第4話 森の奥の異形者
霧がまだ森を覆い、朝日がゆっくりと昇り始める頃、悠真とアスカは湖へ向かっていた。木々の間を進むと、湿った空気と草の匂いが漂い、鳥の声が微かに聞こえる。
やがて視界が開け、湖が姿を現した。そこは昔、悠真が家族と何度か訪れた静かな湖だった。だが、目の前に広がる光景は、悠真の記憶とは明らかに異なっていた。
「すごい……湖が……虹色に輝いてる」
悠真は息を呑みながら呟いた。
湖面に朝日が差し込むと、水全体が虹色に染まり、色の波紋が静かに広がっていく。それは、ただの反射ではなかった。水そのものが発光しているように見えた。
「前はただの湖だったのに……空クジラの雨が降ってから、全部変わったんだ」
二人が近づくと、湖の変化がさらに明確になった。水面には巨大化した水草が繁茂しており、その葉の表面には虹色の模様が走っている。水草の茎は異常に太く、まるで金属のように光を反射していた。
「見て悠真、魚も変だよ……。こんな色の魚、見たことない……」
アスカが指差す方向には、湖の中を泳ぐ魚たちがいた。しかし、その姿は異様だった。魚の体は半透明で、内側から虹色の光が脈打つように見えた。目が異常に大きく、ヒレは通常の魚にはない形をしている。それは、まるで別の生き物のようだった。
「空クジラの雨が環境を変化させてるんだ……」
悠真はしゃがみ込み、湖面をじっと見つめた。そこには、彼が知っていたものとはまるで違う世界が広がっていた。
「——ッ!?」
そのときだった。湖の向こうから低い音が響いてきた。音は湖面にさざ波を作り、虹色の波紋が揺れる。風ではない何かが森の奥で動いているような感覚だった。
「なんの音だろう……?」
アスカは不安そうな声で、悠真の隣に立った。
「わからない、行ってみよう、きっと何かある」
二人は目を合わせ、静かに頷き合った。そして、虹色の湖を背に音のする方へと向かった。
悠真とアスカは息を飲みながら足を進めた。足元の土はぬかるみ、異常に太い根が道を塞いでいる。湿った空気に苔の匂いが混ざり、音のする方向へ歩みを進めるたび、森の奥から低い振動が伝わってきた。
そして、目の前にその姿が現れた。
それは、巨大な蜘蛛の形をした機械だった。銀色の脚がゆっくりと地面を押し、滑らかな動きで進むたびに、体表を流れる虹色の光が森を揺らめかせる。
森の奥に広がったそこは、かつて人々が暮らしていた痕跡が残っている。崩れた看板、割れた窓ガラス、雑草に埋もれた車。
蜘蛛型の機械は、瓦礫の山を軽々と越え、崩れたビルの破片を次々と拾い上げていく。一つの鉄骨を飲み込むと、虹色の光が体表を流れるように走った。
「街を……食べてる……?」
悠真の呟きに、アスカもただ黙ってその光景を見つめていた。蜘蛛型の機械は依然として地面をゆっくりと移動し、建物の残骸を飲み込み続けている。
そして、蜘蛛型の機械が残骸を吸い込むたび、その体内から虹色の霧が吐き出され、それが地面に降り注ぐ。その霧が触れた場所からは新たな芽が生え、瞬く間に巨大なツタや木々へと成長していった。
「……街を食べて、それで……緑を育ててるの?」
アスカの声には驚きと戸惑いが混ざっていた。アスカの視線の先では、蜘蛛型の機械が一つの壊れたビルを完全に飲み込むと同時に、周囲の地面に繁茂する緑がさらに勢いを増していた。
「きっと空クジラの仲間だ。あいつらは……人間がいた痕跡すらも消すつもりなんだ」
悠真は拳を握りしめ、目の前の光景に言葉を詰まらせた。しばらく瓦礫の山を見つめた後、静かに口を開いた。
「ここには、人が暮らしてたんだ……っ、家も、店も、みんな……っ」
声が次第に震え始める。
「それが、こんな風に……植物で破壊されていくなんて……っ」
低い声で絞り出すように呟いた言葉には、怒りと悲しみが混じっていた。自分たちの存在すら否定されるような無力感が、彼の中で膨れ上がっていた。
悠真は怒りを抑えきれず、地面に転がっていた石を拾い上げると、それを蜘蛛型の機械に向かって思い切り投げつけた。石はその体表に触れると、虹色の光に吸い込まれるようにして消えてしまった。
「っ……!」
そのときだった。悠真は息を呑んだ。蜘蛛型の機械が突然動きを止め、その巨大な体が二人の方へと向き直った。巨大な脚がゆっくりと持ち上がり、虹色の光が体表を流れるたびに、その機械が生きているかのような錯覚を覚える。脚が再び地面に降ろされると、振動が地を這うように伝わり、二人の足元を揺らした。
「……まずい……逃げよう!」
悠真が叫び、アスカの腕を引いて走り出した。蜘蛛型の機械の巨大な脚が背後から迫り、地面を打つ音が響き渡る。その脚が瓦礫を押しつぶすたびに、虹色の光がまばゆく瞬く。
「速い……追いつかれる!」
悠真が振り返ると、蜘蛛型の機械がすぐ後ろに迫っていた。その動きは滑らかで無駄がなく、まるで彼らを標的としているかのようだった。
「こっちだ!」
悠真が咄嗟に瓦礫の陰に身を隠すと、蜘蛛型の機械の巨大な脚がすぐそばを通り過ぎた。轟音とともに瓦礫が崩れ落ち、土煙が舞い上がる。
「このままじゃ……」
悠真は顔をしかめ、手のひらで汗をぬぐった。すると蜘蛛型の機械が突然方向を変え、二人の目の前までやってくる。
その鋭い脚が、まるで鎌のように光り、振り下ろされようとしていた。
「アスカ、危ない!」
蜘蛛型の脚が振り下ろされようとした。その時——。
「やめてぇぇぇっ!」
アスカの声が空気を切り裂き、その瞬間、蜘蛛型の機械はピタリと動きを止めた。持ち上げられた脚が空中で静止し、体表を流れる虹色の光がゆっくりと揺れる。まるで彼女の言葉を聞いたかのようだった。
「……止まった?」
悠真が信じられないように呟く。蜘蛛型の機械の体全体が二人の方を向き、虹色の光が点滅し始める。その光の変化は、どこか意思を持っているようだった。
アスカは恐る恐る一歩前に進み、機械をじっと見つめた。巨大な頭部にあたる部分がアスカに向けられ、再び虹色の光が複雑なパターンを描きながら明滅を繰り返す。
「……私の言葉がわかるの?」
アスカの言葉に応じるように、蜘蛛型の虹色の光が明滅を繰り返す。それは、まるで頷いているかのようだった。
「お願い……私たちを襲わないで。そして……あなたが何者か教えて」
虹色の光が穏やかに明滅し、蜘蛛型の機械は脚をゆっくりと地面に降ろした。その動きには威圧感がなく、まるで休息を取っているようにも見える。
「……悠真、大丈夫みたい、この子は危険な感じがしない……」
アスカは振り返り、悠真に小さく頷いた。
悠真は荒い息を整えながら、アスカの方に目を向けた。
「アスカ……すごいよ! アスカの声が届いたんだ!」
悠真が近づくと、アスカは小さく首を振り、堪えきれないように悠真に抱きついた。
「でも……怖かった。あの脚が……私に向かって来た時、本当にもうダメだと思った……! ……だけど、どうして止まったんだろう。私って何者なの……?」
彼女の声は震え、涙が頬を伝う。悠真は驚きつつも、そっと背中に手を当てて慰めるように言った。
「大丈夫だよ、アスカ。君があいつを止めてくれなかったら今頃どうなってたかわからない。僕にはできないことが、君にはできるんだ」
アスカはしばらく悠真にしがみついていたが、やがて小さく頷いて顔を上げた。その瞳には涙の跡が残っているが、どこか誇らしげな光も宿っていた。
背後の蜘蛛型の機械が再び虹色の光を静かに揺らめかせた。その光が、まるで彼女を安心させるように見えた。
アスカが歩き出すと蜘蛛型の機械もそのあとに続いた。
「……もしかして、一緒にくるの?」
アスカが尋ねると、蜘蛛型は一歩下がるようにして動き、その大きな体を傾ける。肯定の仕草に見えるその動きに、悠真は驚きを隠せなかった。
「本気みたいだ。きっとじいちゃんも驚くよ」
悠真が苦笑混じりに呟くと、カサブランカは再び虹色の光を揺らめかせた。
アスカはふと機械に目を向け、静かに言った。
「だったら名前をつけてあげなくちゃね」
「名前?」
悠真が少し意外そうな顔をする。
「うん。こんなふうに意思が通じるなら、名前がないとかわいそうよ」
「じゃあ……そうだな、“クモ丸”とか……?」
悠真が真剣に言うと、アスカは呆れたようにため息をついた。
「それはダメ。可愛くないもの」
アスカは再び機械に目を向けた。するとその足の付け根部分に植物の花が押し花のようにこびりついていた。虹色に光る体がその輪郭を際立たせている。
「これ……何かの花に見えるけど、どうしてこんなところに……?」
アスカはその花に触れるように指を伸ばした。虹色の光が反射して、その白い花びらがまるで生きているかのように輝いて見えた。
「これは……カサブランカの花だよ、どこかで咲いてたものを踏みつけたんだろう」
「決めた。この子の名前……カサブランカにしよう。それでいいよね?」
その問いに応じるように、カサブランカと名付けられた蜘蛛型の機械は虹色の光を明滅させた。その動きは、どこか嬉しそうにも見えた。
「よし、決まりだな。これからはカサブランカだ」
悠真が軽く笑いながら言うと、アスカも頷いた。そしてカサブランカは静かに二人の後ろに付き従い、歩き始めた。
「カサブランカ……よろしくね」
アスカが微笑みながら声をかけると、カサブランカは一歩後ろに下がるように動き、その巨大な体を低く傾けた。その仕草は、まるで深く頭を下げるようだった。
悠真はカサブランカの揺らめく虹色の光を見つめながら、考え込むように目を細めた。
「……どうしてカサブランカはアスカの言葉を聞いたんだろう?」
その呟きに、アスカもカサブランカを振り返った。巨大な体を低く構えるその様子には、確かに敵意どころか、むしろ従順さすら感じられる。
「私にも分からない。でも……なんだか、私の言葉が届いた気がするの」
アスカの声には驚きと戸惑いが入り混じっていた。悠真はその言葉を聞いて、ふと目を見開いた。
「……アスカ、もしかして空クジラも……?」
「空クジラ……?」
アスカは驚いたように悠真を見返した。
「うん、まだ確証はないけど……カサブランカがアスカの声に反応したってことは、空クジラにも……もしかしたら、アスカの声が届くかもしれないってことだよ」
悠真の言葉に、アスカは少し目を伏せて考え込んだ。
「でも、どうして……どうして私の声が……?」
彼女は自分自身に問いかけるように呟いた。その背中の翼がかすかに震え、虹色の光が反射して淡く輝いている。
「分からない。でも、……アスカには何か特別な力があるんだよ」
悠真はその可能性にかけるように言葉を続けた。その瞳には、わずかながら希望の光が宿っている。
「そうだね。私ができることを、試してみるしかないかもしれない……」
二人は改めてカサブランカを見つめた。その虹色の光が、まるで彼らの未来を静かに見守っているかのようだった。
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