第8話 強迫観念
ワタシは珈琲が好きだった。カフェで注文する珈琲。家で淹れる珈琲。誰かのお家でいただく珈琲。テイクアウトするアイスカフェラテ。
アイスカフェラテは決まって、
「氷少なめ、ミルクの量はそのままで。」
お店によっては氷少なめというと、その分ミルクを多くしてくれる。
ワタシはそれはちょっと困る。
実は、あまりミルクは好みではないからだった。サイズはそのお店で一番小さいサイズ。
焼き菓子があれば裏面の成分表示をよくよく見たうえで、ワタシの好みでないものが入っていない、そういう、スバラシイ焼き菓子に出逢った時には必ずいくつか買っておく。
拘りが強いと言われてしまうワタシの好みに合うお菓子は、実際、とっても少なかった。そんなワケで、カレが家で焼き菓子を作るようになったのかもしれない。とワタシはそう信じているし、カレの作ってくれるお菓子をココロのソコから信頼している。
エスプレッソマシンが家にないせいもあってか、カフェでもよくアイスカフェラテを注文する。猫舌なのと、あったかいミルクが苦手なせいで、誰よりも寒がりなワタシは真冬でも、アイスカフェラテをよく飲む。それにお白湯を添えるか、もしくは常温のお水を用意して。
でも、珈琲にはやっぱり焼き菓子が欲しかった。
特に好んだのはパウンドケーキやアルミニウムフリーのベーキングパウダーを使ったマフィン。もちろん、マーガリンはどこにも使われていない。クッキーだってショートニングは使われていない。
そういうものだけを好んでいる。そういうものでワタシはできていた。
「おかしいなっ。」
今日は珈琲がなかなか淹れられない。
ただ、それはそんなに珍しいコトではなかった。
ヤカンに適量の水を入れる。それを火にかけてゆっくり温め、沸騰してから少し冷ます。
珈琲用に買ったそれは、お湯が通る部分がニュルりと曲がっていて、細くてしなやかで、なんだかそのカーブは心地良かった。一度沸騰したお湯をそれに移し、適当な温度まで下げてみる。その間に珈琲豆をギリギリギリといい香りをふりまきながら挽いておく。
ペーパーフィルターに挽き立てのマンデリンをざっくりスプーンでくすって入れた。
「3杯くらいかな。」
最初の数滴はしっかり蒸らして30秒ほど待つ。
その後、のの字を書くように、ゆっくり、ゆっくり、そろり、そろり、と。
すると、注がれるお湯はふわっと珈琲豆を膨らまして、部屋中に香ばしい香りがたちこめた。こんな朝に似合うのは、カレが焼くとびきりのパウンドケーキ。
期待はしていなくても、その期待を裏切らない。ドライフルーツのパウンドケーキ。
「サイコーノ、アサネッ」
これが、ワタシの理想とする雰囲気の朝だった。
でも、実際はかなり違っていた。
まずはヤカンの水入れ。これが最大の難関。
入れては、出して、入れては、出して、入れては、出して。
もう50回以上は繰り返していた。どうしても水が入れられない。
キレイな水が入れられないのだ。
それがワタシの朝だった。
集中すればするほどに、それはややこしてくて、ワタシは本当にうんざりした。
キレイな水が入れたくて、何度も何度も入れ直した。
何度も、何度もキレイな景色をイメージしようと試みた。
ワタシにとって、キレイなイメージに包まれた水はキレイな水そのものだった。
汚いイメージ、過去の辛い記憶に辿り着くイメージで入れられた水は汚れた水だった。
そのために、キレイな水を入れて、それはキレイで、ステキで、オイシイ珈琲を淹れるために。
何度も何度も、納得いくまで繰り返した。
「違うっ」
嫌なイメージに包まれた頭で入れた水は、汚い水にすぎなかった。
ワタシが思うキレイな水、そこに辿り着くまでに、いったいどれだけの時がたったのか。
時計はないので、テレビもないので、今が何時か知るのにも一苦労した。
携帯電話を家中探して、ようやくベッドの毛布の中に見つけた。
それを取り出してきて、時刻を確認すると、15時をほんの少し回っていた。
2時間、以上。強迫観念だった。
そんな途方もない時の狭間でワタシは揺れ動いていたのだ。
ようやくキレイな、とってもキレイな今日のワタシの朝の水が、ヤカンに注がれるはずだったその水は、ワタシのすぐ横にあるお気に入りの大振りのグラスになみなみ注がれていて、ワタシは一気にそれを飲み干した。
軽い痺れが左のこめかみに走ったけれど、それは今は、大した問題ではなかった。
気がつくと、カレが入れたと思われるヤカンの水がピーと音を立てて湧いていた。
カレはいつでもそうだった。先回りして、ワタシの一歩も二歩も、すました顔をして歩いていた。
嫌いじゃなかった。
何も言わずに、助けるとも言わないカレがちょっとだけワタシの先を歩くコト。
そのカレの歩いた足跡をなぞって三歩後ろから歩くワタシ。
そんなワタシも悪くなかった。
今日はまだ、ペーパーフィルターも用意できていなくて、いつものニュルりも用意できてなくて。そう思って慌てたワタシごしにカレのしなやかな手が通りすぎて、それらは全て終わっていたことに気づかされた。お気に入りのマグカップ2つ。
そこに珈琲はすでに注がれていた。
カレ、ミルク6珈琲4。
ワタシ、珈琲8ミルク2氷3つ。
これがベストな私たちの朝だった。
当然のようにそこに用意されていたのはドライフルーツのパウンドケーキ。
カレはワタシがキレイな水と格闘していたその時間をくまなく使いこなしていた。
頼もしい。
カレの焼く焼き菓子の中で、ワタシはパウンドケーキが一番好みだった。
美味しい。
はずのパウンドケーキなのに、息苦しい。
喉の奥がなんだか詰まって、呼吸が浅くなっていく。
すごく疲れた朝だった。
ワタシは一口珈琲を口に含むと、ゆっくりと味わって喉を潤した。
そして、軽く微笑み、静かな眠りについていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます