お題 スライディング土下座 おめでとう 金管楽器
「…来ない」
ぽつり、と彼女が呟いた。
グラスを拭く手を止め、顔を少しだけ上げる。
ルージュのドレスを纏っているその客は、ウィスキーグラスの中に佇む氷をくるりと回した。
琥珀の液体は既に薄く、酒の香りのする水になっている。
「…なにか、お出ししましょうか」
私がそう聞くと、彼女はビル群に向けていた視線をゆっくりこちらへ動かした。
黒々としたマスカラが伸びるまつ毛は、目の下のラメと相反して魅惑的な美しさを放っている。
口元にはドレスに負けない強さの赤いリップがあった。
「そうね、なにか…音楽頼んでもいい?」
「もちろん。なにかお好みの曲がありますか?」
美女は少しだけグラスを持ち上げて、口元へ運ぶ。
「…なんでもいいわ。バイオリン以外なら」
私が演奏者達に顔を向けると、彼らは金色に輝く楽器をオレンジ色のライトに掲げて息を吹き込む。
「…この曲」
「ええ、ヴァイオリン以外で聞くのもオツなものでしょう」
「ふふ、そうね…この曲、プロポーズの為に作られたらしいじゃない?」
「ええ、作曲者が仰っていましたね」
「いいわね。一人のために作ってくれるなんて。今はこうやって広まってしまったけれど…」
美女は無言でグラスを差し出した。
私は先程と同じ銘柄のウイスキーを出す。
「…この曲が終わったら、私…あのトランペットの彼にお酒を奢るわ」
「…待ち合わせの方はよろしいので?」
「だって来ないんだもの」
「左様ですか」
かなり酔っているとみてチェイサーを差し出すが、美女は見向きもしない。
「あーぁ…ヴァイオリンなんか嫌いよ…」
美女がそう言ってカウンターに突っ伏すと同時に店のドアが乱暴にカラランと金属音をかき鳴らした。
演奏者は、入ってきた客の手元を見て演奏を止める。
「…いらっしゃいませ」
「マリア!」
男は美女の姿を見た瞬間に叫ぶ。
美女は顔を上げて、ゆっくりと振り返った。
彼女の崩れたアイメイクに、男は走りながら床を滑るように土下座する。
「っごめん!本当にごめん!」
「貴方…私が時間に厳しいの知ってるわよね…よりにもよって今日?呆れた」
「全部僕が悪い!分かってる!でも…」
「言い訳なら聞かない」
「じゃあ、せめて一曲弾かせてくれないか!?」
その言葉に、演奏者は握りしめて持っていたヴァイオリンケースを掲げた。
「…何。私たちの関係に対する鎮魂歌でも弾いてくれる訳?」
「そうなるかどうかは聞いて決めてくれ」
「…バーテンダーさん。いい?」
「どうぞ」
私が応えると、男はケースから使い込まれたヴァイオリンを取りだした。
静かに弦に弓を当てると、静かに引いた。
弾き始めたのは私でも知らない曲。
彼女は少しだけ目を見開き、グラスから手を離した。
男が弾き終わると、美女は心底驚いた様子で男に言った。
「貴方…作曲はもう嫌だって…」
「うん。もう二度とやりたくないと思った。でも、今日…君にプロポーズすると思った時…この曲を作りたくてたまらなくなったんだ」
「…!」
「指輪、買えなかった。もう店が閉まってて…探し回っていたら遅くなってしまったんだ」
美女は椅子から立ち上がると、カツカツとヒールを鳴らしながら男に近寄った。
「バカね。最近のプロポーズは『一緒に指輪を買いに行こう』って言うのよ」
そう言って美女は男のことを抱きしめた。
演奏者と私たちは小さく拍手をする。
私は彼女のグラスを下げながら、呟いた。
「おめでとうございます」
おわり
秋缶詰 参加 秋缶詰 @akikandume
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