第32話 それはだめ

「ドロシー様。さすがにやり過ぎです。あれでは……あれでは、ベルガー侯爵がお気の毒ですよ」


 部屋で二人きりになるなり、ベルンハルトはそう言って溜息を吐いた。


「まあ、どうして? 娘が夫と仲良くしているのだから、お父様だって喜ぶわ」

「俺とは白い結婚、という約束でしょう」

「白い結婚なんかじゃなくなった、と思った方が、お父様も安心のはずだわ」

「……そんなことはないと思いますが」


 じと、とした目でベルンハルトが見つめてくる。ぷい、と顔を逸らし、ドロシーは右手の拳を握り締めた。


 アデルさんが考えてくれた、この外堀から埋める作戦、悪くないわね……!

 ベルンハルト様だってそのうち流されるかもしれないし、なにより、堂々と人前でいちゃつけるわ!


 昨日の夜、『父親と弟を安心させるために、よき夫婦関係を築いていると思わせたい』とベルンハルトに頼み込んだ。

 家族を思っての頼みをベルンハルトはもちろん了承し、できる限りの協力はすると言ってくれた。


 その結果が、これである。


「本当に孫ができるなどと思われたらどうするんですか」

「本当に作っちゃえばいいんですわ」


 そう言って、勢いよくベルンハルトに抱き着く。そうするとベルンハルトは、困惑しながらもドロシーを受け止めてくれるのだ。


 ゆっくりと抱き着けば、避けられてしまうこともある。しかし勢いよく抱き着けば、ドロシーが転倒するのを防ぐためにも、ベルンハルトは受け止めるしかない。


 そのことに、ドロシーは昨晩気づいたのである。


「……ドロシー様、淑女がそのようなことを言うものではありません」

「まあ。淑女たるもの、夫の心を掴むべきじゃなくて?」


 ベルンハルトは困ったように息を吐くだけだ。


 困らせているのは分かる。しかし、やめるつもりは全くない。

 こちらから攻めなければ、ベルンハルトとの関係性は変わらないだろう。だからこそ、ガンガン攻めるつもりだ。


 恋心を自覚した乙女を舐められちゃ困るわよ!


「そろそろ、お父様たちに領内を案内する時間ですわ、行きましょう、旦那様?」

「……はい」

「前も言いましたけど、妻相手に敬語は不自然ですわ。遠慮せず、アデルさんたちに喋るようにわたくしにもお話してくださいませ」

「……分かった、ドロシー」


 やけになっての発言だろう。しかし、ぶっきらぼうな言い方にドロシーの心臓が軽く飛び跳ねた。


 ベルンハルト様って、やっぱり格好いいわ……!!





 ドロシーのために購入した馬車に乗り込み、ゆっくりと領内を見てまわる。

 面白いものはないとベルンハルトは言っていたが、ドロシーが暮らしている場所を紹介するのが目的なのだから、面白い必要はない。


「このあたりは、畑が多いね」


 景色を見ながら、ヨーゼフが言った。ヨーゼフの言う通り、畑以外には民家があるだけだ。きっと地図があっても、初めてくる人は迷ってしまうだろう。


「そうなの。それに、ヨーゼフより幼い子だって、畑仕事を手伝ってるのよ。大きな籠を背負って、大変そうだったわ」


 コリーナのことを思い出す。今日も彼女は、病弱な親に代わって畑仕事を手伝っているのだろう。


「それに、学校にも行けていないの」

「まあ、一般的な平民であれば、学校へ通わないのは珍しくない話だよ」


 ヨーゼフはさらっと答えた。ドロシーと違って勉強熱心で博識なヨーゼフからすれば、当たり前のことなのかもしれない。

 ベルガー侯爵家の跡取りとして、ヨーゼフは幼い頃から勉強熱心なのだ。


「それに、必ずしも学校へ行かなきゃいけないってわけじゃない。教育が充実しているからといって、領民の幸福度が高いとは限らないからね」

「……そうなの?」

「うん。まあ、だとしても僕としては、教育の充実は欠かせないと思うけど……あ」


 話しながら、ヨーゼフが固まった。彼の視線の先を追うと、前と同じようにコリーナが大きな籠を背負って歩いていた。


「……あんなに小さな女の子が、あんなに重そうな物を背負ってるの?」

「うん。あの子の両親、身体が弱いみたいで」

「台車を使えばいいのに。まあ、それを買うお金もないんだろうけど」

「台車?」


 ドロシーの疑問に答えたのはヨーゼフではなく、ベルンハルトだった。


「荷物をのせ、手で押す小さな馬車のようなものだ。便利な農具らしいが、その分それなりに高い。俺の故郷でも、台車を持っているのは金持ちだけだった」

「そうですのね……」

「ああ。だから、あのような子が台車を使うなどとは、考えたこともなかったな……」


 少女を見つめるベルンハルトの横顔は複雑そうだ。領主として不憫に思う反面、平民出身のベルンハルトからすれば見慣れたものでもあるのだろう。


「ねえ、旦那様」


 旦那様、という呼び方に一瞬かたまったが、なんだ? とすぐに返事をしてくれる。


「その台車って、これを売れば買えたりするのかしら?」


 ドロシーが身に着けていた首飾りを指差すと、ベルンハルトは目を丸くした。


「それを売れば、台車なんていくらでも買えるに決まっているだろう」

「まあ、でしたら……」


 一つくらい装飾品を売って、皆に台車を買ってあげればいいんじゃないかしら?


 ドロシーがそう言おうとした直後。


「それはだめだよ、姉さん」


 厳しい声で、ヨーゼフがそう言った。

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