ガラス細工のバラ
半ときほど歩くと、ガラルドの街は一般の住宅街に様変わりしてきた。
中央区画の豪華な美術館や芸術院のかわりに、三階建ての集合住宅が立ち並び、洗濯ものが露台に干してあった。
生活感あふれる町並みだ。
ミローズはその集合住宅の建物に入ると、二階の一室の前で足を止めた。
「ここがあたしんち。ようこそ」
にこりと笑って彼女は勢いよくドアノブを回し、扉を開けた。
とたんに絵の具の香りが漂ってきた。部屋の中央にイーゼルに立てられたキャンバスが置いてあって、正面の窓から光が入るためにその絵には布がかぶさっていた。絵を保護するためだろう。
ミローズの両手を広げたくらいの幅があって、彼女がその布を取り外すと、そこには夜空に昇るガラス細工のバラの花々が描かれていた。
幻想的で夢のような世界。
はかない幻を見ている感覚。
「これは……新しい作風なんじゃないか?」
俺は独り言をもらしていた。
美術に関してはある程度しか分からないが、今まで俺がみてきた絵とはやはり一味違うと思った。
ガラルド美術館に飾ってある絵は、様々な画材で描かれた様々な絵ではあるが、みな写実的な絵だ。対象そのものを写し取る絵や、画家の空想を描いた絵でも写実的だった。
見る人に幻を見せるこの絵とは画風がまったく違う。
「そう思う? ならこの絵はいい線行ってるってことね。実はこれ、三日前に完成したばっかりなんだ。一番初めに見たお客さんがゼスだよ」
「それは光栄だな」
俺はその絵とミローズを見比べて、にこりと笑んだ。
「いい絵だと思う。まるで幻の中にいるようで」
「そうでしょう? 夢の世界みたいでしょ」
「ああ」
しばらく俺とミローズはその絵に食い入るように魅入った。
「あ、お客さんにお茶でも出さないとね。お菓子もなんかあったかな」
ミローズは思い出したように部屋の隅にある棚をあさる。
「お茶淹れるからそこの椅子に座ってよ」
「ああ、ありがとう」
本当はそんな気遣いは要らないのだけど、もっとゆっくりとこの絵とミローズの話を聞きたくて、茶を飲んでいくことにした。
ミローズが言った椅子とは、あのキャンバスに描かれた幻想的な絵の前にあった一脚しかない。
その椅子を絵から離して腰かけると、ミローズは茶を二杯作り、俺に片方を手渡して、自分は立って器に口をつけた。
「さっきは絵の具、本当にありがとう。この絵で持ってる絵の具は全部使っちゃったんだよ」
香りらしい香りもしない茶を飲みながら、俺は彼女が語る話に興味を惹かれる。
「それで三日前から食事も切り詰めて、やっと絵の具を買いにいったんだ」
彼女は満面笑顔で、俺にそのときの感情を表した。
「それを俺が踏んだわけか」
「そうよ。でも、それがこんな出逢いを産むとはね。絵の具を踏んだ当人にこの絵を一番にみせることになるなんて思わなかったよ」
ははは、と彼女は笑う。
「あたしは普段は洗濯屋の仕事してるんだ。その仕事の合間に絵を描いてさ。ここが秋島で良かったよ。気温がいつも適度だから、外で水仕事していてもそんなにつらくない。夏島だったら気温が高くて疲れも倍増、倒れるかもね」
またミローズは茶を飲みながら笑った。
「そんな苦労をして描いた絵でも、まったく売れないしね」
「そうなのか?」
俺も茶を飲みながらその絵をじっくりと観察した。
水で溶く絵の具を使っているらしい。
色の移り変わりがとても美しく描かれている。ガラス細工の淡い桃色のバラが、夜空の暗い色を背景にしていてとても引き立つ。夜空には星々がきらめいていた。
「なあ、ミローズ」
「なに?」
「この絵、俺に売ってくれないか」
「……え?」
その絵に魅了された俺は、自然とそう言っていた。
初めて見る画風が、俺の感性を刺激したのかもしれない。
ミローズは驚いた顔で俺を凝視した。
「どうだろうか? それとも、これは売り物ではないのか?」
「いや、いや、いや! 買ってくれるんなら売るよ、うん!」
「そうか。ちなみにいくらくらいになるのだろうか?」
「え? うーん、あたし絵が売れたことないからなあ。相場が良く判らないけど」
「ならば十万ビルクくらいでどうだ?」
「十万!」
「まだ不服か?」
「ううん、いいよ、売る! ゼスならきっとこの絵を大切にしてくれそうだしね。それにやっとまともなもんが食えそうだよ」
ミローズは頬を紅潮させて、満面の笑顔になった。
「今は手持ちがあまりないから、明日金を持って絵を引き取りに来る。大きな絵だからな……人を頼むか」
「うん! ねえ、ゼス? あんた本当はどういう素性の人間なんだ? 最初に見たときも良い服着てて、いいところのご主人なんだろうなと思ったけど。秋神殿に仕えてる上流階級の人?」
「まあ、当たらずも遠からずってところかな。……そろそろ俺も戻らないと。みんなが待ってるしな」
「みんな、か……」
ミローズは少し寂し気な目をして俺から目をそらせた。
「ミローズ?」
「ううん、なんでもない。じゃあ、また明日来てくれるの?」
「ああ。あした絵を取りに来るから。またそのときに」
「うん!」
ミローズは嬉しそうにまた顔を赤らめて、アパートから帰る俺を見送ってくれた。
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