第38話 離れていても
「じゃあ、そろそろ行きましょうか、ドロシー様」
「ええ! わたくし、本当に楽しみにしていましたのよ!」
はしゃぐドロシーを見て、ベルンハルトが目を細める。その表情があまりにも甘くて、幸せな気持ちになった。
今日は、近くの街へ出かける。以前約束した通り、ドロシーの服を買いに行くためだ。
馬車に乗り込むと、ゆっくり馬車が動き出す。遠出をするわけではないから、少しすれば到着するはずだ。
「王都に比べれば小さい街ですが……このあたりでは、比較的大きなところですよ」
「そうなのね。じゃあ、領民たちも、買い物をする時は利用するのかしら?」
「いえ。近いとはいえ、歩いていくには遠い距離ですから。ほとんどが、行商から買っていると思いますよ」
「そうなのね」
窓から景色を眺める。似たような道が続いていた。平坦で迷うことはないだろうが、軽々しく歩ける距離ではなさそうだ。
現代の主な移動手段は、馬車か馬である。とはいえ、そんなものを所有しているのは一部の金持ちだけだ。
平民は、生まれた村から一度も出ずに人生を終えるかもしれないのね。
「ドロシー様? どうかしましたか?」
「ううん。ただ、もっと気軽にみんなが買い物に行けたらいいのに、と」
「それはそうですね。行商の品は限られますし、割高でもありますから」
なんとかならないだろうか、なんてことを考えていると、不意に手を握られた。
「ドロシー様。領地のことを考えるのもいいですが、今は俺のことを考えてください。明後日には、もう出発するんですから」
「……今の、もう一回言ってくれる?」
「はい?」
「俺のことだけ見ろ、なんて、ベルンハルト様も大胆ね……!」
「……そんな言い方はしていないと思いますが」
呆れたように溜息を吐く姿も、しばらく見られなくなってしまうのかと思うと寂しい。ありとあらゆるベルンハルトの表情を、全て絵画にしてとっておきたいくらいだ。
「ベルンハルト様の言う通り、今日はベルンハルト様のことにだけ集中しますわ」
「……そうしてください」
照れてしまったのか、ベルンハルトの耳が赤い。
すごく背も高いし体格も立派で男らしいけれど、こういうところは可愛いのよね……。
◆
街に到着し、馬車から下りる。ベルンハルトが言っていた通り、それほど大きな街ではない。
しかし最近はシュルツ子爵領にずっといたから、賑やかさに目を見張ってしまう。
だって近頃、畑以外をろくに見ていなかったんだもの!
それにそもそも、街で買い物をする、なんていうのも初めてだ。実家にいた頃はいつも、家に商人がやってきていたから。
「ベルンハルト様、なにから見てまわりましょう? あ、そうだわ。お腹は空いてます? わたくし、レストランというものにも行ったことがなくて!」
「ええ。腹は減っています。ドロシー様が行きたいところに行きましょうか」
「ベルンハルト様も、行きたいところを言っていいのよ?」
「俺は、ドロシー様が喜ぶところが一番ですから」
「ベルンハルト様……!」
また、ベルンハルトは耳を赤くした。
いつもより甘い言葉をたくさんくれるのは、彼なりにドロシーを気遣ってくれているからかもしれない。
「今日は、ドロシー様がしたいことを全部しましょう」
「え!? だったら今すぐ白い結婚なんてやめるのは!?」
「それはだめです」
即座にそう言われ、分かっていたものの、少しだけ寂しくなってしまう。
ベルンハルト様、意地にならなくたっていいのに。
「でもそれ以外なら、ドロシー様の希望を叶えますから」
「……じゃあ、手が繋ぎたいわ」
勢いよく右手を差し出す。ベルンハルトはすぐに握り返してくれた。
◆
「そろそろ帰らないと」
ベルンハルトの言葉に、思わず嫌だと暴れたくなってしまう。でも、そんなことをしたって何にもならない。
既に日が沈み始めている。そろそろ帰らなければいけないことは、ドロシーにも分かっているのだ。
ベルンハルトが選んでくれた服を買って、レストランで食事をして、旅芸人の芸を見て。
楽しい一日だった。終わってほしくない、と強く思うくらいには。
「……あ、待って。ベルンハルト様。最後にあのお店だけ、見ていきません?」
とっさに、目に入った露店を指差す。何を売っているかも分からないけれど、ほんの少しでも、一緒にいる時間を長くしたかったから。
「いいですよ」
露店は装飾品と雑貨を取り扱う店のようだった。髪飾りやブローチ、腕輪や指輪などが売られている。
露店なこともあり高価な品ではないだろうが、独特なデザインが印象的な品ばかりだ。
「……あ」
とっさに目に入ったのは、飾り気のない真っ黒な腕輪だった。ガラス石すら埋め込まれていないシンプルな物だが、波打つような形が目を引く。
「ドロシー様には、もう少し華やかな物が似合うと思いますよ」
そう言ってベルンハルトが手に取ったのは、銀色の腕輪だった。花を模したガラス石がいくつも埋め込まれていて、少し光を浴びただけできらきらと輝く。
「確かにそれも綺麗だけれど……これなら、お揃いでつけられるんじゃないかしら」
黒い腕輪を二つ手に取り、一つをベルンハルトへ渡す。
「離れていても、心は繋がっている。なんて……だめ?」
「……これをください」
返事をするよりも先に、ベルンハルトが腕輪を二つ買ってくれた。
「ドロシー様」
ドロシーの手をとり、そっと腕輪をはめてくれる。実際につけてみると、ドロシーの手首には少々太すぎた。
でも、これを見るたびに、きっとベルンハルト様のことを思い出すわ。
「俺にも、つけてくれませんか」
「ええ!」
ベルンハルトにも腕輪をつける。彼が腕輪をつけているところなんて、初めて見た。
「ベルンハルト様も、わたくしのことを思い出してくださいね」
「……ドロシー様」
「なに?」
「本当は俺だって、行きたくないんですよ」
言いながら既にベルンハルトは歩き出していて、彼の顔を確認することはできなかった。
でもいつもより大きい歩幅を見れば、ベルンハルトが照れていることくらい分かる。
「待ってください、ベルンハルト様!」
笑顔で駆け出し、ドロシーはぎゅっとベルンハルトの腕を掴んだ。
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