第2話

 4月の暖気が蝶のように舞う朝のこと。少女クロエ・ガーネットが住む下宿の建物は、キツネ色の陽光にてらされていました。

 下宿の中のダイニングで、クロエは丸く可愛らしいオーク製の椅子に座っています。朝食はさげられていましたが、ダイニングにはまだ、食事のなめらかな香りがただよっています。

 クロエは朝食後の楽しみの、はちみつ入りホットミルクが小さく波打つカップを眺めています。

 彼女は丸く小く可愛らしい鼻で、ホットミルクの香りを楽しみます。湯舟からでたばかりの赤ちゃんのような優しい匂いがします。


 ダイニングの隅にあるキッチンでは、下宿の女性主人、アークエットさんが、調理器具やクロエが平らげた皿やらを陽気に洗っています。


 アークエットさんはクロエに言います。


「クロエ、あなた25日の蒸気自動車発表会には行くんでしょう? 宮殿前の大公園で開かれる、あの発表会よ。なんでもね、小型車なのに5人も乗れるんですって。蒸気機関の力って、すごいものよね」


 クロエはやわらかい湯気をあげるミルクのカップから目をはなして、そっけなく答えます。


「わたしは、いかない。蒸気自動車なんて、もう珍しくないわ。週に1台はかならず見るもの」


 アークエットさんは皿を洗う手を休めずに言います。


「あのね、クロエ、ほんとうに大事なのは蒸気自動車じゃないの。こんどの発表会にはね、貴族の若い殿方や、お医者の卵、そして、いずれは会社の重役になる男性たちも大勢、見物にいらっしゃるの。あなたは、もう16歳。そろそろ結婚のことを考えて、魅力的な交際相手をみつけてもいい頃なのよ」


 クロエは人差し指の先で、カップをこつんと叩いて言います。


「わたし、男の人に興味ないし、結婚にも興味ない」


 アークエットさんは、布巾で食器を拭きながら言います。


「いつまで、そんなこと言ってられるかしらね」


 そのときでした。下宿ドアの向こうから、年配の男性の声が聞こえました。


「おーい、クロエちゃん、行くぞー」


 いつも下宿までクロエを迎えにきてくれる、農家のトムソンおじいさんです。


 クロエは、家のそとに向かって言います。


「いま行くわー」


 そう言うと、カップにふーっと息を吹きかけ、ミルクを2口、飲みました。


「アークエットさん、ミルク残してごめんさない。いってくるね」


 アークエットさんは、クロエのほうに顔を向けます。ひまわりのように明るい声で言います。


「はい、いってらっしゃい。今日もいい一日になるといいわね」

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