第26話 それぞれの戦い

 手術室に入る直前、レイラがヒッキーに不安そうに話しかける。


「ねぇヒッキー、もし私が……帰ってこれなかったら、あなたは誰か良い女性ひとを見つけて幸せになって」

「馬鹿野郎、そんな縁起でもないこと言うなよ!」

「じゃあ……もし無事に戻ったら、私たち、正式な夫婦になろうね」


 ヒッキーは一瞬黙り込むが、拳を握りしめて口を開く。


「夫婦になるのは今だ。誰がなんと言おうと、国王がどう思おうと、今ここで結婚する!」


 周囲の医師たちや看護師が驚いて見つめる中、ヒッキーはレイラの手を握る。


「俺が夫で、お前は俺の妻だ。何があっても俺はお前を守る。それだけは絶対に変わらない」


 レイラが涙を流して微笑み、ヒッキーに頷く。

 その瞬間、周囲にいる人々も思わず見守りながら、控えめに拍手を送る。


 ヒッキーはしばらく考え込むが、やがて医師たちの方を向いて堂々と宣言する。


「俺は何もできないけど、手術室の外で祈っている事しかできないけど……レイラをよろしくお願いします」


 医師団が静かに頷く。

 ヒッキーは続けた。


「手術の結果がどうなっても、俺は先生達を恨むような事はいたしません。たとえレイラの目が見えなくなっても、歩けなくなっても、俺が全部背負って生きていきます」


 やがてカルディナ医師が口を開いた。


「あなたのその言葉、我々もしかと胸に刻みます」


 その後、ヒッキーがレイラの元に戻り、手を握りながら静かにこう語りかける。


「どんなことがあっても、俺たちは一緒だ」

「……ありがとう。あなたが待っていてくれるなら、私は必ず戻るわ」



 ゼリナード王国の王宮病院に集まった各国の医師たちが緊張感の中で最後の打ち合わせを行う。

 カルディナ医師は手術室の準備が整ったのを確認し、集まった医師たちに語りかけた。


「この患者はアストレア王国の王女であるが、それと同時に将来のある若者だ。彼女には多くの未来が待っている。我々はその未来を守るためにここに集まった。言うまでもないことだが、全力を尽くしてこの手術を成功させる」


 医師たちの真剣な眼差しを受けながら、カルディナ医師はさらに続けた。


「おそらく、この手術は12時間を超える長丁場になるだろう。技術的にも大変だが、それ以上に体力勝負になる。私が交代を命じたら、速やかに従うように。そして、手を下した者は次の出番に備えてしっかりと休息を取ること。緊張感を保ちつつも、決して無理をしてはならない」


 カルディナ医師は集まった医師たちを見回し、力強い声で語りかけた。


「さあ、始めよう。君たちが積み重ねてきた修練は、まさにこの日のためにあったんだ。今日ここに集まった君たちは、最高の知識と技術を持つ脳神経外科医だ。今こそ、その力を発揮してほしい」


 その言葉に応えるように、医師たちは一斉に頷き、目に決意の光を宿した。



 手術室には、緊張感と集中力が張り詰めていた。

 開頭手術と腫瘍摘出の最初の部分を担当したのは、ゼリナード王国のクレティス医師だった。


 術野に広がる腫瘍は、予想を上回る大きさで、そのほとんどが脳に埋まっていた。


「こいつは手強いな……」


 クレティス医師は心の中でつぶやき、慎重に作業を進めた。


 脳表に露出している部分の被膜を切開し、その中から腫瘍の一部を切り取る。

 しかし、腫瘍からは予想以上の出血が見られた。

 クレティス医師は素早く操作し、止血を確実に行う。


 次に取りかかったのは、腫瘍を包む被膜とその外側の脳実質の間の剥離だった。

 被膜は殆どの部分がしっかりしていたものの、溶けている箇所もあり、腫瘍と脳が直接接している部分も見られる。

 クレティス医師はその度に手を止め、慎重に剥離を進めた。


 しかし長時間に及ぶ繊細な操作が、彼の集中力を確実に削っていく。


「やはり体力勝負じゃな、この手術は……」


 その言葉がカルディナ医師の口をつく頃、手術はすでに開始から5時間を経過していた。

 クレティス医師の手の動きにも、疲労の色が濃く見え始める。


 カルディナ医師がその様子を見て、静かに指示を出した。


「よくやった、クレティス医師。ここで交代じゃ。ロヴァリス医師、頼むぞ」


 クレティス医師は額の汗を拭いながら、微笑んだ。


「腫瘍がしぶとい分、やり甲斐もある。次を頼むぞ」


 交代を告げられたロヴァリス医師は、気合に満ちた顔で手術台に向かった。

 カルディナ医師は小声で呟いた。


「他人の手術を横で見ていると、だんだん目が肥えてくるもんじゃよ……自分ならこうするのに、と思い始める。不思議なことじゃ」


 ロヴァリス医師は、その言葉に微笑を返しながら手術に取りかかった。


 彼の手技はエネルギッシュかつ正確だった。

 腫瘍を切除しては止血し、また切除しては止血する作業を繰り返す。

 その動きには疲れの色は見られず、むしろ徐々に腫瘍本体が小さくなっていくことで、チーム全体に安堵の空気が広がり始めた。


「腫瘍が小さくなればなるほど、次の段階が見えてくる。もう少しだ、皆、集中を切らさずにいこう」


 ロヴァリス医師の力強い声が手術室に響き渡り、次の段階へ向けた希望を感じさせた。


 しかし、腫瘍摘出の本当の難しさはここからだった。

 ロヴァリス医師の手の動きが次第に鈍り始める。


 腫瘍を摘出しては止血、また摘出しては止血という作業のリズムが乱れ、止血に時間を取られることが増えてきた。

 さらに、腫瘍被膜の内側での操作は困難を極める。

 ほんの少しでも被膜を破ってしまえば、すぐ外側にある脳実質を損傷してしまう可能性があるのだ。


 ロヴァリス医師は慎重な操作を重ねながらも疲労の色を隠せなくなっていた。


 その様子をじっと見ていたダリエン医師は、静かに手術室を後にする。

 控室で待機していたサリオス王夫妻とヒッキーに向かって、落ち着いた声で説明を始めた。


「現在、腫瘍摘出の最中です。まもなく私に交代の声がかかるでしょう」


 ヒッキーは思わず身を乗り出し、強い口調で頼み込んだ。


「ダリエン先生、お願いします!」


 サリオス王も静かに、しかし力強く言葉を紡ぐ。


「ダリエン君、頼むぞ」


 微笑みながらダリエン医師は答えた。


「国王陛下、お妃様、そしてヒッキーさん。これから私は全力で腫瘍と戦って参ります」


 ダリエン医師は軽く会釈すると控室を後にした。

 その後ろ姿に、ヒッキーは静かな自信を感じ取っていた。


 手術室に戻ったダリエン医師は、疲労の色を隠せないロヴァリス医師と交代した。

 彼の手技は力強く、それでいて大胆だった。


「出血を恐れてはならない」


 ダリエン医師は出血を気にせずに腫瘍を取り始めた。

 すでに剥離が終わっている腫瘍被膜と脳実質の間に小さな綿片を挟み込み、境界を明確にする。

 被膜を破ったとしても脳実質を損傷しないためだ。

 それにより、摘出の速度が格段に上がり、腫瘍を次々に取り除いていった。


 腫瘍の摘出が進むにつれ、出血の量も次第に減少していく。

 その姿に、手を下したロヴァリス医師はしみじみと感嘆の声を漏らした。


「なるほど、上手いなあ……」


 その横では、休息を取って再び元気を取り戻したクレティス医師が控えていた。


 やがてダリエン医師は慎重に最後の腫瘍片を被膜ごと摘出した。

 手術室には一瞬の静寂が訪れた後、カルディナ医師の力強い声が響き渡る。


「よくやった、腫瘍は全摘じゃ!」


 クレティス医師が再び手術に入り、閉頭を行っている間、ダリエン医師はカルディナ医師とともに控室に戻り、待っていた人々に報告する。


 控室の扉が開くと同時に、ダリエン医師の声が響いた。


「ただいま、腫瘍を全摘出いたしました」


 その瞬間、控室に喜びの声が沸き上がる。

 ヒッキーは感極まり、ダリエン医師の手を強く握り締めた。


「ありがとうございます、先生。本当にありがとうございます!」


 サリオス王も満面の笑みで立ち上がり、冗談めかして声をかける。


「ダリエン君、もう我が国をすべて君にくれてやりたいくらいだ!」


 ダリエン医師は苦笑しながら、謙遜した口調で答えた。


「陛下、それはさすがに過分です」


 控室には笑いと安堵の空気が広がり、全員が手術の成功を祝福した。

 その中でヒッキーは、レイラが元気を取り戻す未来を強く確信し、静かに涙を浮かべた。


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