより闇だった。
正確には夜寝ることが殆どなく、朝を迎えることだった。
そして、それは私の独特の朝で、特技でもあった。
殆どある時期においては毎日のコトではあったが、夜になると昼間と違う感覚が舞い降りてきて、次から次へと物事が進んでいった。
ありとあらゆるアイデアは無限に溢れ出し、新しい記憶で溢れていった。
それは一度始まると数時間にも及び、朝になるコトもしばしばあったほどで、時には私を困惑させた。真っ白い紙一面が真っ黒になりそうになるほど文字を書くと、軽い吐き気を覚えた。
実際、胃の内容物を口から吐いていた。
「そうね、そろそろかしら。」
ワタシは立ち上がりカノジョとワタシのキッチンの奥へと歩いた。
空腹ではあったけれど、ちょうどよく、濃いめに淹れたウバをミルクティーにして、カラダの隅々までに行き渡らせた。
ワタシはウバティーも好きだった。
深い夜には濃い紅茶がいつも寄り添って、少し怯えた私を支えてくれていた。
ワタシのキッチンには無いものはなかった。必要な物は、何でも揃っていた。
ティーカップ10セットにワイングラスが赤白泡用にと8つほど、ケーキ皿もシンプルな焼き物からカラフルなものまで20枚。そして食パン専用トースター。
あとはパウンドケーキを焼けるオーブン。
これだけあれば大体のワタシは支えられる。
お箸やナイフ、フォークの類は必要なかった。
なぜなら、私の食事は酷く込み入っていて、尚且つ簡単で、スッキリしたものだったからだ。
食事らしい食事をすることができなかった。受け付けなかった。
カレの作ってくれるパウンドケーキや焼き菓子、素焼きのナッツ意外、殆どのモノは食べることができなかった。目の前に食事の準備をすることはできた。むしろ、それは得意な方だったかもしれない。ただ、拘りが強く、この時期にはこれ。という様に、食べられるモノがごく限られていた。接触障害。
最近まで全く興味もなかったし、以前一、二度はいただいたことがあったマカロン。
今ではすっかり気に入ってしまい、カノジョとワタシのキッチンから一番近い所にあるお店のピスタチオとパッションを好んで買って来ては、お気に入りのワイングラスにいくつも飾っていた。カラフルで、甘くて、やわらかくて、酸っぱくて、少しだけサクッとしていた。
少なくともここ数ヶ月は殆ど毎日。
カノジョとワタシのキッチンから一番近い所にあるお店を行ったり来たりしていた。
正確には、それくらいしか食べていなかったのだった。そう判断できるだけの証拠があった。
カレがそう言っているのだった。
食べることも、寝ることも、休むことも怠った私は、ただひたすらにひたむきに前のめりになって毎日を黙々とズキズキと進んでいった。
白い紙、カノジョとワタシのキッチン、ウバティー、マカロン、頭痛に、吐き気、このサイクルである時期のワタシは巡っていた。
時折訪れる激しい頭痛と軽い吐き気を除いてみれば、まぁだいたいは良い気分だった。
まったく問題はない。ワタシにはそう言い切れた。
ある夜、というより正確には4時半なので、朝になるのか。もうすぐ何かのイベントを控えていたはずのワタシは、新しいクレヨンを左手に握っていた。
紙いっぱいに色をのせてみては、クレヨンで少し厚みを増したその紙をランダムに細かくちぎり、ちぎっては大切な小さな箱の中へ入れていく。その繰り返しだった。ひたすらに。
いくつもに分けられたその小さな箱に規則性はあるのか。色別なのか、大きさなのか。
きっと夜が始まったばかりのワタシに聞いてみればその規則性は明らかになるはずだが、あまりにも作業に集中しすぎたワタシにはその規則性は、もはやその重要度は低くぼんやりしたものになっていた。そうしている間にも言葉が電気のようにワタシのカラダとココロを脈打った。
カラダとココロにまとわりつく電気、帯電した、充満した電気の部屋、キッチンの中でワタシはひとりもがいていた。
うっすらと明るくなる陽の光をカーテン越しに浴びて、朝の訪れを感じていた。
一体いつからだろうか。ワタシに朝が来なくなったのは。
そんな思いが頬をかすめた。
その頬に触れてみると左手の薬指にほんの少しだけ血がついていたのが見えた。
そんなことが頭の片隅にぼんやりにじんでくると、キラキラ光る赤いライトが微かに視界に入ってきた。夥しいサイレン音と沢山の人の気配。両脇を固めた人だかりからストレッチャーが走ってきた。もはや、記憶もここまでだった。
夥しい音や明るすぎる光が遠ざかってワタシはようやく目を閉じているようだった。
さぁ、ここからが始まりだ。
ワタシの深くて暗くて長い夜の闇が、静かにそおっと滑り込んでくる感覚がした。
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