第4章 思わぬ躓き

第21話 水原茜、イベントのチーフを任される

 大学を卒業した水原茜は、地元京都に本部を置き「顧客と地域社会への貢献及び物心両面の幸福の追求」を企業理念に掲げて、総合スーパーとスーパーマーケットを近畿や東海、北陸地方に展開する大手小売業の「株式会社オゾン」へ入社した。彼女が配属されたのは管理本部のCS推進室だったが、其処は会社の提供する商品とサービスに対する顧客の満足度をより一層高めるカスタマー・サティスファクションを追求し推進するする部門で、公益財団法人である「オゾン財団」を通じて文化、環境、教育、体育、児童福祉などの事業を推進していた。具体的には、美術展や演奏会の開催、自然環境の保護活動、給付型奨学金の支給、各種スポーツ行事の開催と支援、優秀選手の海外派遣費用の助成、福祉施設入所児童へのランドセルや文具セットの贈呈、その他イベントやカルチャークラブや音楽教室などの企画と運営が主な業務だった。

入社三年目で二十四歳になった茜は、既に新人の域を脱して、各種のイベントや催し行事の企画と運営をチーフとして任されることが多くなっていた。

 

 今日も朝の六時半、茜はベッドの中で半ば寝惚けたまま、鳴り始めた目覚まし時計を止めた。ウ~ンと伸びをして、そろそろ起きなければ、と思いつつも、また丸くなって眠り込んでしまいそうになる。蒲団の襟と肩の間から忍び込んで来る空気がめっきり冷たさを増している昨日今日、独り寝の朝のベッドの中で、不覚にも、彼女は又うとうとと微睡んだ。

「茜、何しているの?早くしないと遅れるわよ!」

母の呼ぶ声が階下からから聞こえて来た。

そろそろ七時に近くなった頃、彼女は漸くベッドから降りて、一階の洗面所へ下りて行った。が、途中で階段を踏み外し、二、三段、たたらを踏むようにして滑り落ちた後、壁に手を突いて躰を支え、やっとはっきりと目を覚ました。それから、ナイト・ガウンを羽織ったまま、軽く化粧を済ませて髪にブラシをかけた。

ダイニング・キッチンへ入った彼女は時計を横目に、コーヒーをセットし、パンをトースターに入れ、流しに向かって手早くレタスを洗いにかかった。その時、三つ歳下の弟が廊下の奥から小走りに駆けて来る音が聞こえた。茜は本能的に直ぐにテーブルへ向き直ったが、タッチの差で弟に負けた。

「おっ、ラッキー!」

そう言って弟はトースターからパンを摘まみ上げて口に咥え、ガラスポットのコーヒーをモーニングカップに注いだ。

「こらっ!それはあたしのよ!」

「ほらほら、二人とも何しているの!」

「あっ、レタスも有るんだ!」

母の叱責を他所に弟はパンとレタスとチーズを口の中へ一緒に押し込み、もぐもぐと噛みながらコーヒーで喉へ流し入れた。

 朝食を食べ終わった茜は着替えの為に二階の自室へ駆け上がり、ノーブランドのウールブラウス・ジャケットとスラックスで身を固めて玄関に降り立った。そして、玄関脇の駐車場から自転車を引っ張り出して素早く跨り、直ぐに漕ぎ出した。晴れ渡った明るい空の下、未だ畑の残る宇治西郊の緩やかな住宅地の裏道を自転車は駅を目指して疾走した。初冬の朝の空は青く高く、白い千切れ雲がゆっくりと西から東へ流れていた。

 

 最寄り駅から電車に乗り継いだ茜は爽やかな心持ちで繁華街の中心地、四条河原町に在る大型の本店店舗へ入って行った。

「おはようございます。今日も一日、明るく元気に頑張りましょう」

全員で唱和した朝礼が終わると、直ぐに、係長が茜に声を懸けた。

「水原君、ちょっと」

「あっ、ハイ」

茜は嫌な予感がした。係長は三十代後半で短身痩躯、黒縁の眼鏡をかけ、こめかみに青い筋を立ててねちねちと小言を言う。小言が始まるとなかなか終わらない。職場の部下たちは陰で“小言小男”と呼んでいた。

案の定、薄い眉毛を吊り上げて係長が言った。

「君は何も解っちゃいないね。尤も、二年や三年、企画の仕事をしたと言ったって、何かが解かる訳でもないがね。こういう馬鹿げたプランを持って来ると言うのは、君は、うちの顧客がどんな連中なのか、解かっているのかね?」

昨日の終業直前に茜が提出した企画書をボールペンの尻で神経質にトントン突きながら、彼は続けた。

「ちょっと売り場を歩いて見なよ、な。頭で考えるだけじゃなく現場を歩く、それが大事なんだよ」

「はい・・・」

職場の中に「また、始まった」という鬱としい空気が漂い始めた。

「ずた袋を下げたおばちゃんとかファッション雑誌を抱えたイモ姉ちゃんが群れを成して居るのがうちの売り場だ。それがうちのお客なんだよ。だから、演歌をやれ、とか、歌謡ショーをやれ、とは言わないが、文化だよ、文化。おばちゃんやイモ姉ちゃんがうちの店へ来れば、ああ、仄かな文化の香りがする、と思ってうっとりする。此処の五階に香水売り場が在るだろう、うちで香水を買うお客なんて居やしないよ。居やしないが、だ。“オゾン”へ行けば香水も売って居る、そう思うから、特売のセーターやカーディガンを買いにうちへ来るんだ。な、解るだろう?だからオゾンホールの企画も香水なんだよ、香水。文化の香るものでなきゃ駄目なんだ。真正面からモーツアルトとかバッハとか、或は、ジャズ、ポピュラー、スタンダード、クラシック。コンサートでもリサイタルでも、独唱会でも良いんだよ」

「はい・・・」

係長はまたボールペンで茜の企画書を叩いた。

茜は窓の外へ眼をやった。

室内の殺風景な書類棚と向かいの中層ビルの間に辛うじて覗いている冬空は、嫌になるくらい真っ青だった。

「前衛三味線とか暗黒舞踊なんて言うのは・・・君、聞いているのかね?」

「はい・・・」

「大体が、邦楽じゃ、そもそも陰気なんだよ、イメージが。おまけに暗黒舞踊と来る。折角の土曜日に、ママが上の子の手を引き、パパが下の子を肩車して、オゾンにやって来る。ママは暖かいウールのスカート、パパは新しいゴルフウエア、子供達にはお揃いの可愛いブルゾン。そして、八階のオゾンホールではバロック音楽の午後。これで完璧というものだ。ところが、バロック音楽の代わりに前衛三味線と暗黒舞踊では、ゴルフウエアを買う気も失せる。本人がクラシックを好こうが好くまいが、庶民っていうのはそう言うものなんだ。それを解りもしないで、君の変な趣味を持ち込んだって通用しないんだよ。これだから困るんだよな、君は真実に何も解っちゃいないね」

茜は昨日、オゾンホールの企画書を提出した折に、ついつい口を滑らせてしまった。

「これまでの企画は大凡マンネリ化していますね」

それがいけなかった。その所為で朝からこんな説教を聞く羽目になった。彼女は、あれは拙かったなあ、とちょっぴり自己反省した。

茜は表面しおらしく頭を垂れた。言いたいことは山ほども海ほどもあったが、言えば言うほど時間がかかる。それに今日は夜にイベントがあって早くその準備に取り掛からなければならなかった。此処は、雄弁は金ではなく、貝の沈黙こそが金であった。

 その時、ちょうど上手い具合に、係長の前の電話が鳴った。

「はあ、はい、はい。直ぐ、只今」

係長は、半分は電話に向かって、半分は自分の肩越しに見えるフロアの中央に向かって、お辞儀を繰り返した。茜がその視線を追って中央を見ると、茜の部署が属しているCS推進室の石田室長が電話を切って立ち上がり、係長を手招きしていた。

「じゃあ、君の若い感覚を活かして、且つ、うちの企業イメージを壊さぬ線で、何か斬新な企画を立て直してみてよ、ね」

小言小男は訳の分からぬことを言い残して、そわそわと室長の席へ向かった。

助かったぁ~・・・

茜はほっと安堵の息を吐いて秘かに室長へ感謝の眼差しを送った。

 スーパー「オゾン」の創業者、石田会長兼オーナーの甥である室長は未だ三十代中半で取締役執行役員となり公益財団法人「オゾン財団」の理事の一人にも名を連ねて、カスタマー・サティスファクションの五つの事業を統括し、(株)オゾンの更なる将来発展と躍進に向けて、陰陽に亘って、その活動を推し進めていた。

ひょっとして、私が絡まれているのに気付いて、室長は小言小男を呼び付けてくれたのかも知れない・・・

茜はフロアの中央で係長と立ち話をしている長身で肩幅の広い室長の後姿へ心浮き立つ感謝の視線を送りながら、自分もイベントの準備の為に八階のホールへと急いだ。

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