第7話 オニガとワタシ

カノジョとの暮らしは、気がつけば、半年以上が過ぎていた。

寒かった季節が終わり、心地よい、爽やかな風は通り抜け、強い陽射しに寄り添いながら、日に日に朝は続いていた。

 つい先週、とある住宅メーカーのキャッチコピーの公募の最終選考発表があったところだった。

まわりの先輩からの評価も高かったそのコピーは、最終選考通過20人のうちの1人に残った。

結果は、落選。

 有名になって、お金持ちになって、お金持ちになったら、憧れのフィガロを2台買って、色違いのフィガロを並べた海辺のカフェで憧れのカノジョと2人でお茶をする夢には、まだまだ時間がかかりそうだった。

でも、確実に近づいているという手応えだけは、ワタシにはあった。

 そんなワタシの大きな夢を実はカノジョは知らなかった。いつか、わあぁっと驚かしたくて、どうしても秘密にしておきたかった。

第一、いつ叶うかもわからない、叶わなかもしれない夢をカノジョに言うには勇気がいることだった。

 なんでもそつなくこなして、周りからもちやほやされるカノジョ。幼い頃から、ちっとも変わっていない。

 ワタシは。と言えば、

ワケの分からない怪しいモテ期がちょっとあったくらいだったのだから。

 それも、結局は、異性関係が原因で会社を追われることが多々あったので、モテ期と言っていいものかどうか。ワタシはいつでもカノジョのそばにいたけれど、いつまでたっても遠い存在。手が届きそうで、絶対に届かないのが現実だった。

 そんな、憧れのカノジョだから、ワタシを唯一見下さない、そんなカノジョだからこそ、ワタシが有名になって、お金持ちになって買うはずの2台のフィガロ。海辺のカフェでその色違いの2台を眺めながら憧れのカノジョと2人きりで優雅にのんびりお茶したいのだった。それは、実に大きくて、とてもささやかなワタシの唯一と言っていい夢だった。


 ワタシにとって、それは、珍しく晴れた心地の朝だった。

久しぶりに見た、その風景とも思える光景。

ふかんで見たその景色は遠くの空に霞んでいた。

 そして、少しだけあの時の海の色とどこか似ている。と私は思った。

それは決して気のせいなんかじゃなかった。

ねぇ、聞いて。ワタシの話を。ねぇ、聞いてよ。

ワタシの声を、音を、耳を澄まして、こっちを向いて、

知っているでしょ、知らないふり?

ワタシなんかにかまっている暇はないのかしらね、

ひどいのね。今日のワタシ。

「ああっ」

「ちょっと待って、支度、もう少しで終わるから。」

 玄関先で、いつもの光景。

広がる風景が目の奥に焼き付いていて、いつの間にか、また眠りに落ちた。

一体、どれくらいの時を重ねれば、この思いは思い出ではなくなるのだろうか。

 一体、どれくらい扉を開けば次の扉が、空へと向かう飛行機雲に見えるのだろうか。

 カノジョの不在を確認できたのか。または、ワタシの不在が確認されたのか。

そんな朝を重ねてきた。

 もう何年も経つような気がしている。

ため息にも似たその吐息が、寝息が耳元で心地良いリズムを奏でていた。

 いつもの液体を片手に、ワタシは一口で飲み干した。

とっても苦くて、酸っぱくて、喉の奥に刺激が残るその透明の液体を

ワタシはオニガと呼んでいた。

そう、

ワタシはオニガと友だちだった。

カノジョにはまだ言っていなかったけれど、ワタシはオニガと友だちだった。

ずっと、ずっと、昔から。

処方されているそのオニガ意外にも、どれだけ大量の処方箋と暮らきたか。

ワタシの日常はまるで霧の中だった。

常にモヤがかかっていて、意識は時折遠のくばかり。

オニガを飲んで、少し休んだワタシは、いつものように気だるい時を過ごしていた。

舌にしびれが残り、喉の奥はイガイガした。

 そんな不快を和らげるために、淹れたての珈琲を、アイスコーヒーにして飲んだ。

ほんの少しの牛乳と、ロック氷が混ざり合って、マーブルケーキみたいだった。

「キレイ。」

 そんな朝が一番いい。ケーキも、パンも、クッキーも、パンケーキも、何もない。

安全な朝だった。ただ、珈琲だけがあって、それを、ゆっくりゆっくり少しずつ、喉の奥に溶け込ませた。

 カノジョの姿が見えなかったコトにも気付かずに、ゆっくり珈琲を楽しんでいた。

 ワタシは、気がつけば、深い闇の中で、いつもいつでも暮らしていた。

それを知っているのは、カレだけだったのかもしれない。


 夜のうちに、闇の、病み、と訣別する必要があった。


 そうでないと、また、騒がしい朝が、やって来てしまうから。

ワタシは必死に夜を耐えた。

時に途絶えた記憶の中で、闇の海を彷徨っていた。

 幸い、ダイビングは得意な方だったから、救われた。

体験ダイビングで何回か海に潜った。伊豆、沖縄、バリ、プーケット、正にダイビングの名所ばかり、それぞれ数回ずつ、合計10ダイブはしていた。

それは、ワタシの意外な特技だったかもしれない。

自分ではあまり意識していなかったけれど、これだけはカノジョに唯一自慢できる経験だった。

普通の人の半分しか減らない酸素ボンベの酸素。ショップの店員さんには、ダイバーのライセンスを取る事を潜る度に勧められた。

ダイビングは酸素ボンベの酸素が命。その酸素ボンベの酸素が普通の人の半分しか減らない。というコトはつまり、普通の人の2倍潜っていられる。というコトになるらしい。

 ある人は1分に46しか打たない脈拍を、スポーツ心臓だと言った。

その呼吸数の少なさが酸素量の減りに影響しているのかもしれない。

 だけど、現実は違っていた。

そのゾウの様な心臓は子像の様に弱くて、もろくて、儚かった。

それを知っているのは、本当の意味で知っているのは、

カレだけだったのかもしれない。

 

 今日も海に出ているらしいが、ダレの姿もどこにも見当たらない。

砂浜まで5分のところ。やっぱり、そうだった。

 今日も、朝は始まっていた。


 カレはワタシの唯一の存在だった。はず。

そのカレが、

「ホカノダレカノカレ?」

それは、とうてい信じられないコトだった。

 雨が続くと、それとなくやって来ては、優しいスープをワタシに作ってくれるカレ。

朝、具合が悪いとそっと抱き抱えてくれるカレ。

ワイン片手に様々な夕食を振舞ってくれるカレ。

カノジョとワタシが言い合いになると、そっとワタシの見方についてくれているように思えるカレ。

時々借りるレンタカーに、気がつくと乗っていて、ワタシたちを災いから遠ざけてくれようとするカレ。

すらっとしていて、朗らかで、穏やかで、柔和なカレ。

そのしなやかな指で、時折ワタシの髪をハラリと撫でてくれるカレ。

ワタシが飲んでいたアイス珈琲のストローで何も言わずに一口アイス珈琲を飲むカレ。

どんなにワタシが会社の異性関係でややこしいコトになっても、一度も責めないカレ。

雨の日に、気がつくとワタシのバイト先にひょっこり赤い傘を持って現れるカレ。

時々ふっと、カノジョの横顔を眺めているカレ。

 そんなカレが、ワタシのカレだった。

それ以上でも、それ以下でもない。


でも、一度だけ、ワタシとカレはキスした。


 ワタシは、知らなかった。

最初から最後まで、そして、それは永遠に。

カノジョとカレは付き合っていたのだ。


 すごく気持ちのいい月夜で、ワタシはほろ酔い。部屋のソファにもたれていた時、一緒に観ていた映画、隣に座るカレ。一瞬、画面の字幕が見えなくなった。その瞬間。

カレの唇が、ワタシの唇に、ほんの少しだけ触れたような気がする。

あたたかくて、やわらかい唇が。

きっと、そうだと思う。

だって、字幕が見えなくなるってコトは。

そういうコトだと思う。

一瞬だった。

そう、確かにカレの気配が濃くなって、カレの香りがして、カレの唇を感じた。

そう信じたかった。

夢?

すると、映画は途中で止められていた。

確かに観ていたはずの映画の残像。

気がついたら、いつものような騒がしい朝で、でも1つだけ違っていたのは、ワタシはカレのベッドに横たわっていたコトだった。

 そんなコトがあった日のコト。

いつだったか思い出せないけれど、どうしても思い出せないけれど、

その感覚だけは残っていた。

「ああっ。」

 もしかしたら、じゃがいもスープの日。

カレンダーにポツリと書かれた予定は、カレとのデキゴトの標でもあり、カレとじゃがいものスープを作る日だったのか。

なぜか、その印象、輪郭だけが強烈に残っている不思議な1日の記憶は、このコトだったのかもしれないと。ココロのどこかで今はそう思いたかった。


 毎日は、意外と淡々と過ぎているようにも感じていた。

デザイン事務所で働き始めて1年が経ち、歓迎会の時の噂もいつの間にかうやむやになっていた。

 そんなある日のお昼休み、「2人は付き合っているの?」と直接の上司に、ハッキリ聞かれた先輩は、

「いいえ、違います。」とキッパリ答えた。これで、全てが終わった。

実際は、歓迎会から1ヶ月の間に週に2、3回は先輩の家に遊びに行き、そういうコトに毎回なっていた。これって、付き合っているの?でも、ワタシには大切なカレがいる。

そんな曖昧な関係を続け、まただ。とワタシは自分に失望し始めていた頃のデキゴトだった。

 答えはハッキリした。ワタシたちは付き合っていなかったのだ。

これで、終わりだった。ただ、それだけの関係だったことを、改めてかみしめた。

ただ、1つ気になっていたのは最近、カレが会いに来てくれなくなっていたコトだった。

週に2、3日家に帰っていないコト、それを知っていたのか?

 そんなはずはなかった。カレがそのコトを知る余地はないはずだったから。

まさか、カノジョがカレに話すなんて、そんなコトはあり得なかった。それじゃ、何故?ワタシの思考は混乱し、軽い頭痛と眩暈がして、記憶は遠くに置き去りにされた。

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