5章 道⑤



「……というわけで、検査結果では異常が見られませんでした。ですが、この皮膚の黒ずみは異常です。引き続き、こちらで経過観察させていただきたいのですが……」


 翔太が説明している間、捲った腕を一叶に見せていたいづみがウインクしてくる。


 先ほどカフェで密会した仲だ、一叶もこっそり笑みを返した。


「わかりました、通院はバレエの前に短時間でお願いしますね」


 通院の継続を母親が受け入れたところで、一叶は声をかける。


「あ、お母さん。いづみちゃんなのですが、BMIが低くて、少し栄養が足りていないようでして、摂取エネルギーを増やしていただけると……」


「これ以上は無理よ」


 困ったようには母親は言う。


「同じレッスン場に通ってるももちゃん……あ、この子と同い年の子なんだけど、もっと細いのよ。あれだけ絞ってるから、プリマも演じられるんでしょうね。だからうちも、妥協はできないわ」


 母はスマホを弄り、画面を見せてくる。そこには短い文章を投稿できるSNSの記事が映っており、桃らしき女の子がバレエの衣装を着てレッスンを受けている写真がいくつも載っている。


「前のコンクールの結果がよかったから、桃ちゃんはプリマになったの。それ以来、見て。いいねの数もすごいでしょう?」


 投稿された記事の下のほうを見ると、二十件近くの『いいね』が押されている。


「お母さんも、SNSをされてるんですね」


「ええ! バレエママなら、みんなやってるわよ」


 母親はどこか嬉しそうに、自分のアカウントのページを開いた。


「新しい衣装とか、レッスン姿とかを載せてるの。うちはまだまだなんだけどね……あ、これ、娘をバレエダンサーに導く食事メニュー。私が作ったのよ」


 いづみがオールグリーンと言うだけあって、投稿されている料理たちは野菜ばかりだ。唯一サラダの中に見えた肉は鶏ささみだけ。


「これでも結構、ためになりますって言ってもらえてるのよ。うふふっ」


 その笑顔は、娘を支えられる喜びからきたものではない。自身が称賛を浴びていることへの喜びだろう。


 娘がさもすごい成功を遂げたかのように嘘をついて、そう導いた親を演じる自分の母を思い出し、嫌気が差した。


(お母さんには、いづみちゃんが見えてないんだ……)


 いづみが今日、カフェの若者が頼むようなメニューひとつで物凄く喜んでいた姿を思い出し、切なくなる。


「……っ、やめてよ」


 いづみが絞り出すように言った。


「私のこと、勝手に載せないでって言ったよね?」


「なに言ってるのよ、あなたは私が生んだのよ?」


「だから?」


「私があなたをどうしようが、口を出さないでちょうだい」


 いづみは傷ついた顔をして、息を呑んだ。


「ああ……そう」


 いづみは俯きながら、震える声で呟いた。


「いづみちゃん?」


 彼女に一歩、近づいたときだった。ひんやりと寒気がして、一叶は目を見張る。いづみの腕の黒ずみが手や首のほうまで広がってしまった。


「い、いづみ? それ……」


 母親は信じられないものを目の当たりにし、後ずさった。


「親だからって、勝手に晒していいって、本気で思ってるんだ。私の気持ちより、見ず知らずのフォロワーの『いいね』のほうが大事なんだ! 私なんかより……!」


「……! いづみちゃん!」


 闇が膨れ上がる気配がして、一叶はいづみの肩を掴む。いづみはゆっくりとこちらを向いて、目に涙を滲ませながら、ぎこちなく笑んだ。


「ごめん、魚住先生……私、無理みたい。だって、こんなの……戦う前から、負けてんじゃん……」


 彼女が言葉を紡ぐ間も、肌は黒く染まっていき、顔の半分を覆ってしまう。


「嘘……駄目駄目っ、駄目だよ! やだっ、いづみちゃん!」


 彼女の顔を手で包み込み、指で黒くなった肌を擦るけれど、拭えない。やがて、いづみの全身が黒に塗り潰され、彼女はがくりと崩れ落ちる。


「いづみちゃん!」


 彼女を受け止めながら、一叶はその場にしゃがみ込んだ。


「いづみ!」


 我に返った母親も床に崩れ落ちるように娘のそばに膝をつく。目は開いたままで光がなく、一叶は急いで総頸動脈に三本指で触れた。


「脈はある、呼吸は……」


 口元に頬を近づけると、息遣いを感じる。


「見て、サチュレーションも九十九パーセント、問題ないよ」


 翔太が指先につけたパルスオキシメーターは、呼吸状態が悪くないことを証明している。


「でも、意識が……」


 理解できない状況に一叶たちは呆然と、眠っているいづみを見つめるしかなかった。




「お母さんは一旦、入院に必要な荷物を取りに帰りました」


 母親を病院の入り口まで送っていた京紫朗が病室にやってくる。皆、難しい表情でベッドで眠っているいづみを見つめていた。


 翔太はモニターに視線をやる。


「バイタルも脳波も異常なし。やっぱこれ、霊病だよね」


「そうとしか、思えないよね……」


 あんなに一気に肌が黒く変色したのだ。


「各部位ごとに念写もしてみたんだけど、特にはなにも映らなかった」


 エリクは真剣な面持ちで、数枚あるレントゲンフィルムをめくっていく。


「負の感情は霊に力を与え、活発化させます。では、あらゆる感情の中でも、最も強く霊に力を与えるのはどんな感情だと思いますか?」


 意味深に問いかけてきた京紫朗を皆が振り返る。


「無念さ、でしょうか?」


 一叶は霊病科に来て初めて担当した大学生の患者を思い出す。彼らに暴行されて海に捨てられた女子高生は、犯人である大学生たちの罪を一叶に知らせようとしてきた。そして真実が明るみになり、警察に連行されるのを見届けた女子高生は病院から去っていった。


「俺は……死んでも追いかけてくる狂気じみた愛も……かなって」


 翔太は患者のストーカーだった小池のことを思い出したらしい。自分の体験も重なるからか、苦い顔でそう答えた。


「妬みもじゃね?」


 和佐がそれを挙げたのには納得がいく。彼と請け負った患者の少女は、母親の妬みが引き起こした呪いの犠牲になっていた。和佐自身も、周囲の妬みに押し潰されて、自分自身を呪ってしまっていた。


「僕は憎しみだと思う。ほら、魔巫女みたいにさ、理不尽な目に遭った人たちの恨みがあんな事件を起こすんだって、身を以て知ったから」


 エリクが身に染みたようにしみじみと答えると、京紫朗は「そうですね」と返す。


「総じて、執着が霊に最も力を与えると言えるでしょう。その執着が強い霊であれば、黄色くんが念写しなくとも、写真に現れることがあります」


「ああ、僕たちが最初に担当した水吐く大学生のときみたいに?」


 確かに彼らに殺された少女の霊は、通常の肺のレントゲンに映り込んでいた。


「はい。なので黄色くんの念写にも映らないとなると、いづみちゃんを蝕んでいるものは、そこまで強い執着を持つ霊ではないのかもしれませんね」


「じゃあ、なにがいづみちゃんを蝕んでるんだろ」


 翔太はいづみを覆う黒に目をやり、なにかヒントはないかと観察している。


「霊視はできねえのか?」


 和佐の視線がこちらに向き、一叶は首を横に振った。


「何度触れても、なにも……」


「……最近、霊を視ていますか?」


 京紫朗に尋ねられ、一叶はきょとんとする。


「そういえば……視てません」


 病院には生死を彷徨う患者がたくさんいる。その場所柄のせいか、ときどき黒い靄を視ることはあった。


「でも、頻繫に視えるわけではないので……」


「目の前にいるのは、明らかな霊病患者です。今までのあなたなら、なにかしら感じ取れたはず。それがまったくといっていいほど、ないのはおかしい」


「それ、は……」


 京紫朗は、なにが言いたいのだろうか。いや、わからないふりをして、本当は頭にひとつの可能性が浮かんでいる。


『でも、きみは視える人間です。視ようとしてこなかったから曇っているだけで、視ようとすればもっと鮮明に視えるようになります。霊視は感受性を豊かにしていくことで研ぎすまされていく第六感ですからね』


 霊病科に配属された日、一叶は京紫朗にそう言われた。


「私が……視ようとしてない……?」


「自分といづみちゃんを重ねていませんか?」


「……っ」


 京紫朗に図星を指され、心臓がドキリと跳ねる。


「視るのが怖いんですね、自分の嫌な過去も蘇ってきそうで」


「っ……はあっ……はあっ……」


 息が苦しくなり、喉に手をやった一叶は凍りつく。


(え……?)


 血の通っていないなにかが首に回っている。指先で感触を確かめると、それが手であることに気づいた。


 ふと、耳元を誰かの吐息が掠める。


「ウラギリモノ」


 囁き声が聞こえた途端、戦慄が身体を突き抜けた。


「……っ、ぁ、ああ……っ!」


 一叶は膝から崩れ落ちる。首を押さえていた手が、巻いていた包帯に引っかかり、解けた。すると、皆が息を呑んだ。


「なにこれ……っ、指の痕……?」


 エリクがそばにしゃがんで、一叶の首に手を伸ばすも、どうすればいいのかわからない様子だった。


「なんか、首絞められてるみたいに凹んでる!」


 翔太も一叶の隣に膝をつき、狼狽している。


「ううっ……はっ……」


 あまりに苦しさに、一叶は床を掻いた。額から汗が伝い、手の甲に落ちる。


(今朝と同じだ……)


 こんなときに、母親に首を絞められたときのことを思い出していた。


「黄色くん」


 京紫朗は、後ろからエリクの肩に手を置いた。


「前に頭に直接念写を施すことで、母親に流れ込む魔巫女の記憶を別の思考に上書きしたことがありましたね」


「え? はい」


「それを水色さんにも施してください」


「けど、あれは危険で……」


 迷うようにエリクが一叶を見ると、和佐が声を荒げる。


「いいからやれ! むしろ、今だって危険ことに変わりねえだろ!」


「うっ、わ、わかったよ! 簡単に言ってくれるなあ、もうっ……うおちゃん、ちょっとごめんね」


 エリクが一叶の頭を掴むと、青いフラッシュが焚かれた。その瞬間、頭の中にHILARIOUSのデッキ席が視えた。そこでエリクと和佐が飲んでいる。


『ねえ大王、彼女っているの?』


 遠いところで、声が響いている。


『あ? いねえよ、そんなもん』


『じゃあ、気になる子は?』


『…………』


『え、いるの? 実は僕も――』


 いつの間にか会話に集中していた。すると、喉の締めつけがふっと消え、視えていた光景が煙のように消えた。


「けほっ、けほっ……すう、はあああ……っ」


 深呼吸をする一叶の背を、エリクがさする。


「よかった、もう平気?」


「う、うん……ありがとう」


 なんとかエリクに笑みを返し、額の汗を手の甲で拭った。


「出会ったときから、水色のオーラの中にほんの少し、黒い部分がありました。最近はそれが小さくなっていたのですが、ある時を境に広がっていった」


 恐る恐る京紫朗を見上げ、一叶は震える唇を動かす。


「黒のオーラは……死の色」


「はい。病院で倒れて、お母さんと会ってからです。あなたに死が迫っている」


 皆は目を見張り、その顔に苦痛と恐怖を浮かべた。


「それって、魚住が死ぬってことですか?」


 皆が気になっていても聞けなかったことを、和佐が尋ねた。


「それはわかりません。水色さんに起こる死なのか、水色さんのそばにいる死なのか」


 翔太は眉を顰める。


「そばにいる死……霊ってことっすか?」


 京紫朗は首を縦に振り、一叶に向き直った。


「水色さん、いづみちゃんを助けるためには、水色さんが水色さんの中にある闇と向き合って、答えを出し、霊視能力を取り戻さなくてはなりません」


(闇……)


 母の姿が頭に浮かび、身体が震える。


(私は……勝てるのだろうか。母に……)

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