第24話 茜、社員旅行で室長に抱かれる

 女子社員がピン芸人の物真似をしたり、落語を披露する男性社員が居たりして盛り上がった宴会も、時間が経つに連れて座が崩れ出し、彼方此方に数人の塊が出来て斑の空席が目立ち始めた。茜もアメリカへ旅立った雅也へ思いを馳せたりして、やがて興を失った。

つと立ち上がった茜に香織が声を懸けた。

「あらっ、どうしたの?」

「うん、ちょっと、お手洗いへ」

「あぁ、部屋を出て右の奥、直ぐ判るよ」

「有難う」

 床に敷かれた厚いジュータンを踏んで温かいウオッシュレットに座ると、不覚にも涙がじんわりと滲んで来た。

茜は気を取り直し、涙を拭って立ち上がった。そして、身繕いをし、軽く化粧を直して洗面所を出た、が、直ぐに宴会場へ戻る気にはなれず、広いエントランスの先に見える仄灯りの廊下の方へ足を向けた。

 両側に客室の並ぶ廊下の合い間にスペイン風の絵画が掲げられていた。茜は見るともなしに視線を漂わせて先へ進んだ。二階も同じ造りだった。

木彫りの手摺りが仄暗い照明に浮かび上がる階段を更に上った茜の視線の先に、四半開きになったドアから灯りが漏れているのが見えた。茜は誘われるように足音を忍ばせてその灯りに近付いて行った。

不意に男の声がした。

「だあれ?」

穏やかな声だった。

「はい、あのう・・・」

茜が言い澱んでいるとドアが静かに開けられた。

「ああ、君か」

宴会場に居るものと思っていた石田室長が現れた。

「どうした?気分でも悪いのか?」

「いえ、ただ、ちょっと・・・」

「そうか・・・まあ、少し休んで行くか?入り給え」

思わず引き込まれるように中へ入ると、机の上に本が開かれ、スタンドが明るく燈っていた。

「其処に坐りなさい。ポケット瓶のワインなら有るけど少し飲むかね?」

「はい」

大きなソファに躰が沈んで、茜は危うく引っ繰り返りそうになった。

彼女は机の上の本を見遣って訊ねた。

「何を読んでいらしたんですか?」

「ピート・ハミルの“ブルックリン物語”だよ。軍隊に入った少年がクリスマス休暇で故郷へ帰って来るんだが、入隊前に交際していた彼女には新しい恋人が出来ていて、大学へ進学した級友達とはもう気持が通い合わないんだな。然し、弟や無口な父親やパートで働く母親の為に、家族皆でクリスマスを祝おうと、乏しい金をはたいてツリーやケーキを買って帰る主人公の姿に何だか妙に惹かれちゃって、ね」

話を聴きながら、この人は本質的に優しい人なんだ、と茜は改めて思った。

それから、疑問に思ったことを直截に訊いた。

「でも、室長は何故、お部屋に?」

「いや、僕が居ては皆も盛り上がり難いだろうからね」

「いえ、そんなことはありません、絶対に!」

室長は茜の思わぬ強い反論に苦笑を浮かべた。

「それに、部長さん方も皆さん未だ居らっしゃいますし・・・」

「ああ、あの人たちはサラリーマンだからね。僕はオーナーの縁者だから、皆が気を遣うし、煙たがりもするんだよ」

茜は思った。

慰安旅行に来てまで、こんなに周りに色々と細かく気を配る人なんだ。同輩も部下も面従腹背、四面楚歌なのかもしれないわ。室長って可哀相・・・

「それに何方かと言うと、あまり賑やかな処は苦手なんだよ、僕は」

そこで室長は立ち上がって言った。

「さあ、君も下へ行って、皆と一緒に愉しんで来なさい。誰か居ないのかね、タイプの男性は、うちの社に・・・」

「私の彼は一年間の留学でアメリカへ旅発ちました、二ヶ月前に」

「ほう、それは凄いね・・・でも、やっぱり、ちょっと淋しいね、君には・・・」

優しく慰められた茜は室長の胸の辺りにそっと手を添えた。室長の腕が茜の肩をゆっくりと撫でた。柔らかく包まれた室長の腕の中へ顔を伏せると、茜の眼から涙がポロポロと零れ落ちた。顎がそっと持ち上げられ、唇が暖かく塞がれた。室長がドアを閉め、灯りを一段と落とした。それからのキスは長く深く、そして、熱くなって行った。一瞬、雅也の顔が茜の胸を掠めたが、それはもう弾むベッドの中だった。

 

 多忙を極める室長と茜の逢瀬は半月に一度か二カ月に三度くらいしかなかったが、逢えばいつも、茜の心と躰はゆっくりと解けた。躰の中心から魂を揺るがす震えがやって来たかと思うと、それは津波のように見る見るうちに高まり迫って茜の魂を捉え、揺さぶり、高く浮遊させ、繰り返し、繰り返し、遠い彼方へ彼女を運んだ。それは将に躰の快楽であり魂の陶酔であった。

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