第37話 散華坂本変化須王 〜佐山響子視点〜


 真由と響子は、声が聞こえた方向の反対へと、示し合わせたように同時に飛んだ。


 着地後、乱暴ではあるが坂本と須王を、より遠くの場所へと滑らせるように投げ捨てる判断も同じ。とにかく遠ざける。


『おお、活きが良い。ええ肉じゃ』


 囁き声よりもはっきりとした、しわがれた声が響いた。


「……魔物?」


「そうよ。戦いになるのは覚悟して」


 真由の問いかけに響子は答える。


 この調子の抜けた、気味の悪い声に覚えがあった。


 早川から提供された映像の最後……。


 響子はまさかとは思いながらも拳を固め、暗闇からの声に向かって構えた。


『おお、わしの意図をくんで、丁度良いのが来ておる。見捨てられたかと思うたが、やはりここのに相応しいのは、わしという訳だ』


 そして当たって欲しくない答えが、暗闇からゆっくりと姿を現し始める。


 肉が腐った匂いが鼻に届き、びちゃびちゃと何かを垂らしながら近づいてくる足音。


 天井に自生する光苔に照らされ、浮かび上がったのは——翁の面。


 だがそれは、胸に大きな傷跡をつけ、そこから緑色の血を垂れ流す黒鬼ブラックオーガの顔についていた。


 響子は戸惑ったが、明らかにダメージを追っている様子から戦いを決断し、いつでも動けるように右足を引く。


 真由もベルトに吊るしている短刀を引き抜き、半身の姿勢に。


「真田さん。わたしが正面に立つから、回り込んで後ろに!」


 響子の声に素早く反応し、真由が背後をとるべく動き出す。


『大人しくしておれよぉ』


 真由のことは意にも介さず振りかぶられた拳が、響子へと襲いかかった。


「佐山さんっ!」

 

「大丈夫っ! 抑えたから、後ろから攻撃してちょうだいっ!」


 翁の面をつけた黒鬼の拳を、響子は両手を突き出し受け止めた。


 見た目ほどの重さはなく、この程度なら体が万全でなくとも問題はない。そのまま手首を掴み動きを阻害する。


『ぬぐぅっ……死んだ肉では権能が上手く使えぬなぁ』


「喰らえ化け物っ」


 身動きが取れない背中へと、後ろに回り込んでいた真由が飛びかかり、首筋に短刀を突き立てた。


 30センチほどの刃長が根元まで突き刺さり、背中にあいた穴へと向けて、肉を切り裂きながら進んでいく。


『ぐおおおっ』


「死ねっ!」


 真由は全体重をかけ、そのまま下へと刃を押し進め、背中についた大きな傷跡あたりまで切り裂いたところで、その背を蹴って離脱する。


 響子も掴んでいた腕を離して距離を取った。


『がああああああっ』


 咆哮が響く。そして、最後の足掻きとばかりの突進。


 響子がそれを横に飛んで避けると、巨体はそのまま力尽きるように、前のめりに倒れこんだ。


 この時、黒鬼ブラックオーガの顔についていた翁の面が、地面に激突した衝撃で取れ、横たわる坂本と須王の手前まで転がっていったが、響子の位置からはそれがよく見えなかった。


「……真田さん、魔核は砕けた?」


「……思ったより抵抗がなくて、魔核に触れたかどうか分からないの」


 魔物は魔核を砕くまで油断はできない。


 ……当然の判断で真っ先に確認すべきこと。しかしそれは、今だけは間違った判断だった。


 翔吾からの話を響子は聞いていたのだ。体から離れてもで話したことを。


 響子はその時、そのことを思い出せず、倒れ伏した黒鬼から翁の面が外れていることにも気付けなかった。

 

 そして。


『おおおっ……なんとも活きがええ、待ったかいがあったのぉ。どれ、こちらの男に決めたぞぉ』


 脳に直接へばりつくような声。


 ……響子は声の方向へ顔を向けた。


『助かったのぉ、やはり肉人形はヒトに限る。ゆっくり喰らってやりたいが、急ぎでなぁ。どれ』


 翁の面から、細い蠢くピンク色の糸が数本出て、倒れ込む須王の顔面へと伸びている。


 響子の中で最大級の警鐘が鳴った。


 アレを見過ごせば、確実に死ぬ。その予感だけが全身を突き抜けていく。


 だがそうとわかっていても、足が小刻みに震えて動けない。


 ……翁の面をつけた須王が立ち上がった。


 空気が重い。小さな体から放たれる存在感は、これまで対峙したどんな魔物よりも強く思えた。


『さて……まずは飯、の前に』


 須王、いや、今や翁の面の魔物は、顎髭をしごいて嗤うとその姿を消した。


『邪魔だから静かにしていろよ』


 響子の真横に現れた翁は、羽虫を払うような仕草で響子の腹へと掌底を送り込んでくる。


 腹部に走った衝撃を認識すると同時に体が吹き飛び、洞窟の壁へ響子はたたきつけられた。


「——っ! あっ、ぐぅ……」


 魔素濃度が高いせいで、身体能力は普段より下がっているとしても、こうも簡単に吹き飛ばされることに響子は愕然とした。


「きゃあっ!」


 真由も同じように響子の横へと壁に叩きつけられた。


『おおっ、この身体。思ったより良い力を持っておった。だが油断はいかん。それであやつにはしてやられたからなぁ。動けぬようにしておこう』


 翁が人差し指をたて、曲げる。すると、響子と真由が叩きつけられた壁から突起が隆起した。


 それは意思があるかのように、まるで触手のごとき動きで響子と真由の手首足首に絡みつく。


 触手はそのまま壁へと潜り込み、枷となって二人をそのまま壁に縫いつけてしまう。


『さて、ゆっくり食事といこうかの』


 翁は、その様子に満足したように頷くと、また姿を消し、今度は坂本の横に現れ、その体へと手を伸ばした。


「おおああああっっぅ!」


 翁の手が右肩に触れた瞬間、坂本が絶叫を上げた。


「やっ! やめっ……!」


『おうおう、痛いか? そうかそうか。せいぜい泣いておけよ、生きているうちしか泣けんのだからなぁ』 


 翁は楽しそうに坂本の左肩へと手をおきかえる。


 すると、坂本の左肩が崩れて


「ぎゃああああああぅっっ!」


「ふはははははっ! もがけっ! もがけっ! 染みるぞぉ! 紛い物の魔物どもではいまいち回復できんからなぁ!」


 千切れそうな左腕を抱えて、のたうち回る坂本を、翁は嗤いながら見ている。


 響子はそのおぞましさに震えた。


『ううむ、資格ありではあるがやはり薄い。まあ権能は前よりも取り戻せた。どれどれ、もう道を開いておこうかのぉ……よし。開いた。さて、濃いのを頂く前に薄味で腹ごなしじゃ』


「ああああっ 助けっ、かあ、さっ、ん——」


 翁が坂本の頭に触れ……絶叫が唐突に消えた。


『おおおっ、良い加減で満ちる。ここまで取り戻せば、あやつにも遅れはとらんが、どれもう少し』


 翁はおもむろに、首のない死体の脇を持って天へと掲げた。


『味気はないが、最低限の資格はあるだけあって、滋味深いのぉ』


 死体がみるみると崩れて消えていく。


 響子は泣き叫びそうになるのをひたすらに耐えた。


『さてさて、これで前以上。あとは……どちらから楽しもうかぁ』


 翁は響子と真由を見定めるように交互に見つめた。


『んー? 気の強そうなのは面白くないのぉ……こちらからか』


 翁はつまらないとでもいう様子で真由から視線を外すと、響子へと近寄る。


『心配いらぬ、殺しはせん。胎の役目もあるから血も出さぬし、手足を捥ぐ程度じゃからの。さあ、あやつが来るまで、いい声で哭いてくれよ』


 死を前に、響子の胸の内には後悔ばかりが浮かんだ。こんなことなら翔吾へとはっきりと伝えておけば良かった。


「翔吾くん……」


 後悔ばかり残して死ぬ。こんなところで……。


 諦めかけた響子の右肩へと翁の手が伸びて——触れる直前。


『ぬぐぅっ!!』


 翁がその場から吹き飛んだ。


「響子さんっ!」


 響子の耳に届いた声。


 それは今、一番聞きたかった男の声だった。



 


 

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