第2話 翼の訪問者

 夕暮れの柔らかな光が差し込む中、悠真はアスカを連れて家に戻った。玄関先に立つアスカの姿は、どこか不安げで、自分の居場所を探しているように見える。悠真は一瞬、両親の樹木に目をやった後、アスカに向き直った。


「ここが僕の家だ。といっても、今は祖父と二人だけだけど……」


 アスカはその言葉に頷きながら、家を見上げた。半分蔦に覆われた古い住宅は、まるで自然と同化していくようだった。


「ありがとう……助けてくれて」


 アスカの声は静かで、しかし確かな感謝の色を帯びていた。


「いいよ、気にしないで。とにかく中に入ろう。じいちゃんにアスカのことを話さないと」


 悠真がドアを開けると、勝二がリビングで座っているのが見えた。窓際にはハーブティーが入った湯気の立つカップが置かれている。悠真がアスカを連れて入ると、勝二は穏やかな笑みを浮かべた。


「おや、悠真。今日は……不思議なお客さんを連れてきたな」


 その言葉に、アスカは一瞬戸惑いの表情を見せたが、すぐに小さく頭を下げた。


「初めまして……アスカです」


 勝二は彼女の背中に広がる翼が、虹色の光をわずかに反射しているのを見たが、それ以上何も言わなかった。その驚きを超えて、アスカは勝二の頭に生えた新緑に目を見開いていた。


「これか? かわいいじゃろ?」


「じいちゃん、冗談はいいよ」


 悠真が渋い顔をすると、勝二は態度を改めた。

 

「それはそうと、二人は……なんだか大層な出会いをしたみたいじゃな」


「まだ信用したわけじゃないよ、僕だって何が起きてるのかさっぱり分からないんだ」


 悠真が少し苛立ったように言うと、勝二は肩をすくめた。


「まあまあ。何にせよ、こんな日は腹ごしらえが一番じゃろう。アスカちゃん、君もどうじゃ?」


 その言葉に、アスカは少し戸惑いながらも頷いた。


「……いただきます」


 台所では、勝二が手際よくトマトやナス、キュウリを切っていく。その野菜はすべて、空クジラの雨によって異常に成長したものだ。悠真はその様子を横目で見ながら、アスカのほうをちらりと伺った。


「……アスカは、食べ物は平気なの? その、翼があるから普通の人間と違うのかもしれないと思って……」


 悠真が不意に問いかけると、アスカは少し驚いたように目を見開いた。


「えっと……分からない。でも、お腹が空いた気がするから……たぶん大丈夫」


「それならいいけど」


 彼女の自然な答えに、悠真は少し肩の力を抜いた。


 夕食の席には、勝二が作った野菜の炒め物とスープ、そしてトマトのスライスが並べられた。


 アスカは少しためらいながらスプーンを手に取った。その指先は微かに震えているようだった。スープをすくい、慎重に口元へ運ぶと、彼女の表情がふっと柔らかくなった。

 

「おいしい……」


 その声には、驚きと安堵が混ざっていた。それを聞いた勝二は満足げに笑い、悠真は少しだけ彼女が人間らしい存在だと思えた。


「それは良かった。空クジラの雨が降らんと、この味は出せんからな」


 勝二の言葉に、アスカは少し表情を曇らせた。


「空クジラ……」


 その名前を口にした途端、彼女の瞳がどこか遠くを見るような色を帯びた。だが、すぐに気を取り直すように目を伏せた。


「どうしたの?」


 悠真が問いかけると、アスカは首を横に振った。


「……分からない。ただ、空クジラのことを思うと胸がざわつく感じがして」


 悠真は食事の手を止めてアスカをみたが、その瞳は不安に揺れるだけで、それ以上何もわからなかった。


 夕食を終えたあと、悠真はアスカのために二階の空き部屋を準備した。以前両親が使っていた寝室だ。布団を敷き、窓を閉め、虫が入らないようにする。古い家だが、少しでも彼女が落ち着ける場所にしようと努力した。


「ここで寝るといいよ。明日からのことは起きてから考えよう」


 悠真が言うと、アスカは静かに頷いた。


「ありがとう」


 その一言に、悠真は少し照れたように視線をそらした。


「じゃあ、おやすみ」


 彼がドアを閉めて去ったあと、アスカは部屋の真ん中に立ち尽くしていた。背中の翼が小さく動き、羽根がかすかに音を立てる。


「……私は一体、何者なんだろう」


 彼女の小さな呟きは、誰にも届かなかった。

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