5章 道②
一叶は翔太と共に、霊病科にコンサルティングしてきた皮膚科を訪れていた。
患者の名前は
腕を見下ろしつつ、年配の皮膚科医が言う。
「組織が死んでるのかと思ったんだが、血管障害もなくてちゃんと血も通っているし、血液データ上、感染の兆候もない。黒く変色した部分の感覚もあって、末梢神経障害もみられない。ただ、皮膚が変色してるだけなんだよ」
口にはしないものの、『おかしいと思わないか?』と言いたげにこちらを見てくる。
「あの、霊病科って?」
母親が尋ねてきたので、翔太が説明する。
「こういった原因不明の奇病は霊が引き起こした病であることがあります。そういった霊病を治療する専門科のことです」
いづみは「まじ?」とぎょっとしている。これが普通の反応だ。
「なんでもいいですけど、うちの子、発表会が控えてるのよ。なのにこんなにみすぼらしい腕、見せられないじゃない? なんとかしてくれます?」
「え……」
翔太もまさか、霊云々の話をスルーされるとは思っていなかったらしく、呆気に取られていた。
「うちの母親、バレエのこと以外興味ないから。つか、それ以外の話は大抵ちゃんと聞いてないんだ」
一叶が驚いていると、いづみがこちらを見上げ、小声で皮肉を含んだように言った。
「できる限りのことはします。でも、その前に原因を見つけないことには対処ができませんので……」
「できる限り?」
母親は聞き捨てならないとばかりに、返答した翔太に詰め寄る。
「どのくらいかかるの? 発表会は一週間後なの。それ以上は待てないわ。あなたたちで無理なら、他の病院に連れていくわ」
「ま、まあまあ、お母さん」
皮膚科医が笑みを引きつらせつつ、仲裁に入った。
「腕の変色はやはり普通ではありませんし、他の病気が隠れていたら大変です。数日、検査入院していただくというのはいかがでしょう」
「駄目よ!」
皮膚科医の笑みが固まった。
「はい?」
「発表会が近いの。レッスンは抜けられないわ!」
「ですが……」
このままだと、病院を変えると言い出しかねない。そこに霊病科があるとも限らないので、なんとか引き留めなければ。
「あ……いづみちゃん」
一叶は少しだけ屈んで、いづみと目を合わせる。
「体調的には、バレエをしても問題なさそう?」
「うん、まあ……大丈夫」
「そっか」
いづみに笑みを返し、一叶は母親に向き直った。
「それではお手数ですが、レッスンの前にこちらに寄っていただけますか? 原因がわかるまでは、通院という形にさせていただければと」
「ええ、わかったわ」
承諾してもらえたことに、ひとまずほっとする。
「央くん、膠原病も視野に入れて、抗体検査もしてみたほうがいいかな」
翔太は小さく笑みを浮かべ、「ん」と頷く。
「お母さん、なにか免疫の異常が原因で発症する病気の可能性もありますので、もう一度特殊な血液検査をして、霊的なもの以外でも原因がないか、調べてみたいと思うのですが、よろしいですか?」
「ええ、なんでもいいから、早く治してください」
母親はなりふり構わずといった様子で、幾度も頷いた。
母親には待合席にいてもらい、いづみを連れて処置室へ移動した。
「ごめんね、もう一度採血させてもらうね」
一叶は真空採血管用ホルダーに翼状針をつけ、採血の準備をしながら話しかける。
翔太も一叶のそばに立ち、様子を見守っていた。
「寒くない?」
一瞬、冷気が漂ってきた気がして尋ねると、いづみは不思議そうに首を傾げた。
「ううん、別に」
「そっか。じゃあ、少しチクッとするよ」
消毒をして針を刺す。逆血を確認してからスピッツを差し込むと、中に血液が流れ込んできた。
「気分は悪くない?」
「平気です」
「十五歳ってことは、中学三年生……だよね。そろそろ高校受験かな?」
「……っ、うん」
いづみの顔が強張り、翔太が首を捻る。
「……心配?」
受験のことだろうか。いづみの表情は暗かった。
「受験勉強……できてないから」
「えっ」
いづみは一叶の反応を見て、可笑しそうに笑う。
「学校の先生とか、友達にも驚かれる。この時期にバレエ? って。でも、仕方ないよ。発表会のためだし。勉強の時間をとる暇がないんだよね」
「そっか……バレエ、好きなんだね」
本当はその逆かもしれないと思いながら、少し鎌をかけてしまった。
「……うん、好きだった」
切なげに目を伏せ、いづみは過去形で答える。
「今は違うんだ?」
翔太が突っ込んで聞くと、いづみは苦笑混じりに言った。
「ここだけの話にしてね。ちょっとだけ……窮屈」
いづみは両足を伸ばして、天井を仰ぐ。
「うちのお母さん、もともとバレエやってて、いい役を貰えてたりしたみたいなんだけど、バレエって結構お金がかかるんだよね。経済的に続けられなくなって、夢を諦めるしかなかったんだって」
いづみは「そんでさ」と、採血されていないほうの腕で頬杖をついた。
「プロのバレエダンサーになる。その夢を私に叶えさせたくて、三歳からバレエを習わせたってわけなんだけど……え?」
一叶が固まっていると、いづみがきょとんとする。
「そんなに驚くこと言った?」
「あ、ごめんね。うちと一緒だなと……思って」
一叶は苦笑いしながら「抜きますね」と一声かけて針を抜き、止血する。
「私の母も大学に通ってるときに私を身籠ったせいで、医者になる夢を叶えられなかったの」
「だから、魚住先生はお医者さんに?」
「うん、きっかけは母だった」
「うわ、マジで重いね」
ばっさり、はっきり言い切るいづみに一叶は面食らう。
「重……そ、そうかも」
なんだか、すっきりした。母は自分のためを思ってしてくれている、言ってくれている。そうやって押し隠してきた本音を、いづみが口にしてくれたからかもしれない。
「放課後は母の車でスタジオに移動して、連日五時間の猛レッスン。バレエ優先の生活で学校を休む日も増えたし、同級生と遊ぶ時間もないんだよ? それは百歩……いや千歩譲るとしてもさ、さすがに受験前までこれって頭おかしくない?」
「最近の女子高生、なかなか言う……」
翔太は驚いたように、いづみを見ていたが――。
「わかる!」
一叶が喰いつくと、「魚住?」と今度はこちらを向いて翔太が目を見張った。
「うちも週に五日塾に通って、帰ってきたら眠る時間も削って母と自宅学習用の教材を解いてたの。友達と遊ぶ暇なんてなかったんだけど、そのときは母が自分のためを思ってやってくれたんだからって、そう思って……って、あ」
採血台に身を乗り出して、早口で愚痴をこぼしていた一叶は我に返る。
「ごめん、ぺらぺらと……」
「ぷっ、ううん、先生と喋ってたらすっきりした」
にへらっとするいづみにつられて、一叶も笑ってしまった。
「検査結果は二週間後に出ますので」
採血室の前でそう伝えると、母親は「そうですか」と言いながら、スマートフォンで時間を確認する。
「では、ありがとうございました。ほら、レッスンに遅れるわよ」
いづみの腕を掴んで、母親は歩き出す。すると母親に引っ張られていたいづみが振り返り、軽く手を振ってきた。
一叶が小さく笑いながら手を振り返していると、隣で一緒に見送っていた翔太が言う。
「魚住、あの子からなんか感じた?」
「あ、触れたときにはなにも。だけど、採血室に入ってから、なんか寒気がして……その、霊の存在を感じるとき、だいたい寒気がするから……ただ、姿は見えなかったし、確信はないんだけど……」
「そっか……俺は、いづみちゃんがお母さんと離れたそうにしてる感じがしたのが気になった。でも、嫌ってるとかじゃなくて……ちょっと疲れてる感じ」
「……私と、同じ感じ?」
翔太にちらりと視線をやると、彼もこちらを横目に見た。
「うん……」
躊躇いがちに答えた翔太に、一叶はやっぱりと軽く俯く。
「私は……エンパスじゃないけど、いづみちゃんに同じものを感じたよ」
一叶は胸を押さえて、苦笑した。
「いづみちゃんも、魚住に同じものを感じてたと思うよ。だから、すぐに心を開いた」
「その心の闇が、いづみちゃんの腕をあんなふうにしたのかな」
「わからない。けど、可能性はある。まずは膠原病の結果を待ってからだ」
一叶は「うん」と頷き、翔太と霊病科へ戻るのだった。
二週間後、出勤の準備をしていると、母に机の上に載せていた鞄を払われた。
「いつまで私を無視するつもり!?」
それには答えず、一叶はしゃがんで、黙々と床に散らばった荷物を拾う。
一叶が倒れて、病院に母が来てからというもの、『実家に戻ってこい、でなきゃ死んでやる』と電話の留守電やメッセージで脅されている。そんな相手となにを話せばいいと言うのだ。
(もう、お母さんの言いなりはならない)
ただ、言葉を交わしてしまえば言い負かされてしまいそうで、無視を決め込んでいた。
荷物を集め終えて、一叶がいざ立ち上がろうとすると――ガッと、後ろから首を絞められる。
「っ、うっ……くっ……うぁっ……」
一叶は床を掻き、それから腕を後ろに払う。その瞬間、拘束が解けた。一叶は咳き込みながら鞄を引っ掴んで玄関に走り、靴を履いて外へ飛び出した。
「裏切者!」
母の呪詛ごと封じ込めるように扉を閉めた一叶は、片手でドアを押さえたまま鍵をかけ、逃げるように病院へ走り出した。
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