第10話 今日から奥方様
「ドロシー様。起きてください。目的地に到着しましたよ」
優しい声でそう言われ、肩をそっと揺さぶられる。ゆっくりと目を開けると、金色の瞳と目が合った。
「ちゃんと眠れたようで、なによりです」
「す、すいません。ぐっすり眠っていて……到着したことにも気づかないなんて」
「いえ。こちらこそ、馬車で夜を明かすことになってしまって、申し訳ありません」
途中でどこかの宿には泊まらず、夜通し進んだ。そのおかげで領地には早く着いたが、一晩中馬に乗っていた者たちは大変だっただろう。
昨晩は、魔物の襲撃もあったわけだし……。
魔法装置が壊れていたことをかなり怒っていたベルンハルトだが、今は穏やかな表情を浮かべている。それも、ドロシーを気遣ってのことだろうか。
「ドロシー様、お手を」
そっと手を差し出され、その上に自らの手を重ねる。馬車くらい一人で降りられるけれど、それを伝える気にはならなかった。
馬車を降りて、周りを見回す。時刻は昼過ぎだろうか。眩しいほどの日差しが地面を照らしていた。
正面には屋敷。そして後ろを振り向くと、丘の下に民家や畑が見える。どうやら、シュルツ子爵家の屋敷はこのあたりで最も高い丘の上に位置しているらしい。
「ここが家です。……侯爵家の屋敷に比べれば、みすぼらしいでしょうが」
「い、いえ。そんなことはありませんわ」
正直なところ、ベルンハルトの言葉は事実だ。しかし、侯爵家が立派すぎるだけであって、この屋敷が悪いわけではない。
華美ではないが、しっかりとした造りなのが見ただけで分かる。
「中もそれなりに整えましたが、気に入らないところがあればおっしゃってください。ドロシー様の好きなように改装してくださって構いませんから」
「そんな……」
「今日からここが、貴女の家なんです。本当に遠慮しないでください」
そう言うと、ベルンハルトが深々とドロシーに頭を下げた。
「こんなところにきてくださって、ありがとうございます」
「あ、頭をあげてください! わたくしはただ、旦那様の家……つまり、新しい家にきただけですわ!」
ありがとうございます、とベルンハルトはまた頭を下げる。ここまでかしこまられると、どうすればいいのか分からなくなってしまう。
いくらわたくしが侯爵家の娘とはいえ、結婚するのだから、それほど気を遣わなくてもいいのに。
どうしたものかとドロシーが悩んでいると、あ! と大きな声がした。声がした方へ視線を向けると、何人かの集団が駆け寄ってくる。
全員が、お揃いの訓練着のようなものを着用していた。
「ベルンハルト! おかえり」
集団の先頭にいた青年が右手を軽くあげる。金髪に翡翠色の瞳の、爽やかな顔立ちの青年だ。
「ああ。今戻った。何かあったか?」
「何も。どうせすぐに君が戻ることはみんな知ってる。領主の結婚前に騒ぎを起こすような命知らずはここにはいないよ」
くすっと笑い、青年はドロシーへ視線を向けた。そして、丁寧に頭を下げる。
「初めまして、奥方様。デトルフ・バッヘムと申します」
「えっ!?」
ドロシーが大声で反応すると、ベルンハルトがデトルフへ鋭い視線を向けた。慌てたデトルフが、窺うような視線をドロシーへ向けてくる。
「奥方様、なにか問題でもあったでしょうか? 申し訳ありません。礼儀作法には疎く……」
「い、いえ。そうじゃないですわ。ただ……」
「ただ?」
「奥方様、なんて呼ばれたのが初めてだったもので」
今までは名前以外だと、ベルガー侯爵令嬢だとか、ご令嬢だとか、お嬢様だとか、そういう呼ばれ方をしてきた。
当たり前だが、奥方様と呼ばれたのは初めてだ。
そうよね。わたくし、ベルンハルト様の妻としてここへやってきたんだもの。ここの人たちからすれば、わたくしは奥方様なのね。
「ドロシー様。呼び名が気に入りませんか?」
慌てたようにベルンハルトが顔を覗き込んでくる。ドロシーは慌てて首を横に振った。
せっかくベルンハルト様の領地にきたのに、些細なことで不機嫌になる女だと思われるわけにはいかないわ。
「いえ! なんだか嬉しい響きだなと、そう思っただけですわ!」
ドロシーが大声でそう返事をすると、デトルフが安心したように息を吐いた。
「よかったです。もしこいつが失礼なことをしたら、すぐに言ってください。処罰しますから」
「しょ、処罰だなんて……」
「昔からこいつは、失礼なところがありますから」
ベルンハルトが真剣な顔で言う後ろで、酷いなあ、とデトルフが呟いた。どうやら、二人は親しい間柄のようだ。
デトルフの後ろに控えている男たちも、みんな立派な体格を有している。ベルンハルトの部下たちだろうか。
今日からわたくしが、ここの奥方様なのよね。ちゃんとやっていけるかしら。
いえ、ちゃんとやらなくちゃいけないわ。
白い結婚だろうが、ここに嫁いできたという事実は揺るがないのだから。
覚悟を決めてドロシーが頷いた瞬間、盛大に腹の虫が騒ぎ始めたのだった。
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