第15話 名は揚羽蝶、住所はストリップ劇場
既に健二には判っていた。先刻、女性を初めて見たように思ったのは、彼女が眼鏡を外していたからである。健二が手術前に見た女性は、終始、サングラスを架けていた。
母親は三日間付き添って、一旦米子へ帰って行った。その間に、パジャマや下着や歯ブラシなど最低限度の日用品を病院の売店で買い揃えてくれた。
健二は何とか歩けるまでに回復した。
膿を抜く処置が済み、食事も重湯からお粥に変わって、点滴の必要も無くなった。あの激痛も救急処置室の酸素テントも、まるで嘘のようだった。
実際、危ないところを助かったのである。
「君の虫垂はぶよぶよになっていたんだよ。その虫垂が破れて急性腹膜炎を起こしたんだな」
穿孔による急性腹膜炎は一刻も早く手術をしないと生命を失う危険がある。
「きちんと治しておかないから、こう言うことになるんだ」
健二は医師に叱られた。
「甘く見たらいかんのだよ!」
確かに、言われてみれば、そうだった。元来、健二は健康で病気らしい病気に罹ったことが無い。二月前は意外と早く痛みが治まったので、最後まできちんと医者に通わなかった。その後も、一、二度痛みはあったが、彼は勝手に薬を呑んで誤魔化してしまった。
健二はサングラスの女性に生命を救われたのである。女性がいち早く車掌に連絡してくれなければ、健二はどうなっていたか分からない。そのうえ彼女は彼が麻酔から覚めて意識がはっきりするまで付き添ってくれた。
同室の患者は武藤勲と言って、胆石の手術を受けた大工の棟梁だった。彼の話によると、健二の手術が終わると、女性はこの部屋にやって来てあれこれ整え、時々、処置室へ覗きに行った、ということだった。
「派手な形の、訳の解らん女にしちゃ感心だったよ。母親を同じ病気で亡くした所為かも知れないな」
「母親を?」
「はっきり言った訳じゃないが、そんな口振りだったな」
すると、女性が列車の中で車掌に言った“死んだ女”というのは、自分の母親のことだったのか?・・・
健二は改めて、彼女に感謝とお礼の言葉をきちんと伝えたい気持になった。
女性は名前と住所を病院に告げてあった。重態の患者を連れ込んだので、病院では念の為に身元を確かめたのであろう。女性の名は「揚羽蝶」と言い、住所は京都市内になっていた。電話番号は残されていなかった。健二は偽名のような気がした。余りにも変わり過ぎる名前であった。もしも偽名ならば、女性は真面な女では無いことになる。そうではないことを健二は願った。
ひょっとして、何かの芸名かも?・・・
健二は病院に二週間入って居た。京都から新幹線で一時間、それに特急に乗り継いで三十分余りの地方病院で過ごした訳であるが、健二の心は安らいだ。
この港町に近い小さな都市には東京や京都などの大都会には無い穏やかさがあった。道路の街路樹が陽光に煌めいて、行き交う人々の歩みは伸びやかだった。健二は天から授かった心身の静養の如くに病院での日々を安穏に過ごした。
退院して故里米子で三日ほどを過ごした健二は、京都へ帰ると直ぐに、女性宛に礼状を書いて投函した。だが、それは「宛先人不明」の付箋が付いて戻って来た。彼は愈々、女性のことを真っ当な女とは思えなくなった。住所が変わった可能性も無くはなかったが、然し、あの名前から推しても住所ともども出鱈目であったに違いない。健二への親切は母親の死が心の底に在った故のことと思われた。
暫くして、健二はネットで調べた地図を頼りに宛て処を訪ねてみた。が、京都へ来て日の浅い彼にはよく分からなかった。探し当てた交番所で訊ねると、お巡りさんが近在の地図を広げながら、えっ?と眼を見張った。
「この住所はストリップ劇場の住所ですね」
「ストリップ劇場?」
「ええ、所も番地も劇場と一致します。何かの間違いじゃないですか?」
健二には言う言葉が無かった。
ストリップのヌードダンサーだったのか?彼女は?・・・
そう言えば、濃い化粧、赤いマニキュア・・・思い当たることが無きにしも非ずだった。
が、秋が更け、冬を迎え、そして、年を越して春が過ぎ、また夏がやって来た。その間、健二はいつとは無しにサングラスの女性のことを忘れ去って行った。
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