第4話 死にたくない
天井から放たれる光苔の輝きが、翔吾の顔を照らす。そのまま5分程経過してから、ようやく翔吾は自失から我に帰り、口を閉じた。
ここがどこなのかわからないが、自分はなんとか生きている。そもそもあんな高いところにあった穴に、どうやって戻るつもりだったのかと自嘲しながら翔吾は足を動かそうとした。
が、重い。思った以上に足が動かない。
考え出すときりがない不安は胸に閉じ込めたものの、足には伝わっているようだ。
こんな時、翔吾はどうすればいいか知っている。一年以上の課内での疎外が皮肉にもそれを教えてくれていた。
その場で深呼吸をする。
——今は何も考えるな。帰ることだけ考えるんだ。不安に呑み込まれるなと、自らを騙すように言い聞かせる。
「ふぅー」
ほんの少し軽くなったように思える足は、どうにか一歩目を踏み出した。
そのままゆっくりと進みながら辺りを見渡すと、ここが洞窟内にある湖のような場所だと翔吾は理解した。
それにしても広い場所だ。
やや楕円形に広がる水面。翔吾のいる場所から対岸までは百メートル程度もある。
澄んだ水面にはちらりと魚影。
生物の気配は翔吾の足を、また少しだけ軽くする。
翔吾は歩きつつ、ここから脱出する手段を考え、すぐに答えに達した。
それは、
ダンジョンには、殆どと言っていいほどあるとされているものだ。
渋谷ダンジョンにはなかったが、もしかして自分が落ちてきたここがそうかもしれない。
翔吾はそうに違いないと考え、湖岸を進む。
そして対岸へと切り替わる位置あたりに、横穴があることを視界に捉えた。
近くづくと、横穴は人が三人で並んで歩けるぐらいの幅があることがわかった。
だがいまの場所と比べるとかなり暗い。
見えないわけではないが、進むのはためらってしまうほどだ。
「他に進める場所はない……か」
湖の周辺を観察するが他に道らしきものはない。
下を向いて考えこむ翔吾は、はっと思い出したように
遭難時の基本である、緊急信号の発信が出来ていないことを思い出したのだ。
だが様子がおかしい。
「……壊れたのか? うそだろ?」
緊急信号が発信されると、
「操作を間違えた? そんなはず……」
独り言にしては大きな声が出てしまう。操作マニュアルは暗記するぐらいに読んだし、間違いがないと自信があったからだ。
WDをさらにタップし画面を切り替える。
「音声操作切り替え、現在地点及び信号発信状況」
『現在地点は渋谷ダンジョン地下533階です。緊急信号は送信されていますが、管理局よりの応答反応はありません。従って日本国ダンジョン法第十条三項、緊急時総則により、配信回線経由に切り替え緊急信号を発信中です』
クリアーな音声から聞こえる、意味不明の内容に翔吾は戸惑った。
渋谷ダンジョンは地下3階まで。地下533階なんて人類が到達した世界最高深度階層の地下108階を飛び越えすぎていて、デバイスがエラーを起こしているとしか……。
そもそも一息にそんな階層まで潜れば、深度ごとに濃度が増えていく魔素に耐えられるはずもない。
それに配信回線もハンターが使用するための回線で、ハンター登録しないと使用出来なかったはず。緊急時は使用できるなんていう法律も今初めて聞いた。
やはり
けれどWDは、日本が世界に誇る企業である【遠藤重工】が技術の粋を集めて開発した世界最高峰のアイテムだ。
魔物との戦いでも破損しない頑強性に、防水性能まで備える。気中の魔素を動力とし、ダンジョン内であれば半永久的に動作する代物だ。
それが壊れたという話もあまり聞いたことがない。
翔吾はWDの基本的な動作を確認するが、問題はなかった。
「動いてはいるんだよな……とりあえずはいいいか」
今は理由を考える余裕もない。それよりもすることがあると、翔吾は首を振って気持ちを切り替えた。
「せめて
半径百メートルにまで近づけばWDは
根拠はないが
というより、あってくれないと……。
翔吾は祈るような気持ちで横穴に踏み入った。
◆
横穴はどこまでも伸びていた。
その中をゆっくりと翔吾は進んでいる。空気は湿ってはいるが澱んではいない。耳をすませば風音がかすかに。……どこかに繋がっている証だ。
歩みを進めるに値する情報に、やや足取りが早まるのをこらえ、足音を殺し歩く。
ここは渋谷ダンジョンらしいが、聞いたこともない階層。
進む先に魔物がいるかもしれない。もしそうなら……気付かれたらお終いだ。
翔吾は注意深く進む。
そのまま二百メートルほど歩くと、道が大きく左に曲がり、分岐が現れた。
直感的に右へと進路を取り、更に先へ。
やがて開けたエリアが視界に飛び込むと同時に————息を止めた。
(嘘だろっ……!)
声を出さず、足音も小さくして進んでいたのは正解だった。
魔物と呼ばれる存在がそこにいる。
二足で立つ人型。薄暗い視界で僅かにみえた灰色の体色。粗末なボロ布を腰に巻くそれは、何かを咀嚼しているようだ。
くちゃくちゃ、ぴちゃぴちゃとなる小さくも不快な音に翔吾は顔をしかめた。
(……
焦ってはいけない。まだ距離はあるし、向こうからはこちらは見えず、気付かれてもいない。足音を立てずそのまま静かに
だが唐突に止んだ咀嚼音が、殺しきれていない足音をことさらに強調し——
赤一色に染まる眼球。笑っているかのように弧を描く口元。乱杭歯には血が滴り、毛が絡みついている。
右手に持っているのは何かの首。人の頭の形をした首だ。左手には細身の刃物を握っている。
『グギャギャッギャッ』
人間でいうなら笑い声。愉快な声色が
「えっ?」
翔吾は事態を飲み込めず、腰が引けた体勢で間抜けな声を出した。
十メートルは離れていたはずの
「うああああああぁぁっ!!」
翔吾は走った。
『グギャギャギャッッ!!』
本能が告げるまま、足を動かし死ぬ気で走った。
『グギャッ!』
愉悦を含む鳴き声が翔吾の耳にまとわりついた。
すがる思いでデバイスをタップする。
「た、たのむよっ!
『渋谷ダンジョン地下533階のマップは作成されていません』
意味のない答えに力が抜けそうになるのをこらえる中、ふいに耳が、ヒュンという風を切る音を拾った。
トスっと小気味の良い音がして——
太腿に激痛が走り——転倒。
咄嗟に手で庇い、頭を打たずに転がることができたものの、手の甲は皮膚が岩肌ですりおろされて、血が滲み出ている。
そして手とは別に、右腿に感じる痛みと妙な熱さ。
作業着が濡れている感触は失禁したわけではないが、どうして濡れているのか確認する勇気がない。
「いやだっ! 死にたくないっ!」
どうして、俺がこんな目に。
こんな訳もわからず死ぬなら、いつも通りの作業をなんとかこなして、それしか出来ない能無し扱いで良かった。
「母さん……ごめん」
『特殊波長を検知。スキルを獲得しました』
死を前にした翔吾は、
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