地球の日曜日
戸井悠
第1話 奪われた日常、芽吹く未来
地平線の向こうから、空を泳ぐように空飛ぶクジラがやってきた。その巨大な体は太陽を受けて虹色の光を放ち、それは遠い未来の生物のようで、この星には決して存在しない異物でもあった。空クジラが鳴くと、低い振動音が空気を震わせ、体全体でその響きを感じる。
背中から吹き上がる潮は空高く雲のように広がり、やがて虹色の雨となって大地に降り注ぐ。その雨が地面を濡らすと、新芽が次々と芽吹き、伸び、枝葉を広げていく。わずか数分で草地は絨毯のように広がり、静寂だった森は一瞬で命の音で満たされた。
遠くの地平線に目をやると、人間が築いた街が緑に飲み込まれているのが見える。ビルに巻き付くツタ、アスファルトを突き破る木々——それは美しさと恐怖が混ざり合った、制御不能な自然の狂気そのものだった。やがてそれらは人へも根を伸ばしていく。
それから三年が過ぎ、人の文明が一瞬にして——緑に支配されていく。
***
悠真(ゆうま)は二階の窓から空クジラを見上げていた。夏の日差しは強く照り、悠真が14年間生きてきて、最も暑い夏だった。生ぬるい風が木々をざわめかせる。
「じいちゃん、空クジラの雨が来る!」
悠真が大きな声を出すと、庭でスコップを持っていた祖父の勝二(かつじ)が顔を上げた。麦わら帽子の下で汗に濡れた額を拭う仕草が見える。
「おぉ、来たか、でっかいのう……今回はどのくらい降らす気じゃろうな」
「呑気なこと言ってる場合じゃないよ」
悠真はリビングの窓から、庭へ飛び出した。足元にはトマトやナスの若い実が陽に輝いている。だが、それらが空クジラの雨で緑の暴走を始めるかもしれないという不安が悠真の中で膨らんでいた。
「早く家に入ってよ! 空クジラの雨が降ったら、じいちゃんだって危ないんだ!」
悠真は祖父の腕をつかみ、半ば強引に引っ張った。勝二は一瞬たじろいだが、黙って悠馬に引っ張られた。
「まあまあ、そう慌てるな。ほれ、わしの頭を見てみい」
勝二が麦わら帽子を外すと、その頭頂部には緑の双葉が揺れている。
「わしの頭に、すっかり馴染んどる。これ以上、雨にさえ当たらなければ、急激に生長したりせんよ」
「冗談言わないでよ、そうやって空クジラは地球を支配してるんだ」
勝二と共に家の中に戻ると、悠真はすぐに窓を閉め、鍵をかけた。
「潮が吹き上がる……!」
その瞬間、空クジラが響くような高い声を上げ、背中から勢いよく潮を吹き上げた。その水柱は空高く上り、霧となって広がり、やがて虹色の雨となって地上に降り注ぎ始める。世界は絵の具をひっくり返したみたいに彩りを加えた。
虹色の雨が地面を濡らした瞬間、植物たちが一斉に目を覚ます。トマトの蔓はまるで生き物のようにうねり、真っ赤な実を次々と膨らませていく。ナスの葉は音を立てながら空へ向かって広がり、キュウリの蔓は蛇のように地面を這い回り、柵を乗り越えて侵略を始めた。
雨が触れるたびに、「ミシミシ」と茎が伸びる音が響き渡る。それは美しい景色というよりも、制御不能な自然の狂気そのものだった。
「まるで……化け物みたいだ」
ポツリと漏らした言葉に、勝二が同意するように頷いた。
「ほんに、この雨はすごい力じゃなあ……」
その声は驚きよりも、どこか感心しているようだった。だが、悠真にとってこの雨は驚異でしかない。
「これ以上、緑が侵食したら、この家だって飲み込まれるかもしれない……」
「わしらにはどうすることもできんのう……」
「だからって……このまま黙って見ていられないよ」
悠真は拳を握りしめた。——三年前、空クジラが現れて地球に虹色の雨を降らせた。その恐ろしい雨をは自然を繁栄させ、人類には花を咲かせた。
空クジラの雨に触れた人間の体は、瞬く間に緑に覆われていく。肌が樹皮に変わり、足元から根が張り巡らされ、幹が伸び、葉が音を立てて広がった。命を繋ぐはずの雨が、人々を植物に変えていったのだ。
悠真の両親も、例外ではなかった。
あの瞬間——雨が降り始め、母が「大丈夫」と笑顔を見せた直後、その指先から緑が広がり始めた。父が悠真を抱きしめた時には、すでに二人の体は木と化し始めていた。悠真は立ち尽くし、声を上げることさえできなかった。
今では、庭に佇む二本の樹木として残されている。太陽の光を浴び、風に揺れる枝葉。緑の葉は命に満ちているようでいて、悠真にはただの静寂にしか感じられなかった。それは美しいだけでなく、取り返しのつかない喪失を象徴していた。
その記憶が、悠真の中で消えることはなかった。両親を失った悲しみも怒りも、いまだに彼の鼓動を強くした。
「悠真、お前さんの気持ちは分かるが……空クジラ相手に何をするつもりだ?」
勝二の声は穏やかだった。
悠真はそれに答えられなかった。何をするか、それは彼自身も分かっていない。ただ、一つだけ確かなのは「これ以上、奪われてたまるか」という思いだった。
視線を落とした悠真の目に、自分の手が映る。かつて両親が雨に触れた瞬間、彼自身も同じように雨に打たれた。だが、悠真の体は緑に変わらなかった。祖父もまた、雨に晒されながらも完全に緑にはなっていない。それは「偶然」では片付けられない奇妙な事実だった。
雨が徐々に弱まり、やがて空クジラが静かに動き出す。巨大な尾びれがゆっくりと揺れ、空を泳ぐように遠ざかっていった。悠真は睨みつけるようにその姿を見上げた。
悠真は雨が止むと庭に出て生長した植物を見回った。トマトは収穫するには十分すぎるほど赤く、キュウリは地面を這いまわって畑の境界を越えている。ナスの葉も日光を求めるかのように空に向かって広がっていた。
「こりゃまた、たくさん出来たのう」
勝二がのんびりと庭先に出てきた。頭の上の小さな双葉に陽が差した。悠真はその姿を見て胸の奥がざわついた。いつかこの双葉が枝葉を広げ、祖父を奪う日が来るかもしれない。
「収穫してくる」
悠真が短く言うと、勝二は穏やかに微笑んだ。
「食べられる分だけにするんじゃよ。欲張ると自然は怒るからのう」
「わかってるよ、じいちゃん。放っておけば、どうせまた増えるんだから」
「そう、それでいい。自然は循環する。足るを知ることが大切なんじゃ」
悠真は収穫用の籠を持ち、無造作にトマトを摘み始めた。だが、手を動かしながらも、心は落ち着かない。
空クジラは雨を降らせて植物の生長を促し、人を樹木へ変える。それはいつまで続くのか、目的は何なのか。悠真の頭の中には、ずっと答えの出ない疑問が渦巻いていた。
空クジラは空を漂い続け、まるで罪の意識など微塵もないかのようだ。その悠然とした姿が、悠真の怒りをさらに煽る。
「こんなの絶対におかしい……」
その思いだけが、悠真を突き動かしていた。
収穫を終えると、悠真は庭のあちこちに残った空クジラの雨の跡を見つけた。地面に染み込むことなく留まった水が、虹色の輝きを放ちながらぷるぷると揺れ、まるで生き物のようだった。
「まだ新しい……」
悠真はバケツを手に、その液体を丁寧に掬い集めた。直接触れれば、自分も植物へと変えられてしまうかもしれない。慎重に扱いながら、庭の端に並べたドラム缶へと注いでいく。ドラム缶は溢れんばかりの虹色の水に満たされていた。
悠真の視線の先には、庭の裏手に広がる竹藪があった。クジラの雨を浴びた竹は異常な成長を遂げ、その太さは悠真が両腕を回しても届かないほどで、高さはビルのようにそびえたっていた。
「こいつをもっと生長させれば——」
悠真はドラム缶から栓を抜き、竹藪の根元へと流し込んだ。虹色の液体が地面に吸収されていくと、すぐに反応が現れる。
竹が軋む音を立て、急激に伸び始めた。茎は太くなり、節からさらに小さな枝葉が広がる。竹藪全体が、まるで意思を持つかのように空を目指して生長を続けていく。
「やっぱりそうだ、この雨はまだ生きている!」
悠真は息を飲んだ。目の前で起きている異様な光景に、胸が高鳴る。それは恐怖と興奮が入り混じった感覚だった。
悠真は後ずさりしながら、竹藪全体を見上げた。竹は地面を突き破る勢いで太くなり、高く、高く空へ向かって伸びていく。その速度は異常で、まるで天に届こうとしているかのようだった。
そのとき、空から響く低い音が聞こえた。悠真が顔を上げると、ちょうどその上空を空クジラが悠然と泳いでいる。その下では竹がまるで何かに阻まれるように生長を止めていた。
「まさか……!」
悠真が息を呑む間もなく目を凝らすと、一本の太い竹が空クジラの尾びれにぶつかっていた。空クジラは表情変えずに空を漂っているが、次の瞬間——。
空クジラの背鰭の付け根辺りから、何かが落下した。それは最初、小さな光の粒のように見えたが、風を切る音とともに次第に大きくなり、車ほどの大きさの物体として地面に激突した。
「びっくりした……何だ、今の……?」
悠真は竹藪の奥へと駆け出した。足元の草をかき分け、転がっている謎の物体の前に立つ。それは白く光沢のある球体——まるで卵のようだった。
悠真は卵の表面を観察した。それは滑らかで、どこにも継ぎ目がない。まるで自然にできたものではなく、人工物のような異様な存在感を放っている。
「まさか、空クジラから……落ちてきたのか?」
悠真は躊躇いながらも、卵に近づいた。足元にあった木の枝を拾い、それでそっと表面を突く。瞬間、卵に小さなひびが入った。
「……まずい、何か出てくる!?」
ひびが広がるとともに、卵の殻から虹色の液体がじわりと溢れ出した。その液体は湯気を立てながら地面に染み込み、中から現れたのは、膝を抱えて眠るように丸まった、——少女だった。
少女の肩まで伸びた栗色の髪は、虹色の光を柔らかく反射し、その背中には白い翼が静かに広がっていた。翼が微かに震えるたび、空気がふわりと揺れた。
「翼……? 人……じゃない?」
悠真の声が、かすかに震えていた。
少女はゆっくりと目を開けた。その瞳は透き通るようで、まるで空を映しているかのようだった。
「……あなた、誰?」
少女の声はかすかで、だが確かに悠真の耳に届いた。
悠真は言葉を失い、目の前の光景に息を呑んだ。
「……君こそ、誰だ? 空クジラの仲間なのか?」
「……わからない。何も……覚えてないの……」
悠真が問いかけると、少女は首をかしげた。その仕草はどこか頼りなく、まるで自分自身が何者かを理解していないようだった。
「……ここはどこ?」
「ここは……地球だ」
悠真は無意識に声を荒げた。
「地球……? そう、なんだか懐かしい気がする……」
少女は何か思い出そうとするかのように眉をひそめた。
その言葉を聞いた悠真は、一瞬胸がざわついた。だが、すぐに自分の感情を抑え込む。
「……キミは、……何者なの?」
悠真の声には疑いが混ざっていた。目の前の少女が何者なのか、まだ全く分からない。
「……私も分からない。何も覚えていないの。本当になにも……」
少女は困惑した表情で首を横に振った。その仕草を見ても、悠真の心に湧き上がる警戒心は消えなかった。背中に広がる翼、虹色の光を反射するその髪。すべてが異質だった。
その時、少女は胸元に触れ、小さな金属のタグを取り出した。虹色の光を反射するそのタグには、かすれた文字で「ASUKA」と刻まれている。
「アスカ……?」
少女はその文字をじっと見つめ、小さく声に出した。その響きにどこか馴染みがあるかのように、瞳を細める。
「……もしかして、それが君の名前?」
悠真が問いかけると、少女は少し考え込むように視線を落とした後、かすかに頷いた。
「きっと……そう。アスカ……私の名前だと思う」
その声には、言葉にならない不安と孤独が滲んでいた。その様子を見て、悠真の中に渦巻いていた警戒心が少しだけ和らぐ。
「とりあえず、ここにいるのは危険だ。僕の家に来るといい」
少女は驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく頷いた。
「……ありがとう…………」
少女が視線を彷徨わせ悠真の胸元を見たが、そこに名前のタグはなかった。
「僕は悠真。ここで暮らしてる」
「ありがとう……ユウマ」
その言葉に、悠真は少しばかりの安堵を覚えた。だが、その一方で、彼女の存在がこれからの生活にどんな影響を与えるのか、想像すらできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます