第22話 ピアノリサイタルの夜に

 その夜・・・

「菅原涼香ピアノリサイタル」は最後のアンコール演奏も終わり、満場の拍手の中で、青い長いドレスを着た涼香先生が挨拶の為に舞台中央へ進み出た。客は先生が教えている音大の学生や個人教授の弟子たちとその親や友人知人等で、ざっと八割どころが若い女性たちで占められていた。

「本日はお寒い中をわざわざご来場下さいまして誠に有難うございました。厚く御礼申し上げます」

そこで涼香先生は少し太り気味の躰を艶やかに折って一礼した。流石に音大教授の貫禄であった。

「ただ今申しましたように、ロマン派の音楽は大変に奥が深うございまして・・・」

ウイーンの地の音楽と生活を説いた涼香先生の挨拶も終わりに近づいた。

「今後も怠らず精進して参りたいと存じます。今夜は真実に有難うございました」

明るい舞台の照明の中で青いドレスがもう一度ふわりと動いて頭が下がり、先生は花束を幾つも抱えて脇に消えた。

舞台が暗転して客席の照明が点いた。

 帰るお客を出口で一通り見送った茜が舞台裏に回ると、其処はいつもながらの大混雑だった。兎も角も聴きに来たことを証明する為に、先生に一言挨拶をして帰ろうとする弟子やその親たちが列を作り、涼香先生は頬を紅潮させながらその一人一人に丁寧に礼を述べていた。そのナイーブな姿は茜の心を惹きつけた。

「あらっ」

涼香先生が挨拶の合間に目敏く茜を見つけて、言った。

「今日は真実にお世話になったわ、とても気持ち良く弾けて。あなたが居なかったらとてもこんな具合には行かなかったと思うわ」

此方が礼を言うべきところを逆に出演者から先に礼を言われて、茜は思わず口籠った。

その時、茜は、挨拶の人々の後ろに隠れるように立って居る石田室長に気付いた。

「あっ、先生、うちの室長が・・・」

涼香先生はその言葉に弾かれたように振り向き、廊下の隅に立って居る室長を見つけると、次の順番の若い弟子に「ちょっと待ってね」と囁いて、自分から其方へ小走りに近づいた。室長は恥ずかし気に背の高い躰を屈めてそれを迎えた。

「今夜は大変美しい音楽をお聴かせ頂いて、真実に有難うございました」

「いえ、もう未熟な演奏で・・・でも、お聞き頂けて嬉しゅうございましたわ。どうか、彼方においで頂いて是非ご批評を・・・」

石田室長は音楽に造詣が深く、その名は、知る人ぞ知る、であった。

「いえ、私はただ、一言御礼を申し上げようと存じまして・・・」

彼は低い声で短くそう言うと、もう一度恥ずかし気に会釈をして、出口の方へ向かった。

茜は慌てて室長を追った。出口で追いつくと室長も彼女に気付いた。

「ああ、君も遅くまでご苦労さんだね」

「いえ、はあ、あのう、仕事ですから・・・」

茜は完全に上気していた。

「居らしていたこと、全然気づきませんで、真実に、ぼんやりで、わたし・・・」

「いや、休憩の後、暗くなり始めた時にやっと滑り込んでね」

室長は優しく応えた。

思わず嬉しくなった茜はぐっと息を吸い込んで一瞬止め、そして、「今日は真実に有難うございました」と頭を下げた。

「では、私はこれで」

室長が帰りかけた。

「はい、失礼します」

機械的に応答した茜に、室長は今一度振り向いて言った。

「君も気を付けてお帰り」

室長はあくまでも優しかった。

 挨拶の客達も帰り、誰も居なくなったホールをもう一度見直して、後のことを警備員の叔父さんに頼み、茜はエレベータで一階に降りて裏口から外へ出た。

 

 人影のない歩道を二、三歩歩くと、隣のオフィスビルの陰から大きな人影がぬうっと近寄って来た。茜は思わず躰を固くしてハンドバッグを抱き締めた。

「やあ、茜」

その声を聴いた時、茜はほっとしつつも、わが耳を疑った。

「あらっ、どうして?」

「待って居たんだよ。菅原涼香リサイタルも聞いていたんだぞ」

其処に立っていたのは大学の二年先輩で目下のところの茜の恋人だった。卒業した後そのまま大学に残って修士課程へ進み、研究に没頭して末は母校の教授になることを考えている高橋雅也と言う男だった。

「君に逢いたいと思って、な。暫く逢っていなかったからさ」

雅也は真面目な顔で言った。

「後はもう何も無いんだろう?」

「うん、無いわ・・・飲みに行こうか?盛大にやろうよ。何処か良い店、知っている?」

だが、雅也は真剣な眼差しで、にこりともせずにこう言った。

「俺、今、君と寝たいんだ!」

「えっ、なに?」

「急だけど、良いんじゃないかな」

雅也の言った言葉が茜の心の中へ染み入って来た。急に彼女の中で震えが起きて、躰の中心から周りへ拡がって行った。足の力が突然抜けて茜は思わず建物の壁に寄りかかった。確かに久しく遠ざかっていた。茜の躰も雅也と同じように機が熟していた。

「良いわ、解ったわ。この前のホテルへ行こうか」

「そうか、なら・・・」

時も良し、明日は月に二回の管理本部全体の休業日である。嬉しさが茜の心の底から湧き上がって来た。

 茜と雅也は、これまで、週に一度、長く開いても十日に一度はデートを怠らず、そして、デートをすれば必ず愉しいベッド・プレイを欠かしはしなかったのだが、どういう訳か、このところ半月以上もの間、二人の逢瀬は無かった。

抱き合うと直ぐに、雅也の厚い胸板と蛋白質の体臭の下で、茜はその肉体を簡明直截に震わせ、思わず心悸昂進、心拍上昇、血色高揚、あられもなく乱れた。普段は唯ひたすら楽しいと思うだけで過ごして来た二人の夜が、今夜は特別なもののように思われて、茜は心身を溺れるに任せた。

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