第25話 音楽教室脱税事件
八月の初めに催された毎年恒例の「オゾン子供ピアノ発表会」が無事に終了した数日後、思いも寄らぬ事態が勃発した。発表会に参加した音楽教室に税務当局の調査が入ったのである。個人運営の音楽教室を「オゾン」と言う名前を冠してフランチャイズ化し、カリキュラムやレッスン時間、レッスン料金などを統一して「オゾン音楽教室」の名称で運営している事業であったが、三十余り在るその個々の教室に税務査察が入った。茜の企画で始まった事業は生徒の募集や広告チラシの作成などスーパーオゾンの支援もあって結構に評判を呼んでいたし、基礎コースに始まって、ピアノだけでなくエレクトーン、ギター、ドラムの各コースがあって人気を高めていた。
小言小男の係長が茜に命じた。
「君の企画した事案だ。運営の責任も君に在る。調査部長と一緒に教室の先生方へ謝罪して周りなさい」
名も無いメーカーのスイーツを詰め合わせた「オゾンオリジナルスイートセレクション」と細やかな商品券を持って、茜は、毎日、調査部長に従いて回った。社を代表して謝罪するのは専ら調査部長であったが、茜は最も罪深き現場担当者として彼の後に従った。
部長はグレーの夏背広に恰幅の良い躰を包み、お茶も出そうとしない先生方の前で深々と頭を下げて、この度の不手際を詫びた。何を言われても「只々、私どもの落ち度でして」と謝り続けた。
「大体、こんな若い娘にやらせるから・・・」
「申し訳ございません。私どもの監督不行届きでして・・・大変優秀な社員でございますが、何分まだ若いものでございますので・・・良かれと思いましたことが・・・いえ、一重に私共、上の者の落ち度でございます」
言い募る先生相手に彼はもごもごと意味不明瞭に言い続けて頭を下げた。
茜は部長の大きな背に隠れて、内心、不貞腐れながらも一緒に頭を垂れた。
茜は憤懣を込めて思っていた。
所得が有ったのだから税金を支払って当り前だろう、山より大きな猪は出ないし、収入より多い税金は取られない、そんなことも解らないのか・・・
然し、そんなことは口に出せる訳も無く、部長ともども「申し訳ありません」とひたすら頭を下げ続けた。
そうやって三十分、長くても一時間も頭を下げ続けると、漸く、調査部長の人柄もあって、怒っていた先生も次第に諦めの境地に近付いて行き、部長の名刺を眺めつつ呟いた。
「こんな偉い方に足を運んで戴いたのだから・・・」
調査部長は、肩書は部長だが、実を言えば、社内ではそれほど重きを成しては居ない。一口に言えば、窓際族に限り無く近い存在である。スーパーのように直接消費者に物品を販売する店舗は、日々、消費者からの苦情や無理難題に接することが多い。その時に速やかに苦情を処理する必要が生じる訳で、これは誰にでも務まると言うものではない。仮令何を言われても、唯ひたすら、お客様は神様です、と頭を下げ続けること、そして、安月給の苦情処理係でありながら、客には会社の幹部が謝罪にやって来たと信じ込ませるに足る人物の大きさが求められる。調査部長は余人を以て代え難い存在なのであった。
暫くして、二人は解放された。
外には灼熱の太陽があったが、それでも、空はほっと心を和ませる穏やかなパステルブルーだった。茜は困難な仕事を一つ終えて空を見上げる部長の横顔を深い感嘆の念を持って眺めた。部長は上衣を脱いで手に持った。未だ未だ謝罪行脚は続くのである。
茜の慰めは、唯一、石田室長との逢瀬だけだった。
京洛東山の高台に建つ高級ホテルの一室、ダブルベッドの有る寝室と二間続きのリビングで、茜は革のソファに躰を沈めさらりと脚を延ばした。茜が今日、この部屋にやって来た時間には、厚い窓ガラスの向こうには、未だ灯りはちらほらとしか見えなかったが、今はもう既に暮れ落ちた都心の夜景が拡がっていた。耳を澄ますと、窓の下をくねって走っている高速道路の騒音が遠い海鳴りのように聞こえて来た。茜はあの社員旅行で、ものの弾みと言うか、合い寄る魂の必然と言うか、ともあれ上司である石田室長と割りない仲になることが無かったら、国際的ホテルの中にこうした一角があることすら知らなかったであろう。だが、今はこのデラックスな二部屋は、茜とその恋人の逢瀬の間なのであった。
それにしても、遅いなあ・・・
待ち人来たらず。
高速道路は余程混んでいるのだろうか?・・・
茜は待ち切れずに立ち上がって窓の夜景を眺めた。
室長は高速道路が幾ら混雑していても、必ず車の中から電話を架けて来る人なのに、今日は一体どうしたと言うのだろうか?・・・
然し、来ない、来ない・・・来ないのである。
更に三十分が過ぎ、一時間が過ぎても室長は来なかった。
真実に、一体、どうしたのだろう?・・・
無論、多忙を極める取締役執行役員であるから、待たされることは今までにも有った。だが、こんなに一時間以上も連絡も無しに待つことは無かった。
突然、電話のベルが鳴り、いつの間にかうとうとしていた茜は吃驚して飛び上がった。
「ああ、私だよ」
室長の声が聞こえた。
「あっ、今どこですか?」
茜は跳び付くように訊いた。
「待たせたね。漸く仕事が終わって、今、車の中だ」
「大丈夫ですか?運転、気を付けて下さい」
「いや、大丈夫だよ」
室長の声が低く笑った。
「今、車を停めて電話をしている」
「わたし、幾らだって待ちますから、急がずゆっくり来て下さい」
室長は暫く黙ってから徐に言った。
「悪いけど、今日は行けなくなった」
「えっ、どうしてですか?」
室長はまた黙った。そして、続けた。
「先ほど家から連絡があってね。息子が病気らしい・・・」
突然耳にした“息子”と言う言葉に茜は一瞬、度を失った。無論、結婚して妻子の居る室長であることを知らなかった茜ではない。だが、そんなことはすっかり忘れていた。考えまいとして来た。其処にいきなり“息子”と言う言葉が飛び出して来たのである。
それは無いです、それは無いですよ、室長・・・
だが、茜が言えたのは哀しい一言だけだった。
「そうですか・・・お帰りの運転、真実に気を付けて下さいね」
いつだってあんなに愉しかったのに、あんなにいつも嬉しかったのに、どうして急にこんなに辛い淋しいことになったのか・・・
逢う筈が逢えずに終わった空虚さは、茜の心を永遠の彼方のブラック・ホールへ吸い込んで行った。
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