第25話 レイラの不安
いつの頃からだろうか。
レイラは次第に歩きづらくなっていた。
ヒッキーと村を歩いているとき、レイラが突然つまずき、バランスを崩した。
「おっと!」
ヒッキーが腕を伸ばし、彼女を受け止める。
「大丈夫か?」
レイラは笑みを作ろうとしながら小さく頷いた。
「気にしないで。ただの不注意よ」
しかし、それが一度だけではなかった。
言葉が詰まりがちになり、時折、舌がもつれるような違和感を覚えた。
ある日、ヒッキーと夕食の準備をしていると、レイラが皿を手から滑らせ、派手な音を立てて床に落とした。
「レイラ!」
ヒッキーが慌てて駆け寄ると、彼女は皿の破片を拾いながら、目に怯えの色を浮かべていた。
「……ごめんなさい」
「いや、いいんだ。でも、なんか様子がおかしいぞ」
ヒッキーは彼女の肩をそっと掴み、真剣な目で言った。
「レイラ、何があってもオレが何とかする。とりあえず明日、エルドルフさんに相談しよう」
翌朝、ヒッキーはレイラを連れて村の長老エルドルフを訪ねた。
エルドルフはヒッキーの話を静かに聞きながら、渋い顔をして腕を組んだ。
「30年ほど前のことじゃった……村の若者が似たような症状で苦しんでおったのを思い出す」
「どうなったんですか?」
ヒッキーが急いで尋ねると、エルドルフは深いため息をついた。
「結局、その若者は脳腫瘍じゃった。そして……間もなく命を落とした」
ヒッキーの顔が青ざめる。
「でも、あれから30年経った。今なら、何とかできるかもしれん」
エルドルフは真剣な表情で言葉を続けた。
「幸い、ワシの幼馴染のカルディナ医師がゼリナード王国の王宮病院におる。あいつなら、原因を突き止めることができるかもしれん」
「カルディナ医師……?」
「そうじゃ。一貫して人の命を救うことに人生を捧げてきた奴じゃ。早急にレイラを連れて行くべきじゃろう」
エルドルフの言葉に、ヒッキーは深く頷いた。
「分かりました。すぐに準備をします」
レイラは隣で不安そうな顔をしていたが、ヒッキーは彼女の手を強く握りしめた。
「大丈夫だ、レイラ。必ずなんとかするから」
その言葉に、レイラは微かに頷いた。
ヒッキーとレイラ、そしてエルドルフは王宮病院へ急いだ。
カルディナ医師はすぐにレイラを診察室へ招き入れ、いくつかの簡単なテストを行った。
「さあ、少し歩いてみなさい」
レイラはゆっくりと歩き出したが、時折バランスを崩してしまう。
カルディナ医師は眉間にしわを寄せながら、今度は片足立ちを試すよう指示した。
レイラは片足を上げたが、数秒もしないうちにふらつき、思わずヒッキーの腕に掴まった。
カルディナ医師は黙ったまま頷くと、静かに言った。
「どうやら、頭の中で何か異変が起こっておるようじゃのう。ちょうど王宮病院に最新の診断機器が設置されたばかりじゃ。それで調べてみよう」
レイラはすぐさま診断機器の中に入れられた。
医師たちが操作を始め、待つことしばし。
機械が停止し、フィルムが出てきた。
カルディナ医師はそれを手に取り、一瞬、息を呑んだ。
「やっぱりか……」
フィルムには、素人目にも分かるほど巨大な脳腫瘍が映し出されていた。
脳の正常部分が腫瘍に圧迫されて変形している。
「うっ……!」
それを見たレイラは、涙を流しながらヒッキーにしがみついた。
「ヒッキー……私、どうなっちゃうの?」
ヒッキーは彼女を抱きしめ、力強く言った。
「何とかする。絶対に何とかするからな」
エルドルフも険しい顔でカルディナ医師に尋ねた。
「何とかならんのか、これは?」
カルディナ医師はフィルムを見つめたまま、しばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。
「手術しかないじゃろう。しかし、この腫瘍は難しい……幸いなことに王宮病院には脳神経外科手術の名手、クレティス医師がいる。まずは彼の意見を訊こう」
直ちにクレティス医師が呼ばれた。
フィルムを手に取った彼は一目見るなり、真剣な表情になった。
「これは確かに大きいですね。手強い相手ですが、取れないわけではない。ただ、おそらく長時間の手術になるでしょう。私1人では心許ない……応援を頼めませんか?」
カルディナ医師が即座に頷いた。
「この患者はアストレア王国の王族じゃ。アストレア王国に協力を求めることができるじゃろう」
ヒッキーはすかさず提案した。
「パルテシア王国のイリス王女にも頼みましょう! 彼女なら、きっと助けてくれます」
「ふむ、それならば万全じゃな。ワシらの他にあと2人いれば何とかなる」
こうして、アストレア王国からはダリエン医師、パルテシア王国からはロヴァリス医師が応援に駆けつけることとなった。
カルディナ医師はレイラとヒッキーに優しい表情を向け、深く頷いた。
「王族といえども病気の前では1人の人間じゃ。しかし、心配することはない。この30年間、医学は驚くほど進歩した。この脳腫瘍は決して不治の病ではない。我々は総力をあげて治療にあたる」
その言葉に、レイラは涙を流しながらも微かに微笑んだ。
ヒッキーもまた、大きく頷いた。
「俺たちは絶対に乗り越える」
こうして、レイラの命を救うため、壮大な手術の準備が始まった。
レイラの手術を控えた部屋には、緊張感が漂っていた。
アストレア王国から駆けつけたサリオス国王夫妻、ヒッキー、レイラ、そして関係者が集まり、カルディナ医師と3人の脳神経外科医たちが手術の概要を説明していた。
カルディナ医師が静かに口を開く。
「脳腫瘍が普通の外科手術と違うところは、腫瘍を摘出する際に、周囲の脳組織を傷つけずに取り除く必要がある点じゃ」
その言葉に全員が真剣な表情で頷く。
「胃や腸にできた腫瘍なら、周囲の組織ごとバッサリ切り取ることも可能じゃが、脳だとそうはいかん」
説明を聞いていた人々は、お互いに顔を見合わせながら、事の重大さを感じ取っているようだった。
カルディナ医師は続ける。
「おそらく、腫瘍と脳の間には被膜という薄い皮があるはず。その皮の内側で腫瘍を少しずつ砕いて取り出し、最終的に皮を脳から剥がして摘出する予定じゃ」
それを聞いたヒッキーが手を挙げ、すかさず質問する。
「カルディナ先生、それって本当に可能なんですか?」
カルディナ医師は一瞬目を伏せ、深く息を吸った。
「理論上は可能じゃ。ただし、やってみないと分からんことも多い」
「たとえば、どんなことでしょうか?」
ヒッキーはさらに問い続ける。
「腫瘍が非常に出血しやすく、止血が難しい場合がある」
「他にも?」
「最後に取るべき被膜に重要な神経や血管が絡まっている場合も考えられる」
ヒッキーは眉をひそめ、さらに尋ねた。
「そんな場合でも、神経や血管を傷つけずに取ることはできるんですか?」
「あっさり剥がれることもあるが、癒着が酷くてどうにもならんこともある」
カルディナ医師の答えに、部屋は静まり返った。
「では、その場合は?」
「神経や血管を守るために、あえて被膜の一部を残すこともある」
レイラは恐怖を押し殺しながら尋ねた。
「それで……本当に大丈夫なんでしょうか?」
「残った部分から腫瘍が再発して10年後、20年後に大きくなる可能性はゼロではない」
ヒッキーは身を乗り出すようにして言った。
「その再発はどれくらいの確率なんですか?」
カルディナ医師は一瞬考え込んだ後、他の医師たちを振り返り、尋ねる。
「残った被膜からの再発例を経験したことがある者はおるか?」
3人の医師たちはそれぞれ首を横に振りながら答えた。
「私は経験がありません」
「私も見たことがない」
「私もです」
カルディナ医師は小さく頷いた。
「つまり、再発の可能性は極めて低いということじゃ」
「それなら安心しました」とレイラが少しだけほっとした顔を見せる。
しかしヒッキーはさらに踏み込んだ。
「手術が成功しても、後遺症が出る可能性はあるんですか?」
カルディナ医師は重々しい口調で答えた。
「後遺症の可能性は否定できん。例えば、言葉が出にくくなる、あるいは歩行が難しくなることが考えられる」
レイラが思わず呟いた。
「そんな……怖いわ」
ヒッキーは彼女の手を握りながら言った。
「大丈夫だ、レイラ。俺は覚悟を決めたいんだ」
カルディナ医師はしっかりと目を合わせ、言葉を選んで語りかけた。
「そうならんように、ワシらは全力を尽くす。それだけは約束する」
ヒッキーとレイラは互いの手を強く握り締め、希望と不安の入り混じった表情で頷いた。
そして、手術に向けての準備が本格的に始まった。
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