第32話 黒い不定形


「なんだよあの黒いのはっ!」


 神崎がうるさくがなりたてる。だが翔吾の視線は4メートルの高さにある天井にできた、黒い穴から動かない。


 首筋に感じる悪寒はそれほど強くはないが、以外で味わう感覚。


 腹の奥底からチリチリとした焦燥感が迫り上がってくる。


「おいっ! 聞いてんのかっ! なんだよあれはっ!」


「わからない。でも良いものじゃないのは確かだ」


「おまえ……」


 翔吾の冷え切った声と戦いへと切り替わった表情に、神崎は言葉を一瞬詰まらせた。


「セーフエリアに下がるんだ。全員、外に出ないようにいってくれ」


「……はあ? なんでお前が決めるんだよ!」


 翔吾の命令口調に神崎は反発を覚え、いきりたって返した。


「ここで俺だけで戦う。あの穴の中にいる魔物は俺じゃないと対応できない」


 まだ姿は見えないが、翔吾の直感はそう告げている。


「なにを言ってやがる? 寝ぼけるのも——」


 いい加減にしろと最後まで続けずに、神崎は後ろへと不自然に飛び退いた。


 吹き飛んだともいう。


 問答をしている間がないと、翔吾がスキルで神崎を怪我がないよう柔らかに包み、セーフエリアに向けて押し込んだのだ。


「響子さん! 神崎を抑えておいてくださいっ!」


「了解!」


 翔吾はセーフエリアから顔を出し、こちらを覗いていた響子へと声をかけ、神崎のことは一旦頭から追い出す。


「……きた」


 天井の黒い穴から、粘度の高い液体を垂らしつつ、どちゃりと地面にぶつかり現れたのは、黒い不定形スライムらしきもの。


 翔吾の前方5メートルで蠢きだした。


不定形スライム……だよな?」


 資料で見た赤や緑色でもなく黒。黒い穴と


 サイズも本来は拳大のはずが、軽自動車ほどの大きさだ。


 翔吾は戸惑いながらもスキルを使い、自身の前方へ不可視の壁を構築した。


 単にスライムであれば、半透明の体の中に浮かぶ魔核を狙って砕けばいいが、相対する相手の魔核は、黒い体のせいでどこにあるかわからない。


 スライムは攻撃を当てた際に一撃で魔核を壊さないと、体を分裂させて増殖する性質がある。


 闇雲な攻撃は悪手だ。まずは防御を固め、相手の出方を探りつつ魔核の位置を、いや、いっそのこと……。


 翔吾が思案していると、まずは挨拶とばかりに、やや尖った先端をもつ触手が3本、黒い不定形スライムから飛び出してきた。


 翔吾のスキルに黒い触手が衝突する。


「よしっ」


 不可視の壁は、触手の先端を受け止めびくともしない。


 どちらかというと、相手を刺すというよりも巻きつき捕える為の手段のようだ。


 ……この程度の攻撃なら壁が壊れる事はない。思いついた案が可能だ。


 翔吾は考えた策が上手くいくと判断し、すぐさま行動に移った。


 壁に弾力を持たせて包み込み、少しずつその圧力を高めていくことでの圧殺狙いだ。


 

『ぎぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっっっ!!』


 不可視の壁で一気に押し包むと、不定形スライムから甲高かんだかい獣のような叫び声が放たれる。


 押し寄せる圧力に悲鳴を上げているようだ。


 翔吾は右手を開いて突き出し、ゆっくりと握り込んでいく。


 上手く球状に隙間なく包み込めた。もう逃げ場はない。


『ぎゃぁぁぁぁぁぉ——』


 あまりにもうるさいのでさらにもう一重、スキルを重ねて音を遮断する。


 耳障りな音が消えて快適になったところで、翔吾は握り込む力を更に増していく。


 小さく縮んでいく黒い球体は空中に浮かび、その表面は沸騰したように泡立ちはじめた。


「これで死ねっ」


 気合いと共に拳を強く握り込むと、球体はテニスボール程のサイズにまで一気に圧縮され、パキンと乾いた音が耳に届く。


 確かな手応えを感じた翔吾が手を開くと、球体から黒い液体がドロリとこぼれ、黒い水たまりを地面に作った。


 首筋を走る悪寒が消える。


 翔吾が天井を睨みつけると、黒い穴が閉じていった。


 しかし経験上それを喜べる訳もなく、注意も解かない。


 周辺に魔物の気配がないかを探る。


「ないな……。でも場所は違っても、この間ともしも同じなら、1時間もすればまた……。よし、出よう」


 今のうちに退避するのが、どう考えても賢明な判断だ。


「中村くんっ!」


 考えが纏まると同時に、背後より声が聞こえる。


「響子さん、神崎は?」


「今は真田さんが抑えているわ」


「そうですか。試験はここで辞めても問題ありませんよね?」


「ええ、大丈夫よ。合格はもらえるはずよ。神崎は分からないけど……出るのね?」


「はい。出るはずのない、しかも新種らしき魔物がいる。これだけで十分な撤退理由だと思います」


「いい判断だと思う。一応全員の意思確認と併せて試験側への連絡も必要だけれど」


 響子がセーフエリアの奥へと視線を向けると、その中からちょうど須王が現れた。そして坂本、真由に脇を抱えられた神崎もだ。

 

「聞こえたよ。僕は賛成だ。色々聞きたいことはあるけど、まずはあんなのがまだ出るかもしれない場所にいるのは良くないと思う」


 真剣な表情の須王が翔吾へと頷きを返す。


「同じ意見だ」


 坂本も同意した。


 翔吾は真由へと視線を向ける。


 真由は神崎の腕を抱えながら、スライムがとなった場所を見たまま黙っていた。


 翔吾が声をかけようと口を開く。


「真田さ——」


「——俺は帰らない」


 が、遮るように神崎が反対意見を口にした。


「離せよっ」


 真由の腕を振り解くと、神崎は翔吾を睨みつけた。


「お前らはいいかもしれないが、俺は満点評価取らなきゃダメなんだよ。イレギュラーが起きた程度でいちいち帰ってられるか。それにあと5、6時間程度だぞ?」


 神崎が試験撤退は許せないと主張する。


 合格すら危うい自分の立場を、理解していないようなその主張内容もだが、ぎらついた視線で息も荒く、わかりやすいぐらいに興奮していて、とても正常な様子には見えない。


 翔吾は望みが薄いと分かっていたが、一応、神崎の説得を試みた。


「……違うんだ神崎。ここにいるのはまずいんだ。信じてくれ」


「そもそもっ! 呼び捨てにしていいなんて言ってねぇぞっ!」


 神崎が翔吾の胸ぐらに掴み掛かった。


「本当なんだ。頼む、信じてく……おい……まさか、嘘だろっ?」


 神崎の剣幕に動じることもなく、翔吾は説得を続けようとしたが、視界の端に映った光景に嫌な記憶を呼び起こされる。


 慌てて下を見た。

 いつのまにか黒い液体が……足元に広がって。

 

(そうだこの色……同じ色——ダメだ——体が


「なっ?!」


「うぁぁっ!」


「翔吾くんっ!」


「助けてっ!」


 悲鳴と助けを求める声を翔吾の耳が拾う。


 その最中さなか


『お前。お前だぁ。お前に会いたかったぞぉ』


 暗闇に沈んでいく翔吾へと、語りかけるような声が響く。


 翔吾は音がなるほどに歯を食いしばった。


 この声を忘れられる訳がなかった。








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