2章 コードブラック③

 車を降りると、門柱の表表札には【小池】と書かれている。


「ご家族と住んでるんでしょうか……?」


 皆で見上げたのは、ひとりで住むには広すぎる家。キィィ……と錆びた門を開けながら、梓がこちらを振り返る。


「いや、確か今は一人暮らしだった気がするぞ」


 エリクが「えっ」と家と梓を交互に見比べる。


「庭も雑草生え放題、伸び放題なのはそのせいかー……」


 門を抜けてすぐに見えた小さな縁側の前にある庭は、確かに荒れ放題だ。


「お前たちは下がってろ。まずは俺が話す」


 エリクと揃ってこくりと頷くと、梓が玄関脇のインターフォンを鳴らした。だが、応答がない。


「すみませーん」


 梓が声をかけている中、一叶はふと視線を感じた。


 ――ぎょろぎょろっ。


「……!」


 あの黒い男の身体にあった無数の目玉がこちらを見ている気がした。


 左側、縁側沿いの庭のほうからだ。

 怖いものほど確かめずにいられないのは、なぜなのか。そんな人間の性を恨めしく思いながら、恐る恐る振り返ってみると……。


 ――べたぁぁっ。

 窓ガラスに両手ろ頬をべたっとくっつけて、こちらの様子を窺っているふくよかな眼鏡の男がいた。


 ――はあっ……。

 男が息を吐くと、窓が白く曇る。その光景は春香の手を握った際に霊視で視たストーカーの姿と重なり、一叶は「ひっ」と悲鳴をあげて後ろに飛び退いた。


「おっと、うおちゃん!?」


 後ろにいたエリクにぶつかってしまった。


 エリクはとっさに受け止めてくれるが、一叶は目をぎゅっと瞑り、震えながら窓ガラスを指差す。


「い、います!」


「小池か! おいおい、居留守かよ」


 梓はずんずんと庭の窓に近づき――。


「おい! 警察だ、話を聞かせろ!」


 ドンドンッと窓を叩く。


「引っ込んじまったのか?」


 窓を覗き込んで「おい!」と叫んでいる梓を遠目に眺めながら、一叶はエリクと並んで立ち尽くす。


「さすが大王兄って感じだね」


「……うん」


 傍から見たら取り立てと間違われてしまいそうだ。


 近所の人が騒ぎを聞きつけて出てきたらどうしよう……とひやひやしていると、梓は小池が出てこないことに業を煮やしたのだろう。


「さすがにかち割るわけにいかねえからな。どっか入れるとこねえか探してみるか」


 窓から呼びかけるのは諦めて、家の周りを歩き始めた梓にエリクが目を丸くする。


「え、不法侵入する気ですか!?」


「なんかぞわぞわすんだよ、ここ。あと、なんか臭いやがる」


 鼻をすんすんと鳴らしながら、ひとりでどんどん先に行ってしまう梓を見て、エリクがぼそりと言う。


「野生の勘ってやつかな……」


「私たちと同じように、なにか特別な体質があるのかもね……」


「なるほど。と、とにかく僕たちもついていこう」


 エリクのあとについて歩き出すと、また視線を感じて足を止める。ゆっくり振り返ると、カラカラ……と窓が開いた。


「えっ」


 急いでエリクたちを探すが、もう先に行ってしまっている。


 家の周りを歩いているのなら、なにかあっても叫べば大丈夫だろう。


 それより、こうして話をする気になってくれた。この機会を逃せば、もう窓を開けてくれないかもしれない。一叶は意を決して、彼に向かって足を踏み出す。


「あの、すみませーん」


 空きっぱなしの窓の前で声をかけてみる。


「……どうぞ」


 姿は見えないが、中から覇気のない男の声が返ってきた。小池のものだろうか。


「し、失礼します」


 靴を脱ぎ、縁側にあがると、エリクたちが来ないかなと思いつつ後ろを振り返る。しかし、彼らが戻ってくる気配はない。致し方なく、一叶は窓を開けたまま家の中へ入る。


 リビングの床は雑誌や飲みかけのペットボトル、脱いだ服などが散乱していた。壁は斑点状の黒ずみが集まって大きな染みをいくつも作っており、カビている。


「あの、小池さん?」


 物を踏まないよう気をつけながら、座卓の横を抜け、部屋の奥に向かって呼びかけた。ひとまず上げてもらったはいいが、小池はどこへ行ったのだろうか。


(どこに行っちゃったんだろう……)


 室内の空気はひんやりとしていて、一叶は思わず腕をさする。


 ――カラカラカラ……。


 そのとき、後ろで静かに窓が閉まる音がした。


(えっ)


 焦って振り返れば、窓が閉まっている。


「嘘っ」


 慌てて駆け寄ろうとした一叶だったが、


「なにか用ですか?」


 背中からかかった声にびくっとしつつ、一叶は足を止める。


 後ろを見れば、いつから着ているのか、しわくちゃで食べ物の汁のようなものが飛び散った染み付きの白のTシャツと黒のスウェットのズボン姿の小池が立っていた。頭もぼさぼさで長く、セルフケア不足になるほど、生活や心が荒んでいるのがわかる。


「あ、小池さん……ですか? 私はきさらぎ総合病院の医師の魚住です。本日はいきなりで大変恐縮なのですが、往診に参りまして……」


「そうですか、お茶を入れます」


「いえ、おかまいなく……」


 いきなり往診に来られたというのに、あっさりと一叶をもてなそうとしている小池に違和感を覚える。


「あの、連れもいるので、中に入れてもらっても……」


 台所のほうから、ガンッと流しに食器を置いたような音がして、一叶は肩を震わせる。


「それって刑事でしょ。あんな乱暴なやつらと話ができるとは思わない。きみとしか話さない」


 今さらになって、ひとりで部屋に入ってしまったのは迂闊だったかと反省する。けれど、この調子だと梓が来ても話ができるかどうか……。


 近くに梓やエリクがいる。今は変に相手を刺激をしないように、梓たちが気づくまで大人しくしていよう。そう思って、テーブルの前に正座する。


「えっと……もうひとり、私と同じ病院の医者がいるんですが……」


 話している途中で、妙な音を耳が拾った。


 ――ギシ……ギシ……。


 奥の和室のほうから、妙な音がする。一叶が目を凝らしていると、


「お茶です」


 テーブルにコトンッと湯吞みが置かれ、弾かれるように前を向いた。


「あ、ありがとうございます。それで、あの……」


「きみとしか話せない」


 小池はそう言って、向かいに座った。人と目を合わせるのが苦手なのか、下を向いているので、その表情は見えない。


(なんで、私とだけ?)


 困惑が喉につかえて、すぐに言葉がでてこない。だが、なんとなくだが、深く聞いてはいけない気がした。


「えと、わかりました。それでその、私がここへ来た理由なのですが、小池さんが半年ほどクリニックをお休みされていると聞きまして……」


 あなたが生霊になって井上春香さんに付き纏っている件です……とは言えないので、そこには触れずに通院を再開してもらえるように促すことにした。ここで小池に治療を再開してもらえなければ、彼は犯罪者になってしまうかもしれないし、もっと大きな事件が起こって春香が傷つく可能性もある。責任重大だ。


「あの……」


「きみ、春香さんが入院してる病院の医者でしょ」


「え……」


 どうして知っているのだろう。春香が入院したのは最近のことで、彼には接近禁止命令が出ていたはずなのに。


 ――ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……。


 あの妙な音が耳につくが、とにかく話に集中しなければ。春香の居場所を知るためにかまをかけられているのかもしれないし、肯定も否定もできない。


「なぜ、そう思われたのか……お聞きしてもよろしいですか?」


 俯き加減に話していた小池は口端を上げる。


「ったから……」


 ――ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……。


 段々と大きく激しくなっていく音のせいで、小池の声が聞き取れない。


「すみません、今なんて……」


 テーブルに軽く身を乗り出し、一叶は耳を傾ける。


「ったから……」


 ――ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……。


「え?」


「会いに行ったから」


 はっきりと、小池の言葉が聞こえた。その瞬間、


「え……」


 目の前から、ぱっと小池の姿が消えた。


「う、嘘っ……どうなってるの?」


 勢いよく立ち上がると、目の前に出された湯吞が倒れる。中からさびの混じった水が流れ、一匹、二匹、三匹とハエが飛び出してきた。


「……っ!?」


 ぞわぞわっと鳥肌が立った。続けて異臭までしだして、一叶は「うっ」と吐き気を催し、白衣の袖で口と鼻を覆った。


(ここから出ないと!)


 なにが起きているのかわからないまま、一叶は窓に駆け寄る。ガラスの前に立つと、光が反射して、咄嗟に目を細めた。


 すると、外側でエリクと梓が窓を叩きながら「早く開けろ!」「鍵を開けて!」と叫んでいるのが見える。


「エリクくん、梓さん!?」


(いつからそこに!?)


 先ほどまで窓には誰もいなかったはずだ。それとも、内側からは見えないようになっていた? いろんな憶測が頭を駆け巡るが、今はとにかくここから出たい。


 一叶は鍵に手をかけるが、そこで驚愕する。鍵は開いているのだ。それもそのはず、一叶はここから入ったとき、鍵をかけていない。中にいた小池もすぐに台所に行ってしまったので、鍵をかけている様子はなかった。ならなぜ、ドアが開かないのか。


「な、なんで!?」


 窓をスライドさせようとする手が何度も滑り、焦っていると、またあの音が鳴りだす。


 ――ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……。


 その規則正しい音を聞いていたら、頭がぼんやりとしてきた。ゆっくりと手を下ろし、踵を返す一叶の後ろで、「おいっ、行くな!」「うおちゃん! 駄目!」とふたりが叫んでいる。


 だが、一叶の足は止まらない。廊下を歩いている途中で足が棚にぶつかり、転んでしまった。棚に乗っていた菓子缶が落ち、その拍子に蓋が開く。中から飛び出したのは、一冊の年季が入ったノート。それをぼーっとしながら、拾い上げる。



【きみもひとりぼっちなんだよね。僕と同じだ、きっと寂しい思いをしてるはず。僕がそばにいてあげなきゃ。だけど、周りの人間が邪魔をする。でも、僕の愛は本物だ。それを証明して見せる。この身体さえきみに会いに行くのを妨げる枷でしかないのなら、僕はその枷を自分で壊して、きみに会いに行くよ】



 ノートを開けば、書きなぐられた文字が頭の中に流れ込んできて、思考まで侵されていくようだった。


「会いに……会いに行くよ……僕が、きみのそばに……いるよ」


 口元が勝手に笑みを作る。膨れ上がってくる恋しさに突き動かされるように立ち上がり、よろよろと和室へと向かった。


 ――ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……。


 いよいよ足を踏み入れた和室で、〝それ〟を発見する。


 ――ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……。


 揺れている。


 ――ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……。


 長らく切っていないのか、肩につくほどある髪や大きな身体が右へ左へ揺れている。その首にかかっている縄が深く肌に食い込み、頚椎が砕けたのか、男はだらりと項垂れていた。白濁した虚ろな目は床を見つめており、顔は鼻水や涎で汚れている。寝間着であろうズボンは失禁で濡れ、穴という穴からぽたぽたと、浮いた足の下に体液が流れ出ている。


(首吊りだ……)


 それを理解した瞬間、意識が鮮明になった。大量のハエやウジ、ゴキブリなどの害虫がその体液の中を泳いでいる。


「あ……ああ……」


 小池の遺体を発見した一叶は、へなへなとそこへ座り込んだ。


 ――ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……。


 小池が揺れるたびに縄がしなる音を立てる。そのとき、小池がぴたりと動きを止めた。


「え……」


 一叶は恐る恐る顔を上げる。すると縄が千切れ、どさっと小池の巨体が畳の上に転がる。その拍子に体液がびしゃりと飛び散り、一叶は思わず息を詰めた。


 小池の身体はゴキリと骨を鳴らしながら、右、左と畳に手ついてゆっくりと起き上がり……ばっと顔を上げる。


『アアアアアアアア!!』


 小池はボロボロの歯をむき出しにして叫びながら、床を這って一叶に迫る。


「い、いやああああああああっ!」


 一叶はお尻をついたまま急いで後ろへ下がり、背中に襖が当たるのを感じながら、ぎゅっと目を瞑った。


(誰か……っ)


 目の端に涙が滲んだとき、窓ガラスが割れる音がした。


「うおちゃん!」


 はっと瞼を開けると、いつのまにかエリクがそばにいた。


「大丈夫!?」


 声をかけられて、気が緩んだせいかもしれない。一叶はエリクにしがみつき、震えながら涙を流す。


「さ、さっきまで小池さんと話してたのに、し、死んでて……っ、それで遺体がこっちに迫ってきて……っ」


 そう言いながら遺体を見るも、こちらに迫ってきた様子はなく、吊られたままだった。


「あ、あれ……? なんで……」


「もしかして、そういう幻をうおちゃんに見せてた……とか?」


 取り乱す一叶の背をさすりながら、エリクは遺体に視線を移す。


「あ、ども。警視庁オカルト対策室の九鬼です。……はい、首吊りです。ええ、お願いします」


 どこかに電話をかけていた梓は通話が終わったのか、スマホを下ろし、こちらに向き直った。


「怖かっただろう。なのに悪いな、すぐに休ませてやりてえんだが、これから現場検証だ。許可があるまでは、親族でも家へ入ることはできねえ。ちなみに、家の中の物に触ったか?」


「あ……このノートに……」


 それを見せると、梓はポケットから取り出した手袋をはめてそれを受け取る。


「日記か……最後の日記は四月十五日みてえだ。それにしても、きみに会いに行くよ、か……まさか死んで会いに行っちまうとはな」


 梓がページを捲っている音を聞きながら、一叶はふと思い出す。


「僕がいるよ……」


 病院の窓ガラスに刻まれた【僕ガイルヨ】の文字が頭に浮かび、気づけば口に出していた。


 エリクもなんのことか思い至ったらしい。


「それって、あの窓ガラスに刻まれた……?」


「どういうことだ? いや、ひとまずここを出るぞ。第一発見者になっちまったお前から、話を聞かせてもらわねえとだしな」


 一叶はエリクに支えられながら立ち上がり、梓のあとについて家を出る。


 門前までやってくると、一叶とエリクは今日、生霊が春香の首を絞めあげたあとに、窓ガラスに【僕ガイルヨ】の文字を刻んだことを話した。


「なるほどな……日記には井上春香のそばにいてあげなきゃ……とか書かれてたな。井上春香がひとりぼっちだ、きっと寂しい思いをしてるはず……そう思ったのは、なんらかの方法で夫の死を知ったからか」


「知ってたのは……それだけじゃ……ありません」


 梓とエリクが怪訝そうに一叶を見る。


「私が井上さんのいる病院の医者だってことも……っ、知ってました」


 先ほどまで喋っていた人間が死んでいたのだ。思い出すだけで震える一叶の腕を、エリクが案じるようにさする。


「つまり、今日病院に現れた生霊は、本当に小池さんだったってことが裏付けられたってことだよね?」


「それなんだけどよ」


 梓が言いにくそうに切り出す。


「検視前だからあれだけどな、あの腐敗の進み具合からするに、昨日今日の遺体じゃねえ」


「じゃあ、私が今日、病院で視たのは……生霊じゃなくて……死霊?」


「たぶんな。遺体の首に残るひもの痕を見るに、あれは自殺で間違いなさそうだ。首つり自殺の場合、通常は後頭部に向かって斜め上方向に痕が残る。だが、絞殺だと水平になりやすい。あいつの首にあるのは斜め上方向の痕だ。つまり小池は、自分の意思で死んで井上春香に付き纏ってるってことだ」


 自分の生すらも捨てて愛を貫く。言葉だけで見れば美しいけれど、望まれていないのに一方的に押しつける行き過ぎた想いは、愛ではなくて呪いだ。


 一叶たちが話していると、家の前にパトカーが数台停まり、応援に来た警察官や鑑識がばらばらと出てくる。


「おっと、悪いな。俺はここに残らねえとならねんだが……」


 申し訳なさそうにしている梓に、エリクが鞄からスマートフォンを取り出して見せた。


「それなら僕たちは、適当にタクシーを拾って帰ります」 


「悪いな、助かる。もろもろわかったら、こっちから連絡するからよ」


 片手で謝るようなジェスチャーをしたあと、梓は到着した警察官や鑑識のところへ走っていった。


「それじゃあ、僕たちも戻ろっか」


「うん」


 一叶たちはお互いの疲弊した顔を見て苦笑し、アプリでタクシーを呼ぶと、病院へと帰ることになった。

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