5章 道①

 今から二年前の三月。


 長野にある実家にいた一叶はスーツケースを持って、玄関へと向かっていた。その後ろを母が追いかけて来る。


『初期研修先をきさらぎ病院に決めてきたって、どういうこと? お母さんが見つけてきた病院はどうしたのよ?』


『……っ、ごめん。研修先の病院は自分で決めてみたくなったの』


 大学の医学部の卒業間近に物件まで探していたのだが、絶対に反対されると思ったので母親には内緒にしていた。案の定――。


『駄目に決まってるじゃない! あなたは私がいないと、なにもできないんだから!』


 母はヒステリックに叫ぶ。振り返ると、母はいそいそと一叶の靴を取り上げ、家の中に放り投げてしまった。


 一叶は緊張しながら深呼吸をして、慎重に言葉を重ねる。


『……私、今まで将来のこととか、全部お母さんが決めてくれてたから、どんなことも自分で決めることが苦手なの』


『それのなにが問題なのよ! お母さんの言う通りにしてれば、間違いないんだからいいじゃない!』


『でも! それじゃあ自分の人生なのに、自分で責任を取れなくなっちゃう! きっと、失敗したらお母さんのせいにしちゃう……!』


 だから背中を押してほしかった。一度でいいから、信じて見守っていてほしい。


『だからごめん……行くね』


 息苦しさを覚えながら、一叶は靴下のまま歩き出し、ドアノブに手をかける。


『母さんを捨てるの!?』


 ドアノブを回しかけた手が止まる。罪悪感を煽るような言い方をする母に、また酸素が薄くなった気がした。


『ならいいわよ、出ていきなさいよ。勘当してやる!』


 気に入らないことがあると、母はすぐにそう言い出す。そのくせ、自分から勘当を言い渡しておいて、親戚には娘に縁を切られたと言いふらすのだ。


 迷いを振り切るように、一叶はドアを開けた。そのまま靴下で家を飛び出した一叶は、途中で靴を買い、東京へと旅立ったのだった。




 目を覚ますと、真っ先に白い天井が目に飛び込んできた。馴染みのある消毒液の匂い、どこかの病室のベッドに一叶は寝ていた。


「あ……っ、あの黒い女は……!?」


 一叶が飛び起きると、ベッドサイドにいた翔太が驚いたように丸椅子から腰を上げた。


「目が覚めた? 魚住、急に外来で倒れたんだよ」


「……私、どのくらい寝てた?」


 反対側のベッドサイドから、和佐が答える。


「三時間くらいだ」


「そんなに?」


 仕事中に眠りこけるなんて、悪いことをした気分だ。


「うおちゃん、女の人ってなんのこと? まさか、霊? そのせいで倒れたとか?」


「ええと……たぶんそう。その……『裏切者』って言われて、首を絞められて……それで気を失ったの」


 倒れる前の記憶を手繰り寄せながら話していたら、今更になって恐怖が押し寄せてきた。ぶるりと震える一叶の肩を翔太がさすってくれる。


 ――ガラガラガラッ。


 病室のドアが開いた。京紫朗の後ろから現れた母に、一叶の身体は強張る。


「すみません、緊急連絡先に連絡をさせていただきました。お母さん、魚住先生は検査の結果、特に異常はありませんでしたので――」


「ああ、そう。それより、どうして私はそのオカルトメディカルチームなんて意味のわからない部署の医者から、病状説明を受けているのかしら」


 母は京紫朗の言葉を遮るように喋り出した。


「……? 娘さんから聞いていませんか? 彼女は今、うちの科で働いているんですよ」


「なんですって……?」


 ものすごい形相で母がこちらを振り向く。


「え……お母さん? 私、お母さんにメッセージで伝えたよね? オカルトメディカルチームに配属されたって。お母さんだって、返信してきたでしょう?」


「聞いてないわよ! また嘘をつくの!?」


 母の怒声が病室に響き渡った。


「あなたは医学部を卒業したあと、私の許可なく家を出て、私の許可なく勝手に働く病院まで決めちゃって!」


 母ははっと笑って、京紫朗たちの顔を見回す。


「知ってる? 私、この子に縁を切られたのよ。親不孝な娘よね」


「ち、違……」


 母が言ったのだ。『ならいいわよ、出ていきなさいよ。勘当してやる!』と。それなのに一叶の仕事場での立場も考えず、母は「この恩知らず!」と喚き散らす。


(どうして、ここまでして私を追い詰めたいの……?)


 どうしようもなく、やるせない気持ちになる。


「あんたの嘘には懲り懲りよ! 霊が視えるとか言い出したときもそう、あんたが嘘ばかりつくから、お父さん出ていっちゃったんじゃない!」


「え……?」


(そうなの?)


 そんなこと、知らなかった。父は突然、家を出ていった。一叶の記憶では、父は勉強漬けの日々を送っていた一叶を息抜きにジャンクフードの店やテーマパークに連れていってくれた。それが母に見つかるたび、いつだって庇ってくれた。


(でも、心の中では気味悪がってた?)


 ショックで俯いてしまうと、母は勝ち誇ったように言う。


「倒れたのも、日頃の行いが悪いからでしょ。親への感謝が足りないからよ。親の言うことを聞いていれば、こんな目には遭わなかったのに」


 母の言葉を聞いていた皆が「なっ」と、苛立ちや驚きを含んだような声をあげる。


 一叶の体調が悪くなったり、怪我をしたりすると、母はいつも親への感謝が足りないからだと言った。


 でも、エリクの母を見ていて思った。子供が危険な目に遭えば心配になるし、自分が間違っていれば謝る。あれがきっと、世の母の姿なのかもしれないと。自分の母親は、普通ではないのだ。


「水色さん、仕事です」


 京紫朗の唐突な一声に、一叶は「え?」と目を瞬かせた。


「あなたを待っている患者がいます」


「あ……はい」


 仕事一筋になったこの身体は、ほとんど反射的に動き、ベッドから出る。


「どこに行くっていうの!」


 母に呼び止められ、一叶は足を止めた。


「その霊病科ってところで働く気? そもそも、オカルトってなんなのよ! ふざけてるの!?」


「いいえ、れっきとした科ですよ。霊が起こす病――霊病を治すのが専門です」


 京紫朗は霊病科を貶されたと言うのに、気にした様子もなく答えた。


「はっ、また霊。揃いも揃って、嘘つき集団ってわけね」


「お母さん!」


 鼻で笑った母をさすがに見過ごせず、一叶は母を振り返って怒る。


「私のことはいい、でも……みんなのことをそんなふうに言わないで。お母さんは……お母さんは、私たちがここでなにをしてきたか、なにも知らないでしょう!」


(それなのに、勝手なこと言わないで……!)


 娘に反抗されたのが気に食わなかったのか、母はこちらへ足を踏み出し、噛みついてこようとした。しかし、母よりも先に翔太が口を開く。


「……お嬢さんは仕事へ行くだけです。いなくなるわけじゃない、焦らないで」


 一叶にはその意図が読めなかったのだが、母は心当たりがあるのか、息を呑んだ。


「おら、行くぞ」


 和佐が一叶の手を引いて、病室から連れ出そうとする。


「っ、それでも行くっていうなら、死んでやる!」


 病室の入り口で立ち止まった和佐は、「おいおい……」と呆れていた。


 今まで何度聞いただろう。死ぬ死ぬと言いながら、未遂すら起こしたことがない。母は自分の要求を通すためなら、あの手この手で一叶の心を引き裂こうとする。


「ほっとけ、死にてえなら勝手に死――」


「おおっと! 病院的にそれはまずい!」


 エリクが和佐の口を塞いだ。


「お、お母さん、娘さんは今、うちの病院で働いてる霊病医です。彼女が救ってきた患者はたくさんいますし、うちの母――医院長もそれを認めています」


「あなた、医院長の息子なの?」


 母は肩眉を上げ、品定めするようにエリクを眺める。


「え? はい、そうですが……」


 母は「そう」と言い、なぜかにんまりとしながら一叶を見た。その瞬間、ぞわりと寒気がした。


「なら一叶、この子と結婚しなさい」


 エリクは「……は?」と目を丸くした。一叶も耳を疑う。


「な、なに言ってるの? お母さ――」


「次期医院長の嫁なら、世間的にも成功組みじゃない。私も鼻が高いわ、別の科で働くことも許してあげられそう」


 だから結婚しなさいと一叶に圧をかけながら、母はなぜかスマホを弄り始める。


「ねえ、お母さん」


「ん?」


 画面から目を離さない母のところへ行き、そのスマホを奪う。


「今、本気で話をして――え?」


 向き合って話をしてほしくて取り上げたスマホの画面が目に入り、一叶は思考が停止した。開かれていたのは、短い文章を投稿できるSNSの投稿画面。そこに打ち込まれていた投稿前の文章を思わず読み上げる。


「うちの娘は……次期医院長の婚約者に……なった?」


 頭の中で、なにかが焼き切れそうだった。ほとんど衝動的に、一叶はその記事を削除する。


「ちょっと、なにすんのよ!」


 スマートフォンを取り返そうとする母の腕を避け、他の投稿を確認する。すると、【自分の娘は某有名病院の研修医になった】【病理医になった】などと嘘をついて、自慢する投稿を繰り返し行っていた。


「……いいね欲しさに、娘を切り売りしてたんだ」


「人聞きの悪いこと言わないでちょうだい」


 そう言って、母は一叶からスマートフォンを奪い返す。


「ごめんね、私……お母さんの望み通りの医者じゃなくて。でも……こんな嘘をつかなきゃいけないほど、私って……駄目な娘かな?」


 泣きたくなって、一叶は逃げるように病室の出口へ向かう。


「一叶!」


 戸口でつい足を止めてしまうが、一叶は振り返らなかった。


「私、仕事に行かなきゃだから」


「お母さんを見捨てるの!?」


「ごめん、邪魔……しないで」


 振り切るように病室を出る。一言でいいから謝ってくれたら、もう一度だけ母に向き合えたかもしれない。けれど、母からその言葉を聞けることはなく、怒りと悲しみとで胸の中がぐちゃぐちゃなまま歩いていると、和佐が舌打ちをして一叶を追いかけてきた。


「もう大人なんだ、あんなんに縛られてんじゃねえよ」


「……うん、大丈夫。家を出てから、少しずつだけど、実家にいたときが異常だったんだって、客観的に見られるようになってきては……いたんだ」


 和佐に返事をすると、後ろからまた誰かが走ってくる足音がした。振り返るより先に、エリクと翔太が横に並ぶ。


「お母さんのこと、松芭部長が送ってくれるって!」


 わざと明るく話してくれるエリクに、一叶は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


「ありがとう。それと、さっきはうちの母がごめんね。変な事言って」


 あとで松芭部長にも、お礼を言わないとと思いつつ謝ると、


「結婚のこと? 僕は大歓迎ですよ?」


「エリクくん……」


 おどけてみせるエリクに、一叶は眉を下げながら笑う。


「魚住、今って、お母さんとは別々に暮らしてるの?」


 エリクの隣にいた翔太が、こちらを覗き込むようにして話しかけてくる。


「え? ううん、今は一緒に暮らしてるよ」


「お母さんは魚住が家を出たって言ってたけど……」


「実家は出たんだけど、お母さんが引っ越し先のマンションまで押しかけてきて、同居するようになっちゃって」


 和佐はうんざりした顔で「やっぱ、子離れできねえ親だな」と口を挟む。


「お母さんは……世間で言う毒親だと……思う。だから、絶対に離れる。もう、付き合わない」


 母は一叶はなにもできないと、何度も刷り込むように言い聞かせて来た。そのせいで、いつも自信がなかった。そうやって自立心を奪われてきたのだ。もう、洗脳されるのはたくさんだ。


「魚住……」


 翔太の物言いたげな視線がなぜだか今日は怖くて、一叶は返事もできずに視線を逸らしてしまう。そんな一叶の怯えを察したのだろう。


「それより、仕事しよう。今日の日勤、俺と松芭部長だよ」


 翔太はそう言って話を変え、伝えようとしていた言葉を飲み込んだように見えた。

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