第13話 選択の扉

扉の前で、俺は硬直したまま動けなかった。右目の痛みは徐々に引いていったが、その代わりに体の奥底から強烈な寒気が襲ってきた。目の前に現れた異次元の扉――それは見たこともない形状で、金属とも石ともつかない材質がうねるように動き、微かな音を放っていた。その音はまるで低い鼓動のように、不規則に響いている。


「これは…何だ?」


近づけば近づくほど、その扉から放たれる異質な圧力が体を押し返してくる。俺の右目がその圧力に応じるように疼き、視界が再び歪む。その先で、アザトースの声が再び響いた。


『それは、選択の象徴だ。この扉を通れば、私の力を受け入れることになる。そして、お前の存在そのものが変わるだろう。』


扉を通る。俺がそれを選ぶことで得られるもの――アザトースの力。それは一体どれほどの代償を伴うのだろう?俺はその問いに対する答えを知らなかった。ただ、心の奥に一つの疑念が残る。


「もし、この扉を選ばなければどうなる?」


『お前は私から完全に切り離される。それは、お前の右目の力が封じられることを意味するだろう。だが、その代償にお前は普通の人生を歩める。』


普通の人生。そう言われても、それがどれほど価値のあるものか、俺にはもう分からなかった。俺は既に邪神たちとの契約を結び、普通ではない道を選んできた。今更、そんな選択肢に戻れる気がしない。


だが、同時に怖かった。扉の先に待つものが一体何なのか、その全貌を想像することすらできなかったからだ。


「俺は…」


そう呟いた瞬間、背後から突然、別の声が響いた。


「選ぶのはまだ早いかもしれないな。」


驚いて振り返ると、そこに立っていたのは見慣れた執事姿の男、ニャルラトホテプだった。彼はいつものように無表情で、冷静に俺を見つめている。


「お前、どうしてここに?」


「私の役目は主を見守ることです。そして、必要であれば導くことも。あなたがこの場で選択を迫られることは、想定の範囲内でした。」


「想定…?」


「ええ。ただし、この扉を通ることが必ずしも正解ではない。あなたが選択を先送りにする権利もあるのです。」


ニャルラトホテプの言葉に、俺は一瞬考えた。確かに、今ここで即座に決断する必要があるのだろうか?アザトースの声がそれを許すのか分からなかったが、目の前にニャルラトホテプが現れたこと自体が、不思議と俺に余裕を与えた。


「もし、選択を先送りにするなら、どうすればいい?」


ニャルラトホテプは静かに微笑み、白い手袋をはめた手を扉に向けた。そして、彼が低く呟くと、扉の脈動が次第に弱まり、周囲の空間が安定していく。


「一時的に封じ込めます。その間に、あなたは自分の力を見つめ直し、アザトースの力に頼らずとも自立できる道を模索するのです。」


「それで…解決するのか?」


「解決するかどうかは、あなた次第です。しかし、少なくとも時間は得られる。それだけでも重要な選択肢でしょう。」


俺はしばらく黙って考えた。ニャルラトホテプの提案は、今の俺にとって最も現実的に思えた。まだ覚悟が足りない。この力を受け入れるか否かを判断するためには、もっと自分自身を知る必要がある。


「分かった。一時的に、この選択を封じ込めてくれ。」


その言葉に、ニャルラトホテプは静かに頷いた。そして彼が再び何かを呟くと、扉はゆっくりと消え去り、周囲の空間の歪みも収束していった。右目の痛みも、ようやく引いていく。


「これで、しばらくは安定します。しかし、次にこの扉が現れるときは、選択を避けることはできません。それまでに、あなたの心を整えておくことです。」


そう言い残して、ニャルラトホテプは再び姿を消した。静寂が訪れ、俺は一人その場に立ち尽くしていた。


「…時間を稼げたってことか。」


俺は拳を握りしめ、自分の右目に手を当てた。この力を完全に受け入れるのか。それとも、手放すのか。その答えを出す日が、いずれ必ず来る。


それまでに、俺は強くなるしかないのだ――自分自身の力で。


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