第四章 1

                   1



 雨月も、半ばである。

 雨季は、砂漠にとっては重要な季節だ。水は貴重な資源だからである。

「王城には大樹からこんこんと水が湧き出てるから不足することはないけど、城下は井戸だものね」

 ロスとラスにそんなことを言っていると、宰相がやってきて国王の執務室に来るよう告げた。

「雨季の儀式を執り行う。日神教でも一番重要なものだ」

 ギリアドの真剣な顔に、アリシアも思わず緊張した。

「そなたには少し厳しいものとなるが、やってもらいたい」

「厳しいもの?」

 雨季の儀式の巫女は、五日間絶食しなければならない。そしてそののちに冷水で身を清め、太陽神の舞を舞って祈りを捧げ、火を焚いてその上を裸足で歩いて渡るというものだというのである。

「裸足で……」

「無論、燃え盛った炎ではない。埋火うずみびの上だ」

「集中していれば大丈夫だったと、歴代の妃殿下はおっしゃっています」

 平気な顔をして、ザイオンが横から口を出す。

 それはともかくとして、五日の絶食の後で舞を舞うなどという芸当は可能なのだろうか。 思わず考えていると、ザイオンが畳みかけるように言った。

「舞の稽古をしていただきます。日にちは、もう決まっておりますのでな」

 仕方なく返事をして、執務室をあとにした。

 儀式の間に行き、神官たちに舞の振り付けを教わった。

 扇を二枚使った、龍神を呼び寄せる複雑なものであった。

 月神教の私が、そんなことをしていいものなのだろうか。舞を踊ること自体に、疑問はない。しかし、以前の時のように、また市井からそのような声が上がっても不思議ではないのだ。

 しかも、日神教で一番重要な儀式だというではないか。

 ギリアドは日々支援していれるだけで、なにも言わない。自分が巫女を務めることになにも思っていない、いい証拠だ。

 それを励みに、アリシアは難しい舞の振り付けを懸命に覚えることだけを念頭に日夜過ごしていった。

 体力も蓄えておかなければならなかった。五日間絶食ののち、こんなに激しい動きをしなければならないというのだから、今の内に鍛えておかなければいかない。

 試しに一日なにも食べないで舞を踊ってみたが、鉄の扇を二枚持って上下に大きく振り、それを宙に放ってその間に地上で三回くるりくるりと回って落ちてきた扇を背中で受け止めるという大技はなかなかに難しいものだった。身体が思うように動かず、足がもつれた。

 こんなことで、五日も絶食して舞が踊れるのだろうかと青くなった。

 不安になって神官長に思わず相談すると、彼は笑顔になってこんなことを言った。

「歴代の王妃様方は、だいたい直前になって三日間の絶食をして練習なさいます。そして、五日間の絶食と言いますが、実はその間にお粥を召し上がっているのです。そうでもしないと、とてもとてもあんな舞は舞えないからです。ですから、心配なさることはありませんよ」

 よかった、とちょっと安心して、それからも舞の稽古に没頭した。相変わらず振り付けは難しく、特に足の型に独特のものがあり、龍神の足跡を真似るのに一定の型をたどらなくてはならず、それと扇の形、手の形を合わせるのには苦労した。

 そうして、儀式の日がやってきた。

 いくら五日の間にうすいお粥を食べているとはいえ、それ以外は口にすることはできない、便宜上は絶食をしている身柄であるから、アリシアはふらふらであった。

 侍女に特別な白い巫女の服を着せてもらい、祈祷を受け、身も心も凍りつくような冷水を浴びて、いよいよ龍神の舞である。

 銅鑼と鉦、鈴が鳴らされ、巫女がしずしずとやってくると、その荘厳なたたずまいに月神教の女め、と罵る声も思わず飲み込まれる。

 しかし民衆の彼女を見る目は冷たく、その一挙手一投足には、厳しい視線が注がれた。 指先が少しでも間違おうものなら、その場で断罪してくれようと彼らは今か今かと待ち構えていた。

 笛の音を聞きながら、アリシアは神経を研ぎ澄ませる。おなかがすいた。めまいがする。

 鉦が鳴る。鈴が振られる。あ、ここから二枚扇。足型は、斜め。龍神は、眠っている。

 ここから、龍神は片目を開ける。そして鈴が鳴る。扇が開かれる。笛が、するどくひらめく。

 龍神の両目が開いて、扇が二枚開く。足型が乱れ、腕が大きく開かれ、指が組まれる。

 扇は背中に回され、宙に舞い、踊る。私はそれを華麗に受け止める。両足を開いて、受け止める。ああ、くらくらする。

 ここから、龍神が荒ぶる。空には分厚く黒い雲が垂れ込め、雷が鳴り、雨が降る。

 私は扇を投げ、その鉄の扇はひらひらと宙を舞い、その間に私は地上で三回転する。

 そして私は落ちてきた扇を背中で受け止め――

 終わった。

 楽の音がそれと同時に止まった。

 アリシアは鉄の扇をぱちりと閉じて、しずしずと礼をし、そのまま祭祀長である王の元へ行った。

 そこには、儀式が始まる前から焚かれていた火が、今はもう埋火となって消えようとしていた。

 アリシアはそこに、迷いなく入っていった。

 大丈夫、大丈夫。熱くない。平気。

 歴代の王妃様たちは、入っていった。私もきっと、平気。

 アリシアは空腹と疲労でふらふらになった頭でなんとか考えながら、炎のむこうにいるギリアドを見つめてそれだけを思っていた。

 あのひと目指して、歩いて行けば。

 本陣のなかにそっと裸足の足を踏み入れて、アリシアは歩きだした。

 じり、じり、と、火が足を焼いた。不思議と、熱くはなかった。

 おお、と大衆から声が上がった。

 この日、とうとう月神教のくせに、という声は、上がらなかった。



 七番目の月、空待月が半ばになってきた。

 この頃になると、来月の国王の命名日の祝いの日の準備のために国内でも気運が高まっていく。

 その日は公休となるし、国王は朝から狩りに出かけていくというのだ。

「別にそんなことはせずともよいと思うのだが、これも大切な祭祀の一つだ。せねばなるまい」

 国王が最初に狩った獲物は太陽神に捧げられ、その血で円陣を描くことにより来年の狩りの行方を占う、大切な儀式となるのである。

 アリシアはヤスミンに刺繍を習い、空待月の頃からせっせと縫い物をしてその日に備えてきた。

 そして、青白月の十日がやってきた。

 国王の命名日である。

 いくつもの酒樽が開けられ、食堂には人がひしめき、花びらが空を舞い、踊り子が通りで踊り、肉が焼かれ、喧嘩があちこちで起こった。

 王城でも、狩りのための支度とそのあとの儀式、宴の準備とおおわらわだ。

 ギリアドは顔に太陽神の徴を描き、手に弓矢を持ち、厩舎に赴くところである。

「ギリアド様、これを」

 アリシアは朝から忙しい彼をなかなかつかまえることができず、見つけることはできてもやれ着替えだのやれ儀式の支度だので声をかけることができずに、馬の準備をしているところをようやくとらえて、声をかけた。

「どうした」

「これ、お守りに」

 アリシアはおずおずと持っていたものを差し出した。

「ヤスミン王女に教えてもらったんです。砂漠では、狩りに行く男の方に女が自分が刺繍したお守りを渡すって」

 それは、日神の護符を刺繍した白い糸と金糸で刺繍した帯革留めだった。

「よかったら、付けていってください。馬から落ちたりしないように、流れ矢に当たったりしないように」

 ギリアドは微笑んだ。

「そなたの心遣い、嬉しく思う。使わせてもらうぞ」

 そう言って肩の帯革にそれを付けて、勇ましく騎乗した。

「行ってくる。今宵は太陽神に捧げる獲物もあるが、そなたにも狩ってくる」

「ご無事に帰られますよう」

 アリシアは胸の前で手と手を組んで、走り去っていく馬を見送った。自分にできるのは、待って祈るだけだ。

「王妃様、お支度をしましょう」

 ヤスミンが呼びに来た。

 自分たちも、その間にすることが山のようにある。アリシアはうなづいて、王城のなかに入っていった。

 砂漠の狩りは、危険がいっぱいだ。

 蠍や毒蛇が砂のなかに潜んでいるし、砂の地に獲物が多いとはいえないからだ。そのなかから狩りをして太陽神に捧げる行為こそが、最も尊いとされてきたのである。

 ギリアドは昼前に側近たちと共に大きな山羊を二頭狩ってきた。それに、鳥も。

 王城では山羊を生け贄に捧げ、その血を聖杯に注ぎ、円陣に入れ、そののちの儀式と、大忙しの運びとなった。

 無論、王妃であるアリシアも巫女としてそれに参加せねばならなかった。この儀式は国民には公開されないので、前のような騒ぎにはならなかった。

 そして昼食を取る間もなく、夜になれば今度は宴である。

 暗くなれば花火が上がり、ご馳走が運ばれ、酒が振る舞われ、国王は属国のあらゆる国王たちからの祝いの言葉や献上品や見参ににいちいち応えねばならなかった。なんとなれば、それらの数は五十二もあるのだから、対応する彼からすればうんざりするほどのものであった。

 宴が終わる頃には、夜中になっていた。

 普段無表情でむっつりとしているギリアドもこれにはさすがに疲労の色を隠せず、疲れた顔色をしているのに、アリシアは気づかわしげに声をかけた。

「ギリアド様、大丈夫ですか」

「大事ない。あとはもう、眠るだけだ」

「あの、ギリアド様」

「なんだ」

「私から、お渡しするものがあるんです」

「なに?」

「命名日の、お祝いに」

「明日では、だめなのか」

「今日の、今だからこそ意味があるんです」

 アリシアは、普段わがままを言う女ではない。疲れている自分が暗に明日にしたいと言っていても、今がいいということは、よほどに今日がいいのだろう。

 そう思った。

「見せてみろ」

「ここでは、だめです」

「なんだと」

「ついてきてください」

 アリシアは笑顔になって、寝室を出た。

 ギリアドはため息をついた。既に疲労困憊で、すぐにでもベッドに身を投げ出したい気分である。歩く気力など、なかった。

 しかしアリシアはそんな自分の気など知らぬかのように鼻歌まで歌ってずんずん前を歩いていく。仕方なしに、どこへ行くのかと聞く気にもなれずに後をついて行った。

 回廊を行き、中庭を抜け、角を何度も曲がって、だいぶ寝室から遠ざかってきて、一体どこへ行くつもりなのだろうと思っていると、彼女は見覚えのある扉の前でぴたりと止まった。

「ここです」

 アリシアは笑顔で言い、さっとその扉を開けた。

「――」

 一陣の風が、吹き抜けた。

 ふわり、花の香りが漂った。

 そこは、ギリアドがアリシアのために贈った庭園だった。

「さあ入ってください」

 なかには卓と椅子が設えられていて、香茶の支度がされていた。

「……これは……」

「リッテンバウムでは、身体が疲れた時にこの香茶を飲むんです」

 さあ座って、と言われ、ギリアドはまだわけがわからぬままにそこに座った。

 アリシアが茶器に湯を注いだ。香茶ができる間、彼女は言った。

「夏のお花、咲きましたね」

 言われて、ギリアドはつられたように周りを見た。

 薔薇、百合、立葵、池には水連が咲いている。

「ああ……忙しくて、花などに目を向ける暇≪いとま≫がなかったな」

「みんな、暮らしぶりがよくなったって言っています。王様のおかげだって」

 しばらくして、つん、とかぐわしい香りが立ってきた。アリシアが茶器に香茶を注いだ。「さあどうぞ。リッテンバウムから取り寄せました。夏の一番茶です」

 ギリアドはさわやかな芳香を放つ金茶色のその香茶をそっと口にした。

 肉体の重さが取れて、身体が軽くなったような気がした。

「どうですか?」

「……心が軽くなったようだ」

 アリシアは笑顔になった。

「よかった」

 ギリアドにもう一杯注ぎながら、アリシアは尚も言った。

「ねえギリアド様、私にはこれくらいしか、できないんです。ギリアド様の命名日のお祝い。ギリアド様がお疲れの時に、それを休めて差し上げられることくらいしか」

「なにを言う。この一杯で、私は充分休息できた。なによりの贈り物だ。千金にも勝る」 なによりも、この微笑みが近くにある。ギリアドはアリシアを引き寄せた。

「そなたとこうしていられることが、私にとっては褒美なのだ」

 そしてその身体を自分の膝の上に乗せた。

 夏にしては涼しい風が吹いて、二人の長い髪を揺らめかせた。



 近衛隊が出征することになった。

 遠く、属国を襲う蛮族を成敗するための戦いであるという。そのため宮殿内の兵舎では物々しい雰囲気に兵士たちが歩き回り、侍女も女官たちも忙しく立ち歩いた。

 国王も宰相も、しばらくはなにやら忙殺されていたようである。

 アリシアも、毎晩寝室に遅く帰ってくるギリアドを案じた。

 いざ近衛隊が出立するその朝、ランスロットに声をかける者がいた。

「あ、あの……ランスロット隊長」

 その声に、ランスロットは振り返った。

 ヤスミンであった。

「これは、ヤスミン王女」

「これから出征なさるのでしょう」

「はい、間もなく発ちます」

「あの、もしよろしければ、これを」

 ヤスミンは持っていたものをおずおずと差し出した。

 それは、複雑な刺繍の施された、護符であった。

「私の国の、お守りなんです。これを持っていると、傷を受けないといわれています」

 ランスロットはそれを受け取って、しげしげと見つめた。

「これは……死ねませんね。必ず生きて帰ります。ありがとうございます」

 隊長、とあちらから声がかかった。それに顔を向け、返事をして、

「私は行かねばなりません。では」

 と言い置き、ランスロットは行ってしまった。

 泣きたくなる思いを必死で抑えて、ヤスミンはそれを見送った。

 ランスロット様。どうかご無事で……。

 目指す属国までは、馬で二週間程もかかる。

 現地では殺人と強姦と強奪が日常的に行われ、目も当てられない有り様だという。十四日の予定を十日で到着し、ランスロットは現場に到着するとすぐさま部下たちに命令を下した。

「第一隊は市民の安全を確保しろ。第二隊第三隊は街路の隔離、その他は私に続け」

 斬りかかってくる敵を立て続けに切り倒し、ランスロットは返り血を浴び続けた。

 時間を忘れて戦い続け、日が昇り、また沈み、どれだけ戦ったかもわからなくなった頃、気がついた時自分と味方は袋小路に追い込まれていた。

「隊長、後がありません」

「わかっている」

 ぎり、と奥歯を噛んだ。

 敵が、それを見て不敵に笑っている。

 それを睨みながら、ランスロットは絞りだすように言った。

「お前たち、逃げろ」

「は?」

「奴らは私が引きつける。その間に突破しろ」

「しかしそれでは隊長が」

「部下の命を助けるのも隊長の任務だ。ぐずぐずしている暇はない。行け」

「ですが」

「行け」

 部下が反論しようとする前に、ランスロットは気合いの一斉と共に敵の陣中へ走って行ってしまった。敵はそれに、釘付けになった。

 それで陣形が乱れて、近衛隊の多くが助かった。

 しかし、敵を一人で引き受けたランスロットは重傷を負った。彼はエリモスに運ばれ、宮殿の救護室で処置を受けた。

 その話はヤスミンにも伝わった。

「えっランスロット隊長が大怪我を?」

「救護室で手当てを受けているそうよ」

 アリシアに言われて、ヤスミンは廊下を走った。

 救護室に行くと、全身包帯だらけの、見るも無残なランスロットの姿がそこに寝かされていた。

 ヤスミンはぽろぽろと涙を流しながら、彼の側に座った。そこにいた医師が、

「生きているのが不思議なくらいの傷です。よく助かったものです」

 と首を振りながら言った。

 側には彼の剣や鎧が置かれていて、そこにはヤスミンの渡した護符もあった。涙が止まらなかった。

 次の日から、ヤスミンは足繁く救護室に通い、ランスロットの看病をした。まめに包帯を取り替え、膏薬を塗り、傷の具合を見た。あまりに包帯を巻いていると傷が化膿してしまうので、適当に風を送らなくてはならず、風通しをよくすることも忘れなかった。

 傷が疼くのか、ランスロットはよくうなされた。また、譫言≪うわごと≫らしきものもよく言った。大抵それはよく聞き取れず、もごもごとしているに留まった。

 また彼は、よく高熱を出した。そうすると汗が出て、包帯をすべて取り替えなくてはならなかった。ヤスミンは辛抱強く風通しを良くし、膏薬を塗り直して、また包帯を巻き直すといった作業をひと月も繰り返していた。

 ランスロットは先代の王の時代から兵として仕えていた。

 貧民街出身の、なんてことはないただの兵士だった。

 先王は身分制度に厳しく、兵士の身分にもまたうるさかった。だから、腕がよくても貧民街出身のランスロットは出世できなかった。

 ある日訓練の終わった彼を呼び止めた男がいた。

 それが、当時王太子であったギリアドである。

「君のような男が一兵卒なのはもったいない。私が王になったら、君のような男をもっと取り上げていきたいと思う。だからもう少し待って、それまで剣の道に励んでいてくれ。 それまでに、きっと制度を変えるから」

 どうせ口だけだ。

 そう思っていた。期待せずに、ただ好きだという理由だけで剣の稽古をしていた。

 ところが、ギリアドいう男は有言実行の、実力行使する王であったのだ。

 ランスロットは彼の近衛隊長に取り立てられた。

 その日、ランスロットは誓った。

 この王のために、命を懸ける。命を賭して、この男を守ると。

 目を開けると、誰かの影が自分を覗き込んでいる。誰だ。私はどこにいる。

「ランスロット様?」

 泣いているのか。なぜ泣いているのだ。

「お目覚めになったのですね」

 雨が降ってきた。温かい雨だ。雨がなぜ、温かい。

 声が、誰かを呼んでいる。医師がやってきて、自分を見ている。

「どうやら目が覚めましたな。王女様の献身的な介護のおかけでしょう」

 王女? 

 温かい雨が、どうやら涙であったと気づいたのはその時だ。側にいたヤスミン王女が、泣いているのを見たからだ。

「国王陛下にお知らせしてきます」

 医師がそう言っていなくなった。

「ランスロット様、よかった」

 ヤスミンが尚も、泣いている。

「ヤスミン王女……」

 声が、うまく出ない。身体も、動かない。

「私はどれくらい、ここにいたのですか」

「ひと月半ほども」

「そんなに……いてくださったのですか」

 辺りを見回した。自分の腕は、包帯だらけである。部屋が、膏薬臭い。傷が疼く。

 ヤスミンが涙をこぼしながら、

「お守り……効きませんでしたね……」

 とまた泣いた。

 ランスロットは痛む腕を彼女に伸ばしながら、

「泣かないでください……あれがあったから、死なずにすんだとも言えるでしょう」

 ランスロットは痛みに顔を顰めながら側にあった護符に手を伸ばした。

「これは、お返しします」

 ヤスミンの目が見開かれた。

「あなたの、もっと大切な方に渡して差し上げてください」

「――」

 ヤスミンはそれ以上そこにいることができなくて、悲しみのあまり立ち上がって立ち去ってしまった。

 入れ代わりに国王がやってきて、ランスロットの生還を喜びに見舞いにきた。アリシアはヤスミンが泣いているのが気がかりで、それでも二人のことだからと、彼女を追うのをやめておいた。

 三日が経った。

「経過は順調なようですな。驚異の回復力です」

 医師がやってきては、彼の鍛えっぷりに驚いていく。ようやく、少しの間くらいは起き上がれるようにはなってきた。それも、薬湯を飲む間くらいだ。

 ため息をついていると、誰かが入ってきた。

 ヤスミンだった。

 絶句していると、彼女はそこに座ってこう言った。

「もう一度、改めてこれをお渡しいたします」

 そして、あの護符を手渡してきたのである。

「ヤスミン王女……」

「私のもっと大切な方は、あなた様をおいて他にはありませんわ、ランスロット隊長」

「――」

「三日間よく考えて出した結論が、これです」

 彼女は毅然として言った。

 そこにはランスロットが思う、気弱で繊細な王女の面影はなかった。

「あなた様がなんと言おうと、私にとってはそれが答えです」

 では、と立ち上がろうとしたヤスミンの手を、ランスロットが掴んだ。ヤスミンは驚いて、彼を振り返った。

 決まり悪げに、彼はこう言った。

「その……ああでも言わなければ、……私が傷を負うたびに、あなたを悲しませると思って」

 うっ、とランスロットが呻いて、包帯から血が滲んだ。ヤスミンが慌てて医師を呼んだ。「また無理をなさいましたな。当分は起き上がってはなりません」

 と厳命され、またランスロットは寝たきりの生活をする羽目になった。

「どうやらこれはあなたのせいです」

「そのようですね」

 くすくすと笑いながら、ヤスミンは言った。

「責任を取って、また看病させていただきます」

「そうしてください」

 王に命を賭けるはずだった。

 しかしどうやら私は、この女性にほだされてしまったようだ。

 救護室をを訪れて扉を開けようとしていたギリアドは、それを聞いて扉を開けるのをやめた。

「あれギリアド様、どうされたんですか」

「ん? いや、ランスロットにも遅い春が来たようだな」

「やだなあ今は夏ですよ」

「そうだな」

「暑くなりましたね」

「救護室のなかは特にな」

「え?」

「なんでもない」

 ギリアドはそう呟いて、アリシアと共に廊下のむこうに歩いて行った。



 属国の内の一つに、王子が生まれたという知らせがもたらされた。

「砂漠には習わしがあってな。属国に世継ぎが生まれたら、王と王妃が出向いて、王妃が祝福を授けるのだ」

「祝福?」

「なに、簡単だ。手を水で浄めて、赤子を抱いて……」

 と手はずを詳しく聞き、ギリアドと宰相ザイオンと共に馬車で属国ルナスへ赴いた。

 ルナス王妃は王女を五人生んだ後、待望の男子誕生だというので、舐め回すようにして可愛がっているという。

 既に上の四人は嫁いでいるというが、末の七つの娘と国王夫妻が生まれた赤子を抱いて馬車を出迎えた。

「陛下、わざわざこのような辺境にお出向きいただき、恐悦至極に存じます」

 アリシアは王妃が抱いている赤子を覗き見た。生後半年の、玉のような王子である。

「かわいいですね」

 思わず顔がほころんだ。

「まあ、ありがとうございます。ほほほほ」

 ところが、王妃はよそよそしく微笑み、さっさと宮殿のなかへ入って行ってしまったのである。それを見て、宰相ザイオンは眉を寄せていた。

 辺塞の地なれば、月神教の王妃を嫌う空気はこんなところにもあるのか。王都では大分緩くなってきているというのに。

 王妃の様子にも気づかず、夫はギリアドに機嫌よく話しかけている。二人は宮殿に案内され、客間に通された。

 そして、祝福を施す時間となった。

 聖堂でみなが見守るなか、国王夫妻の立ち合いの元、アリシアは日神の聖水で手を浄め、王妃に笑いかけた。そして手を差し伸べた。王妃は赤子の懐に誰にも気づかれないように手を差し入れた。

 するとどうであろう。

 今の今まですやすやと眠っていた赤子が、いきなり激しく泣き出したのである。王妃が慌てて王子をあやし始めた。

「まあ、ごめんなさい。いつもはおとなしい子なのに。これでは今日の儀式は無理ですわね」

 そう言って、王妃は一方的に聖堂を後にした。宰相はそれを、するどい目で見つめていた。

 王妃は赤子を抱き締め、思い詰めた瞳で廊下を歩いていた。

 頭のなかでは、数々の心無い囁きが響いている。

 ちょっと、また女の子よ。女腹っていうの、ああいうの。一生お世継ぎは生めそうにもないわね。

 お前を王妃にするために、どれだけの思いをしたと思っている。なんとしても男児を生むんだ。

 なによ。なによ。なによ。

 誰も私の思いなんて知らないくせに。

 やっと生んだ、かわいいかわいい男の子なのよ。世継ぎなのよ。

 そんな大事な跡継ぎを、月神教なんかに触らせない――なんとしてでも。

 どんなことをしてでも、あの女を追い返す。祝福なんか、させない。そんなの、いらない。

 我慢して、夕食を共にした。

 月神教の女と食事をするだなんて、汚らわしい。そう思っていた。

 翌朝、王子の機嫌を窺って、儀式の運びとなるだろうという話になった。

 アリシアは一人、廊下を歩きながら、中庭に一人の少女が立っているのに気がついた。

「……」

 その少女の、あまりの悲しそうな佇まいに、彼女は思わず足を止めた。

 それは、この属国の末の王女であったのである。

「どうしたの?」

「あ」

 王女はアリシアを見ると顔を上げて、立ち去ろうとした。

「なにか嫌なことでもあったの?」

「……」

 と尋ねると、なにか言いたくても言い出せない、思い悩んでいる様子である。

「私でよかったら、話を聞くけど」

「……」

 王女はもじもじとしてなかなか話し出さなかったが、アリシアが辛抱強く待っていると、その内ぼそぼそと呟くように話し始めた。

「……弟が生まれるまで、お母様はずっと泣いてた。また女の子だ、また女の子だって。 私が女の子だったから、周りに色々言われていじめられて、黙ってそれに耐えて、泣いてた。私はそれをずっと見て、慰めるしかなかった。そうして二人で頑張ってきたの。でも弟が生まれたら、お母様は私なんか見てくれなくなっちゃって。まるで弟しかこの世にいないみたいになっちゃって、私が話しかけても、聞こえないみたいで」

「そっか……」

 アリシアは屈んで王女と視線を同じくして、彼女の頭にそっと手を置いた。

「お母さんは今、赤ちゃんが生まれてちょっと大変なんだよ。だから、そのことで頭がいっぱいなの。でも、あなたのことを忘れたわけじゃない。お母さんが自分の子供のことを忘れるなんてことは、絶対にない」

 そう言って慰めて、そこで王女とは別れた。

 部屋に戻りながら、アリシアは考えていた。

 そうか、属国だから、世継ぎは王子なのか。リッテンバウムもエリモスも、王女であれ王子であれ、第一子が跡継ぎと決まっているからな。ギリアド様が父親になったら、どんなんだろう。私がお母さん? 

 母親かあ、とにへらにへらとしていると、部屋に着いた。

「なにをにやにやとしている」

「いえ、なんでもないです」

 赤子の様子を見に行こうということになり、王子の部屋へ行く。そこでも王妃はよそよそしくて、アリシアの側に来ようともしなかった。

「王妃様に慣れていただくために、抱いていただいたらどうだ」

「いえ、今は眠っていますから」

 と、にべもない。

 しゅう、しゅう、とどこかで空気が漏れるような音がした。誰もそれに気がつかない。

 寝顔を見ようと近くへ行ってみて、なにか近くに蠢くものがあった。アリシアはその時、なにも考えずに動いていた。

「あぶない!」

 一匹の小さな蛇が、アリシアの腕に噛みついていた。王妃の悲鳴が上がった。

 たちまち、室内が大騒ぎになった。ギリアドが蛇を腕から切り離し、毒を吸い出す。「医者を呼べ」

 誰かが怒鳴る。周囲の声が、小さくなっていく。

「アリシア、アリシア」

「ギリアド様……王子は」

「無事だ」

「よ、よかっ……」

「アリシア」

 意識が途切れ、ギリアドが叫ぶ声だけが聞こえた。

 目が覚めた時には、知らない天井が目に入った。ぱちりと目を開けたアリシアを、ギリアドがため息まじりで迎えた。

「目を覚ましたな」

 彼女は起き上がった。

「ここは?」

「控えの間だ。毒蛇に噛まれたんだ」

「毒蛇……」

「どうしてあんなものが入り込んだのかしら。恐ろしいわ」

 王妃が、側でおろおろとしている。

「妃殿下にはいくらお礼を申し上げても足りません。息子の命の恩人でございます」

「医者の腕がよかった。なんでも、厳しい戒律に従って摂生した食生活を送っているから、血がきれいで毒が回るのも早いが、その分薬が効くのも早かったそうだ。そのおかげで、助かった」

「そうですか……」

「妃殿下」

 王妃が、そこに跪いた。

「数々のご無礼を、お許しください。月神教のあなた様を、誤解しておりました」

「いえ、そんな」

 アリシアは両手を振った。

「それより、王子がなんともなくてよかった」

 すると、今までその会話を黙って聞いていた側にいた王女が、突然泣き出した。父王が、突然のことに戸惑っている。

「これ、どうしたね」

「ご、ごめんなさい」

 大声で泣く王女の瞳からは、大粒の涙がこぼれている。

「こんなことになるとは思わなかったの。毒があるとは思わなかったの」

「えっ」

「なんですって……」

 王妃が顔色を変えて、王女の側に歩み寄った。

「あなた、なにをしたの。言いなさい。なにをしたの」

「ちょっと噛まれれば、いいと思って。そうしたらお母様も、私のことを見てくれるようになると思って。だから蛇を部屋に入れたの。そうしたら、お母様も私を見てくれると思って」

「な……」

 王妃はかっとなって、手を振り上げた。

「待って」

 アリシアがそれを止めた。

「待ってください」

 彼女はベッドから出て、王女に近づいた。

「彼女、言ってました。ずっと二人で頑張ってきたって。王子が生まれてから、お母さんが自分を見てくれなくなったって。寂しかったって」

「あ……」

「ごめんなさいいい」

 お母様、泣いてるの? お母様、泣かないで。お母様、私がついてるから。

 ――この子がこんなに大声で泣くことが、あっただろうか。

 私が泣かせたんだ。

 私が。

 王妃の瞳から、涙がこぼれた。

 アリシアは笑顔になった。そして王女に向かって言った。

「汝、光の子。その旅路に、天恵と祝福のあらんことを」

 そしてその額に、そっとくちづけした。

 午後、無事に王子の祝福を終え、国王夫妻と王女に見送られて、ギリアドとアリシアと宰相ザイオンは馬車に乗って帰っていった。

 宰相は思っていた。

 初めこそ月神教の小娘と馬鹿にしていたが……人を変える力があるのかもしれんな。

 そうして馬車は一路エリモスに帰国していった。


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