氷のゴーレム~魔女たちが子どもだったころ~

 これはまだ、魔女たちが子どもだったころのお話です。湖がまだ生まれたての泉で、山はまだ柔らかい緑の生木で覆われていました。早朝の空には彩雲が艶やかに横たわり、季節はようやく目覚めたばかりでした。一部の人の他は、ほとんどが優しい人たちばかりでしたから、深い森の奥で魔女の一族も穏やかに暮らすことが出来ていたのです。時には村々を訪ねておまじないなどして人の役に立ったりもしていたころのことです。


 深い深い山のその奥の隠された場所に、決して溶けることのない氷の欠片がありました。それを守っているのは、氷のゴーレムでした。そのゴーレムは若く美しい女の人の姿をしていました。透き通る水晶の青白い肌は夢見るように滑らかです。腰ほどもある長い髪は、リチア雲母の紫と銀色に光ります。その瞳はスピネルの赤に輝き、長く透き通るまつ毛の下で憂いを深く深く沈めているのでした。その姿は遠い昔に魔導士が喪った一つきりの恋の姿なのです。彼女はゴーレムとして魔導士を待ち続けています。氷の洞窟のなかで、鍾乳石に囲まれて、地底湖の蒼い宝石のような光に照らされながら。長い時の間も、一度も外に出ることはありません。雫が音もなく落ちて、透明な刹那が重なって石筍となるたびに、氷のゴーレムはその冷たい頬に頬杖をつき、熱の無い溜息を重ねるのでした。


 氷のゴーレムを造ったのは、鷲の賢者と呼ばれた魔導士でした。彼はある父のいない娘に生涯で一度きりの恋をしました。しかし、その娘は不治の病に罹っていたのです。魔導士は秘術を尽くして病を治そうとしました。しかし、命数は定めがたく、その美しい娘はやがて病で死んでしまったのでした。悲しみのあまり、母親は目が見えなくなってしまいました。魔導士も大変悲しみましたが、彼はその悲しみを永遠に溶けない氷に閉じ込めて、ゴーレムを造りました。己の魔力と命の全てを込めて残したゴーレムは、あまりに美しく儚げで、見る人の心をうちました。そうして、彼は氷の洞窟にゴーレムを隠し、洞窟もまた特別な魔法で隠したのでした。その後、魔導士は力尽きたように倒れ、後を追うように死んでしまいましたが、お葬式の夜、骸の胸にあった青い魔法の石から一筋の光が真っ暗な空に向かって昇っていきました。光は消えずに空の一点に留まり、やがて輝く星になりました。でも、ゴーレムはそのことを知らないのです。


 ある日、それは朝だったのでしょうか。それとも夕方だったのでしょうか。きっと夕方だったのでしょう。何日も何日も降り続いていました少し強い雨が止んだころです。

 コトリ。氷の洞窟の入り口に誰かがやってきたようです。それは、魔女の子どもでした。

「溶けない氷の欠片」を分けて欲しいと口にしたのでした。ゴーレムは、どうやってこの洞窟を見つけたのかは聞きませんでした。そして黙って、まだあどけないその魔女の子どもをその赤い瞳で見つめるのでした。


 「溶けない氷の欠片」とは、喪失の悲しみでした。決して熱を持つことはない胸に空いた洞窟でした。その中に隠している面影こそが、決して溶けることのない氷の欠片なのです。そのことを魔女の子どもに告げることが、ゴーレムにはどうしても出来ないのでした。

「あなたはどうしてそんなに綺麗で冷たくて、そうして悲しそうなの。」あなたがそう思う事が温かなことなのよとは、やはり言えなかったのです。そうして、この冷たさを引き受けたなら、きっともうどこかで子どもの季節が終わってしまうことをも。

 しかし、どうしてもと魔女の子どもが口にするので、訳を聞いたゴーレムは仕方なく、その冷たくほっそりとした優美な右手を差し出しました。薄暗い洞窟の中で、氷のゴーレムはぼうっと燐光しています。その薄絹一つ身にまとわぬままの姿は、この世で最も美しい彫像であり、失われた最も美しい影でした。

「ねえ、どうして…」あなたはそんなに綺麗で冷たくてと、繰り返そうとする子どもの唇を冷たい指が押さえました。そして両目を閉じさせるために両瞼にゴーレムが触れたとき、そのひんやりとした優しさに、魔女の子どもはうっとりとしました。


「悲しみよ。哀しみよ。失った面影と想いよ。何時までも凍り付け。決して溶けることのない氷の欠片となって、その心に宿れ。」氷のゴーレムが己の一部を絞り出すように呪の言葉を口にしました。その言葉が魔女の子どもの柔らかい心に冷たく沁み込んでいきます。驚いて目を見開いて氷のゴーレムを見つめた魔女の子どもは一瞬ぶるっと震えました。その時、魔女の子どもは訳も分からない悲しみに包まれました。涙がどんどん溢れてきます。泣いている瞳の辺りだけが熱くて、震えている背中はぞくぞくと冷たく、まるで自分自身が涙の泉になったかのように泣き続けます。しゃくりあげている背中を優しく撫でてやりながら、ゴーレムは微笑んでいました。その瞳には金色の靄がかかっていました。

 やがて、ありがとうと言った魔女の子どもの涙に濡れた顔は、まだ悲しそうでしたが、それはもう子どもの眼差しではありませんでした。少女の魔法の神秘を宿し始めていたのでした。静かな洞窟の中に、音もなく始まりの波が満ちてきました。彼女はまだ気付いていませんが、ゴーレムの時間もまた動き出したのでした。


 少しひんやりと悲しくて、でもうっとりと美しくて仄かに明るい、二人は黙ったままでも、見つめ合うだけでそのベルベットのような冷たさを分かり合えるようになっていました。

「青って、優しい色だったのね」

「そうね…」

「帰りたくないな」

「…」

「一滴、また一滴、時が落ちてくるの」

「…そうして流れるのよ」

「帰らなくちゃ」

「そうね…」

不思議な時間が終わろうとしています。少女は帰らなければならないのです。


 やがて魔女の見習い少女がペコリと一つ、頭を下げて洞窟を出ていくのをゴーレムが見送りました。洞窟の外には、一抱えもある石の亀が待っていました。その亀の背に乗って、少女はどこか寂しそうに帰っていきました。何度も振り返り、振り返り、名残惜しそうに。その星明りに白い顔と背を見守るように見送りながら、ゴーレムは初めて待ち人以外に人恋しさを感じていました。そうして、その人恋しさが一層魔導士への想いを掻き立てるのでした。それは冷たく吹き抜ける空洞のようにおうおうと瞳の奥で、胸の奥で、疼くように締め付けるように凍えとなって痛むのでした。

 涙のでないゴーレムが思わず雨上がりの夜空を見上げると、そこは一面に満天の降り注ぐような星空でした。その瞬くラピスのような夜空にミルキークオーツの河が緩やかに堂々と流れています。星々の中で、ひと際輝く青い星がありました。その星は、まるで愛おしい人を見るように、真っ直ぐにゴーレムを照らします。ピカリと、はっきり照らすのでした。


「ああ…」その光にうたれてゴーレムは分かったのです。長い時が経っていたのです。遠くからの光がやっと今、届いたのです。光の輝きがどんどん強くなっていきます。眩い光の中で、氷のゴーレムの胸の辺りがほんのりと温かくなっていきます。魔導士の悲しみが少しずつ溶けていくのです。

 そしてゴーレムの想いもまた、蒼い炎になって星に帰っていきます。夜空へすっかりと立ち昇れば、名前のない星がまた一つ生まれるのです。

 彼女がゆっくりと溶けていきます。もう、溶けることのない氷の欠片はありません。あの少女がはっきりと意味は分からなくても、引き受けてしまったからです。そうして、ゴーレムは涙のように溶けてしまいました。ゴーレムの何もかもが透き通った冷たい水になって、小さな花たちと柔らかな草たちの地面に染み込んでいきました。すると、地面の下に埋まっていた石ころが、一つ一つ宝石になっていきました。深紅のガーネットに。濃緑の緑柱石に。虹の欠片のトルマリンに。薄黄のシトリンに。銀の結晶に。ルチルの金の針に。そうして、透明な水晶になって、特別な光を放ち始めました。やがて、辺り一面の地面は見えない光で満たされました。


 朝になって、目の見えない老婆が一人、洞窟の入り口にやってきました。夢の中で、亡くなった娘が知らせたのです。不思議なことに、この老婆は他の村人たちよりもずっとずっと長生きしていました。その長い間、老婆はその見えない目で、様々なものを見てきました。

 無口な老婆がその魔法の光を見つけて地面を掘ると、たくさんの宝石が出てきました。不思議な魔法だったので、他の人が掘っても何も出ません。この老婆だけが掘り当てることが出来るのでした。

 老婆は村や困っている人たちのために宝石を使いましたので、村は大変栄えて、老婆は大変感謝され尊敬されました。遠いところからも、はるばる訪ねてくる人たちが途切れなかったそうです。そして、老婆は亡くなるまで、星空を見上げては何か語り掛けていたそうです。


おわり

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