第16話

 クロエがビル・ダグラス警部から調査協力の承諾を得て、事務所に帰ってみると、もう午後をすぎていました。クロエは、その日はリトル・ハダムの村には、行きません。

 

 クロエは事務所の机に脚をのせ、帳簿を見つめています。

 少女は、今回の調査で、ここまでにかかった経費を勘定します。


 えーと、街と村の往復運賃が2シリング。アプリコット・パイが4ペンス……あれは本当に美味しかったなー。えっと、それから、子供たちに配ったチョコレートが1ペンス……まって、あのチョコレートはわたしの私物……。これは帳簿に付ける必要があるの? んん? どうなのかしら?


 事務所の扉が開きました。ドアチャイムが乾いた金属音を奏でます。


 ウィル少年でした。


「やあ、ガーネットさん」


 クロエは、前回のようにあわてて姿勢を直すのではなく、ゆっくりと机から脚を降ろします。


「あら、わたしに会うために、こんな遠くまできたの?」

「いや。今日は街の求人掲示板をみるために、ここまで来たんだ。せっかくだから、この事務所にも寄っていこうと思って」

「そう。いいお仕事はあった?」

「イワシ漁の期間乗組員っていうのが、よさそうかな、と思ったよ」

「あら、なかなか稼げそうじゃない」

「うん」


 クロエは接客用のソファを指さします。


「座ったら?」

「いや、そんなに長居はしないから。調査のほうはどうだい?」


 クロエは丸く愛らしい瞳を上に向けます。


「んー、そうね。万事順調!ってほどでもないけど、前には進んでるわよ」

「そうか。よかったよ」


 クロエは、ウィル少年の顔をじっとみます。少年は〝そうか。よかったよ〟という表情はしていませんでした。なんとなく顔には血色がありません。目つきは、傷を負った蝶々のように弱々しいです。唇は、何かの痛みを我慢しているかのように引きつっています。


 クロエは低い声で言います。


「ウィル」

「なんだい?」

「なにかあったのね?」


 少年は、顔をがくりと下げ、チーク材の床を見つめます。


「そのね、母さんがもう何日も食事を摂らないんだ。頬がこけてきたよ。口もまったくきかない……目つきも、死人のように、うつろだよ……」


 そこで、ウィル少年は、がくりと床に膝をつきました。

 少年はだらりと顔をさげて、しばらくの間、黙っています。

 そして、ウィル少年は泣き出します。

 

 肩を震わせて涙を流す少年の姿を見るクロエは思います。


 この子はずっと我慢してきたのね……。つらかったろうにね……。


 クロエは、少年にちかづき、自分も床に膝をつきます。

 クロエ・ガーネットは、少年をやさしく抱擁します。見た目以上に小さく痩せた体だと思いました。

 腕のなかで、悲し気に揺れる少年の体を感じながら、クロエは耳元でささやきます。


「だいじょうぶ……わたしが、なんとかするから。ねえ……泣かないで……だいじょうぶよ……」

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