5章 道④
いづみが来るのは学校が終わって、レッスンに行く前の午後三時半頃。
それまでに昼食を取ろうと思ったのだが、母との一件で食事を買ってくるのを忘れ、一叶は院内に併設されたカフェに来ていた。
「うわ、なにそれおいしそう!」
たまごサンドをかじったところで、横からいづみが現れる。
「ごふっ」
喉にたまごサンドが詰まりそうになり、一叶はコーヒーでなんとか流し込んだ。
「っ、はあっ……い、いづみちゃん? 学校はどうしたの?」
「ふふん、実はね」
いづみは得意げに向かいの席に座り、両手で頬杖をつく。ちらりと彼女の右の手の甲が見え、一叶は目を見張った。
(黒ずみが手の甲にまで進んでる……?)
二週間前までは、前腕から二の腕の範囲に留まっていたはずだ。今は少しではあるが、黒ずみが手の甲にまで侵食している。
「受験生って早上がりなの。でも、お母さんには言ってないんだ。普通、気づきそうなもんだけど、お母さんはバレエのことしか頭にないから。下手したら、私が受験生だってことも忘れてる」
「そっか……それじゃあ、このあとまた学校に戻るの? 車で送り迎え、してもらってるんでしょう?」
「うん、適当に時間潰したらね」
「本当、大変だね……」
自分の学生時代を思い出して、声に感傷が滲んでしまう。
「でも、今だけだし。私、高校卒業したら、あんな毒親から絶対逃げてやるんだ」
はっきりと、彼女は『毒親』だと言った。
自分もいづみほど強い決意があったわけではないが、逃げたくて家を出た。けれど、母親の夢になった子供は、ずっとその影に追いかけ回される。本当に振り解ける日など来るのだろうかと、今でも不安になる。
自分といづみを重ねて、気分が落ち込みそうになっていると、ふいに視線を感じた。いづみがじっと、一叶のたまごサンドを見ているのだ。
「あ……もしかして、お腹空いてる?」
いづみは恥ずかしそうに、顔の前で手を振った。
「ぜ、全然っ」
ごまかそうとしているが、明らかに食べたそうな目だった。とはいえ、医者が患者になにかを買うのはコンプライアンス的にまずいだろう。どうしたものかと考えて、
「あ……ええと、もう一杯飲み物買おうかな。なにがいいかなあ……?」
「え?」
「例えばなんだけど、いづみちゃんならどれがいい?」
メニュースタンドを彼女の前に置く。
「えと、チョコレートモカ……とか?」
一叶は席を立って、レジカウンターでチョコレートモカを頼んだ。やがて出来上がったそれを手に席に戻ると、いづみの前にマグカップを置き、椅子に座り直す。
「知ってる? 私のいる霊病科って、霊の起こす病を診るのが専門なんだ」
「らしいね。でも、まだちょっと半信半疑だけど」
「はは……だよね。でも、霊と対峙することもあるんだ。だからね、今はいづみちゃんに取り憑いてる……かもしれない、霊の機嫌をとって、その腕がよくならないかなーと」
いづみはそこで、勘づいた様子だった。
「……まさか、このチョコレートモカで?」
「うん、お供え物……的な? いわばこれは治療の一環? みたいなものなので、そのチョコレートモカを飲んでいただきたく……」
呆気にとられていたいづみは、ぷっと吹き出す。
「なにそれ! 魚住先生、やばい人じゃん! あははっ、つか、自分で言って全部疑問形とかうける」
いづみは腹を抱え、声をあげて笑う。少しして周囲の視線を集めているのに気づき、「あ、すみません」とペコペコ頭をさげながら一叶に向き直った。
「あー、もう、こんなに爆笑したのいつぶりだろ。ありがと、魚住先生。これ、いただきます」
いづみはチョコレートモカを飲んで「んーっ」と足をじたばたさせる。
「超美味しい!」
「ふふ、よかった」
一叶は残りのサンドイッチが載った皿も、彼女の前に差し出した。
「いいの?」
「うん! お供え物なので」
一叶は拳を握り、意気込んで頷く。
「ぶふっ、吹っ切れてるし。でも……えへへ、いただきます」
サンドイッチを食べながら、またも悶えるいづみを微笑ましく思いながら見つめる。
「うちさ、食事制限厳しいんだ。ジャンクフードなんて一切食べたことないし、食卓に並ぶのはオールグリーン」
いづみは、べっと嫌そうに舌を出した。
「野菜一色ってこと?」
「そうそう。太ったバレリーナなんて見苦しいって」
制限してるだけあって、いづみはスラッとしている。思春期には男女とも体重が増加しやすいし、特に女子は体脂肪が増加する。この頃の自分なんて、まん丸としていた。
「おかげで授業中も頭がぼーっとするの。不健康だって自分でもわかる」
あとで栄養状態も見直しておこう。なんなら医者から言えば、食生活を改善してもらえるかもしれない。
「魚住先生、聞いてもいい?」
「うん?」
「その頬と首の包帯、どしたの?」
「ああ……目立つよね」
一叶は肩を竦める。冷やしてはみたが、頬は赤く腫れているし、首の包帯は服で隠れないので目についたのだろう。
「かなりね」
たぶん、ずっと聞きたくてうずうずしていたのだろう。けれど、どんなふうについた傷かわからないから、躊躇った。ぐいぐいくるようで、いづみはよく気が回る子だ。
「叩かれたの、お母さんにね」
彼女の気持ちを利用したようで胸が痛いが、本当のことを話したほうが信用してもらえると思った。彼女の変色した腕が霊病によるものなら、それを起こした心の闇を知っておく必要がある。
「叩き返してやった?」
物騒な言葉が返ってきて、一叶は目を瞬かせた。
「ううん、できなかった」
一叶は苦い笑みを浮かべ、カップの縁を親指で撫でる。
「……身体がね、なんでか動かないんだ」
ああ、といづみも苦々しく相槌を打った。
「叩いたり罵声浴びせたりさ、私たちから戦意を奪って、がんじがらめにして……自分の人生を私たちにやり直させるまで、どこにも行かせたくないんだよ。だから逃げないって確証ができるまで、安心できないんだ」
そういえば、翔太も母に対して言っていた。
『……お嬢さんは仕事へ行くだけです。いなくなるわけじゃない、焦らないで』
『こんなことしたら、余計に娘さんが離れてくって、わからないっすか』
翔太はいづみの言う、母の不安を感じ取ったのだろうか。
「いづみちゃんも、叩かれたりするの?」
「うちは怪我しようが、風邪ひこうが、こんな腕になろうが、とにかく倒れそうになるまで続くレッスンって暴力をふるわれてる。バレリーナにならない娘に価値なんてない、そういう暴言を吐かれてる気分」
苦い思いを甘いチョコレートモカで上書きするように、いづみはカップを傾け、ごくごくと飲む。そして、まるでビールジョッキをそうするかのように豪快にカップを置いた。
「先生、負けないでね。先生が戦ってるって思うと、私も頑張れそうなんだ」
(不思議)
彼女の言葉は大人の体裁がないぶん、物事の心理を突いている気がする。だがら年齢関係なく、素直に耳を傾けたくなる。
「うん、頑張るよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます