第2話 じゃがいものスープの日。

あれからもう、何年経っかな。

何年経ったのか、本当は時々それすらぼんやりとしていた。

記憶の奥の方で、何か黒い塊のような硬くて小さな粒々が、ワタシの鼓膜を叩いているのが分かった。その現象は時折ワタシに起きては、記憶が遠のき、気がつくと、いつものソファーに横たわっていた。


 ワタシは、病んでいた。

この数年の間、途方もなく、彷徨っていた。

昼も夜も、勿論、朝も、なく。

果てしなく。底冷えに。

 その闇との闘いで、すっかり変わってしまったのかもしれない。

もしくは、ずっと昔から、ワタシはワタシのままで、何一つとして変わっていなくて、

周りだけが、ただ目まぐるしく変わり、混乱しているだけなのかもしれなかった。

ワタシがワタシを思い出せる要素。

それは、左腕に見える赤い傷痕にも似たこの標(しるし)が、カレの唇の痕跡が今のワタシを支えていた。

ほんの僅かな標と、ほんの微かな記憶、

キモチばかりの時間のカケラが、今のワタシを支えている。

ただ、その思いに寄り添うだけでなんだかすこしあたたかかった。

もう叶わないかもしれない。

まだ間に合うかもしれない。

あの頃ワタシの唯一の夢。

そんな駆け引き、綱渡り的なココロの端っこにしがみついているワタシがいる。


     


 ふっと目を覚ますと14時を少し回ったところ。

テーブルは散々に散らかり放題で、それでもうみんなが帰ったことがわかると、やれやれと軽い目眩に襲われながらこめかみを軽く擦り、自家製のミントソーダ水を一気に飲み干した。それはとっても刺激的で、脳内がシャキッと引き締まるような、そんな心地良さと安堵感を同時にワタシに与えてくれた。

 散らかったテーブルを片付けてみたら、今日はじゃがいものスープを作る日だったことを思い出した。お手製のカレンダーに書き込まれた、ポツリポツリとした予定のような出来事の中にそれはあった。

10月22日金曜日。

 じゃがいものスープ。

ただそれだけが書かれていた。

一体いつ、誰が書いたのか、そしていつそう決めたのか、そんなことはどうでもよかった。

 ただ、今日はじゃがいものスープの日だった。それだけがワタシの脳内を刺激する、唯一の材料だった。

「買い物に出かけよう。」

じゃがいもといくつかの足りないものを探しに、ワタシは久々に家を出る準備にとりかかった。

 それは実は途方に暮れる作業の一つだったことを、ワタシはすっかり忘れていた。

まずはシャワーを浴びなくては。

 何日かぶりに鏡に映るワタシは、心なしかシュッとしていた。馬のように滑らかな頬と犬の耳のような髪を撫でて、少しだけ微笑んだ。ワタシは犬顔でネコのような性格で馬のような頬を持ち、キリンのような脚のしなやかさを含んでいる。まるでステキなこのワタシと、そこそこの年月付き合ってきた。

 たくさんの人たちがワタシに語りかけ、突っかかり、横殴りにしては、甘い声を出し、通りすぎていった。

そんなみんなの話をまとめると、つまりワタシはある程度モテ期があった。

ワタシはそうみんなに言った。

「ワタシと付き合うということは、つまりアリ地獄ですよ。その覚悟はありますか。」

最初はみんな、得意げに、何でもなさそうに笑ってみせた。

でも時が経ち、重ねられた月日を振り返ると、その面々はいつの間にかどこか遠く、

はるか彼方に足を向けていた。


 そして、唯一残ったのが、やっぱりカノジョだった。

それに加えて、今ではとカレも信頼できる存在だった。


 「さぁ、探しモノを見つけに出かけよう。」

もうすっかり夕陽が眩しくなり、遠くの空に紫がかった月が見え始めた頃、

ワタシはじゃがいものスープのことをようやく思い出した。

 結局、シャワーは浴びていなかった。

でも、そんなことは今は大した問題ではなかった。それよりも、今日はじゃがいものスープを作る事が何よりも重要だった。

少なくともワタシにとっては。探しモノは、まず何を集める必要があるのか。その見極めから始まった。

 「じゃがいものスープ。じゃがいものスープ。じゃがいものスープ。」

一体何が入っているのか。それには想像力が必要だった。

じゃがいも。これは確実だ。牛乳。これは豆乳でもいいかな。バターで炒めたら深みが増すだろう。あっさり仕上げたいから、あえて生クリームは入れない。あとは甘味とコクと彩だ。彩にはパセリでは風味が足りないから、ブロッコリーを削って添えることにした。チキンの手羽先スープでトロトロのコクを出すか、お手軽な科学的調味料に頼るか。これは迷うところ。あとは、やっぱり、甘味は玉ねぎが一番だ。

 探しに行くモノははっきりしたが、引っ越したばかりで、どこにどんなお店があるのかも知らないままのワタシにはそれらを探しに何で向かうのか、歩くのか、バスなのか、もしくはタクシーで行く距離にあるのか、まったく見当がつかなかった。

 結局、まずは歩いて家を出て、大通りと思われる道まで進んでみた。

意外と簡単にお店は見つかった。

「ふぅ。」

外側はすっかり、暗くなっていた。どこかから微かに雨音が聞こえてきていた。


 ワタシはふっとネコのようにキズ口を舐めては、治りかけたキズをごっそり飲み込んだ。


 じゃがいものスープを作る材料を揃えて家に帰ると、

玄関は開いていた。

「ねぇ、誰かいるのぉ。」

誰か来ているのか。待ち合わせをしていたのかな。

ワタシは思い出せるだけの力をふりしぼって、眉間にシワを寄せてみたが、答えは見つからなかった。

少し開いたドアの隙間からゆっくり中を覗いてみた。

電気はついているようだった。喋り声が聞こえる。

待ち合わせをしていたことをすっかり忘れていたのかもしれない。

 ワタシは急に嬉しくなった。じゃがいものスープは誰かと作る予定だったのだ。

勢いよくドアを開け、部屋に駆け出したワタシは、脱ぎ忘れた片方のサンダルを買い物袋に急いで入れた。

「お待たせぇ。」

「遅いじゃない、もう何時間待たせるの。

いつもそうなんだから、本当にイヤになっちゃう。」

「グズグズしてないで。」

カノジョはどんどん先に進んでいった。

朝から何も食べていないカノジョは珍しく、少しトゲトゲしかった。

「そんなに慌てなくてもいいじゃない。ちょっとだけ待って。」

ワタシはカノジョにそう言って、買い物袋からサンダルを取り出してベランダに置いた。

「早くしないから、お腹が空いて、さっきピザを頼んだわ。あと10分で届くそうだからまずはそれを食べることにしましょ。シーフードとトマトソースのハーフアンドハーフピザMサイズ、サイドディッシュはサラダとスープ。」

「スープ?」

「今日はじゃがいものスープを作る日でしょ。」ワタシの声は少し強張っていた。

そんなことはお構いなしにカノジョはぴったり10分後に、届いたそれらをスルスルと口に運び、満足げにソファーから窓の外を眺めていた。

 気がつくとワタシは暗闇の淵にいた。

水のようにゆらゆらと漂う声を遠くの方に聞きながら、浅い眠りに踏み込んでいた。

カノジョのお喋りはまだ続いていた。

いつまでも、いつまでも続くそのお喋りに軽い目眩を覚えた。

キーン、キーン、キーン、

耳鳴りの奥に何かを感じたけれど、今はそれは大した問題ではなかった。

ふっと顔を上げ、ワタシは、口の周りいっぱいについたトマトソースを黄色い服の袖で慌てて拭った。

見つかったかもしれない。隠れなくちゃ。隠さなくちゃ。

カノジョに見つかる前に元どおりにしておかなくてはならなかった。

急いでピザの箱をテーブルの下に隠して、サラダを冷蔵庫にしまった。

「ああっ」

テーブルの脚に引っかかってコーンスープをこぼしてしまった。

「いけないっ。」

もう手遅れだった。カノジョはすかさずワタシを見つけて、

こぼれたスープをどうするつもりか。と口早に呟いた。

でも、それ以上はワタシのコトは責めなかった。スープをうっかりこぼしたのは間違いなくワタシだった。でも、今日はじゃがいものスープを作る日だった。ワタシはそのことを急に思い出して、買ってきた材料をキッチンに並べようとした。

 すると、おかしいな。揃えたはずのその材料たちは、どこにも見当たらなかった。

「あれっ」

さっきまでいたはずのカレの姿も見当たらなかった。

 カノジョの姿も、どこにもいない。

ふっとベランダの方に目を向けると、遠くの空がほんの少しだけ桃色に潤んで見えた。

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