後編
彼はヒーローに憧れていた。心に秘めないその憧れは、取り巻く環境の良さのおかげもあってまさにみんなのヒーローになっていた。
弱きを助け強きを挫く。正義感は人一倍。下級生には優しく接し、時には横暴な上級生に取っ組み合いのケンカをすることもあった。彼の担任の先生はケンカをするのは良くないと思いながらも、その真っ直ぐな性格は大切な個性として育んでいかなければいけないと思っていた。だから先生も、彼には特別に目をかけていた。
親の期待にもきちんと応えていた。言われたことは守り、言われなくても率先してお手伝いをする。彼の抱くヒーローは、そういった身近な所から生まれると思っていた。そして同時に得られるものもあった。
褒められる。彼は褒められるのを何よりの喜びにしていた。それこそ最初の頃抱いていたヒーロー像は、褒められることの嬉しさを覚えることで気が付けばその喜びのために動くようになっていた。
僕が良い事をすればみんなが褒めてくれる。
偉いね。助かるわ。すごいすごい。気が利くわね。母親からそう言われる度に、彼は弾ける笑顔で応えた。その笑顔は更にみんなを幸せにすることを知っていた。いつも笑っているから母さんも嬉しいわ。
彼の素行の良さは何も家庭内に限らない。近所でも評判の良く出来た子だった。時には近所のおばさんは、自分の子と比較して彼を褒めることもあった。
ウチの子と違って偉いわね。ウチの子に見習わせなきゃ。ウチの子は駄目だわ。
その話のほとんどは彼に直接ではなく、母親を通して聞かされた言葉たちだ。彼はそれらの言葉を噛みしめた。噛みしめて噛みしめて何度も頭の中で再生させたりもした。
彼は喜びの絶頂にいた。何をしても褒められる。それも、そんなに難しいことはしていない。食器を運ぶとか家の掃除とかおつかいとか。そういった細々とした、言ってしまえば誰でも出来ることをやるだけで褒められる。そうやって手に入れられる簡単な努力で手に入れられる喜びに、彼は酔いしれていた。
そしてその喜びは、人と比較された時により爆発的に大きくなることを彼は知った。それにより彼の素行はより一層良いものとなる。
授業中には率先して挙手をするようになった。休み時間は新しい遊びを考案して広めた。みんなが嫌がる掃除も平気な顔でした。それによって彼はより多くの喜びを得られるようになった。比較される喜びを。
皆も見習いなさい。皆があなたのようなら先生も楽なのに。本当に偉いわね。今年の五年生の中で一番よ。
比べられる喜びの正体が優越感であることを彼は知らない。そもそも優越感、という言葉さえも知らない。でもそれで得られる一人ぼっちの全能感は、その快感は、しっかりと得ていた。味をしめていた。
五年生の夏休み。家族と叔父叔母、小学一年生の従兄らと共に海に行くことになった。彼の喜びは既に溢れんばかりになっていた。ここまで来ると優越感の扱いは上手くなっていて、その瞬間を想像するだけで優位になれた。お手軽に得られる快感になっていた。
彼は泳ぐのが得意だった。対して小学一年生の従兄は海が初めてで、話によると水を恐がるらしい。こうなるともう、優越感は約束されたようなものだった。比較の相手が幼かったとしても彼の優位性が損なわれることはなかった。むしろ自分が小学一年生だった頃のことを引き合いに出して、一人愉悦に浸っているくらいだった。
それに、一緒に来る叔父も彼をよく褒めてくれる親族の一人だった。家も近いので、事ある毎に彼に会い、その度によく褒めてくれた。
叔父にも自慢しよう。僕の泳ぐ姿を。
そう思って来た海水浴だったけれど、叔父をはじめ大人たちは皆、パラソルの下でお喋りや飲食をしているばかりだった。従兄は水を怖がって叔母から離れない。彼は一人残される形になった。
相手にされないことほど彼にとって辛いことはない。彼は比較のある喜び、優越感を何より味わいたいと思っているから。
彼は大人たちを、特に叔父に海に入ろうとしつこく誘った。そのしつこさが目立ってそれを注意されたりもした。ほら、叔父さんも困っているでしょ。
それを言われて彼は酷く傷ついた。褒められ慣れているから、傷は些細な事でつく。
よほど落胆していたのだろう。叔父は彼を海に誘った。
「浅い所で遊ぼうか」
彼はその言葉に食いついた。そして同時に疑問を口にした。どうして浅い所なの。
「それはな」
叔父さんはバツが悪そうに言った。
「いい歳してなんだけど、泳ぐのが苦手なんだ」
それを聞いて彼は、それはなんと幸運な! と神様に感謝したくなった。もちろん当時の彼にそんなはっきりとした意識は無かったとしても、優越感を何よりも欲していたので、大人の叔父さんよりも出来る事があるというのが何にも代えがたい喜びとなっていた。
彼は張り切った。遠いところまで泳いでやろう。叔父さんが行けないような遠い所まで!
叔父の言う事を無視して、彼は浅瀬を軽く泳ぎ越えて、まるで足のつかない水深のところまで泳いで行った。
彼は立ち泳ぎのまま、叔父に向かって叫んだ。
「見て! 叔父さん! 僕、こんなに泳げるんだよ!」
叔父は遠くで小さくなっている。果たして叔父はちゃんと見てくれているのだろうか。僕の事を自慢の甥っ子だと思ってくれているのだろうか。
彼は、自分が思っているよりも遠くにいることに気付く。一瞬、不安が頭を掠めた。その微かな動揺は小学五年生を怯えさせるのに充分だった。立ち泳ぎをしている足の動きに、変な力を加えてしまう。
突如襲われる痛み。足が攣った、と思った時には、視界は水の中でぼやけてしまう。助けてと叫ぼうとしても水を飲むだけ。噎せる。暴れれば暴れるほど身体は沈んでいく。彼は完全にパニックになっていた。死という恐れすらも忘れて、彼は焦りでとにかくもがいた。身体を動かすほどに、まるで水底に吸い寄せられるように身体は沈んでいく。しこたま水を飲んで。苦しくて、苦しくて。意識が遠のいていく。
自分の名前を呼ぶ声で意識を取り戻した。ゆっくりと目を開ける。そこには両親と叔父夫婦の顔があった。
両親から、特に父からはこっぴどく叱られた。生まれてきた中で一番激しい叱責だったかもしれない。頬も打たれた。それを叔父が必死に宥めてくれた。
彼は呆然としたままだった。命拾いをしたという自覚は、海から自宅に帰って、なんとはない日々を過ごしていく内に大きくなっていった。
叔父の態度が変わったと思ったのはいつ頃からだったろう。海で命拾いしたその年の年末。いつもは家族親戚揃ってご馳走を囲むので自然と上機嫌になるはずが、それが一向にない。その原因を考えていると叔父と目が合った。
「よう。もう大丈夫か」
叔父は彼に会う度にそればかりを聞くようになった。大丈夫か、というのは彼の具合の心配をしてくれているのだろうけれど、それは、夏に起こった出来事だ。年末に持ちだす話題ではない。
「あの時は大変だったんだぞ。俺は泳ぐのが苦手だったから」
あの時は本当に良かったわ。叔父さんがいてくれて。母が叔父の機嫌を持ち上げるようなことを言う。そう。彼が溺れているのを助けたのは叔父だった。叔父は泳ぐのが苦手とは言っていたけれど、全く泳げないわけではなかったのだ。
叔父が彼を見る。その表情に張り付いているものを見て、彼は目を逸らしたくなった。
「本当だぞ。良かったな。俺が助けてあげて。本当に良かった」
父に酒を注がれながら叔父が言う。その顔が、目が、声が、表情が、酔っていた。酒にではない。
優越感に。酔っていた。
叔父は彼よりも優位に立った。それは彼がどんなに努力しても届かない位置だった。
「俺のおかげで生きてるってことを忘れるなよ」
叔父は酒が回っているのか饒舌に話す。その時のことを自慢げに。武勇伝のように。
実際そうなのだ。自慢していいのだ。武勇伝でいいのだ。それくらいのことをしたのだから。それくらいのことをしてくれたのだから。
叔父が弁舌滑らかに話している中で、彼はそっと両親の顔を覗きこんだ。両親は大袈裟に相槌を打っている。叔父が話すたびに感嘆の声をあげる。
その光景は彼の目に焼きついた。両親は手を叩く。何度も何度も。笑みを張りつけて。その目はまるで笑ってなくて。相槌を打って何度でも繰り返す。本当に良かった本当に良かった。あなたは命の恩人だ。
そうして叔父を褒め称えている様を見ていると、一瞬だけ、二人と目が合った。その目は言っていた。何も言わなくても語っていた。
彼は二人からすぐに目を逸らした。本当は何も言っていない。だけれど確かに彼には聞こえた。喜びの声の裏返しに纏わりつくような卑しさを、確かに彼は感じていた。
叔父の武勇伝がひとしきり終わって母がその場から立ち上がり台所に向かった。お酒を足しにいくのだろう。どうしてか、彼は母親についていった。さきほど感じた視線を無かったことにしたかったのかもしれない。ちゃんとした言葉で否定して欲しかったのかもしれない。
冷蔵庫からビールを取りだしている母。その母に声を掛けようとしたら既に気配を察していたのだろう、母は彼の名を呼んだ。呼んで、言った。
「拾ってもらった命のようなものなんだからね」
母はそう言って、彼の方は見ずに酒宴の席へと戻っていった。
叔父が彼を助けたことを恩に着せて多額の借金を申し込んでいたと知るのは、叔父がガンで亡くなったと知らされた時だった。その時彼は中学生になっていて、その話を聞いた時、改めて母親の言葉を思い出していた。
叔父は彼から優越感を奪った。同時に、優越に浸っているその醜い顔を知ってしまった。以来彼は、内気な性格へと変貌する。言葉数も少なくなり、学校での存在感も日に日に薄くなっていった。
彼の心境の変化を知る者は誰もいない。
僕は女を殴り続けている。何度も何度も。
諦めなさいと言った時に、両親の顔が浮かんだ。
新しいボールと言った時に、弟の顔が浮かんだ。
買ってあげる、と言った時に、あの頃の僕の顔が浮かんだ。決して自分では見られないはずなのに、その顔ははっきりと分かった。ひどく醜い顔だった。
子どもの泣き声が聞こえる。女には馬乗りになっていた。女の顔は腫れ、かろうじて息をしている。
遠くから聞こえてくるサイレンの音。その音がどんどん近づいてくる。
そういえばと思い出す。小さい頃の将来の夢。
僕は警察官になりたかったのだ。皆を守る、憧れられる、ヒーローに。
【了】
僕のゆめ 中田ろじ @R-nakata
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます