第三章 2

   3



「鉄≪くろがね≫諸島に?」

 宰相ザイオンの言葉に、アリシアは思わず聞き返した。

 ここは国王の執務室である。

「左様。鉄≪くろがね≫諸島は属国の一つですが、そこの国王がぜひとも国王陛下と妃殿下をお招きしたいと言っておるのです」

「ちょうど、当地で採れる鉄を持ち帰る船があちらから帰る予定だ。それに乗って戻ってこよう」

「公務はよろしいのですか」

「めぼしいものは、宰相に任せる。重要なものは既に終わらせてある」

「しかし、鉄諸島というとなにかと王都に対して反抗的な属国でございます。この招待の裏には、なにかあるのではございませんかな」

「そうであろうな」

「油断めされぬように」

「わかっておる」

 執務室から下がって、アリシアはそうなんだ、と思いながら廊下を歩いていた。ただの招待かと思っていたら、そんな思惑があったのか。これは、身を引き締めていかないと。

「鉄諸島まで、どれくらいかかるんですか」

「船で十日といったところだな。もう雨月だし、あちらでは夏だろう。泳げるぞ」

「泳ぐ……」

 アリシアが放心したように呟いたので、

「そなた、泳いだことはあるか」

「ありません。泳げるかどうかも、わかりません」

 アリシアは山間部で育った。夏といえど、暖炉に火を焚くほどに涼しい。そもそも、泳ぐ環境などにあったことがない。

「では当地で機会があったら試してみるのもいいだろう」

 そうはいっても、半分は公務である。そんな時間があるかどうかは、わからない。

 馬で港まで行って、大きな大きな船に乗った。アリシアにとっては、生まれて初めての船である。

 見るもの触るものすべてが珍しくてきょろきょろしていると、

「お嬢さん、あまりうろうろしていると海に落ちますよ」

 とギリアドに笑われた。

 夜横になると、ゆらゆらと揺れてなかなか寝られない。しかし、波の音に耳を傾けるとなんだかうつらうつらとしてきて、知らない内に眠ってしまった。

 鉄諸島にはまた、ヤスミンとランスロット近衛隊長、オライオス親衛隊長も同行していたので、アリシアは話し相手がいて退屈せずにすんだ。

 船の上の十日の間、ギリアドはオライオスの剣の腕をまだ見ておらぬと言ってランスロットと剣の立ち合いをさせ、彼といい勝負をしたオライオスを見て、

「……ふむ」

 と呟いたという。

 そうして十日が過ぎ、くろがね諸島に到着した。

 アリシアはてっきりエリモスのような砂浜のある場所だと思っていたのだが、そこはごつごつとした岩場に囲まれた港であった。

 海港にはすでに出迎えの一行がやってきていて、人が大勢待っていた。

「ようこそいらっしゃいました国王陛下。それに妃殿下。お噂は聞いております」

 鉄諸島の国王である公爵は隻眼の男で、頭髪のない、よく日に灼けた、がっしりとした海の男らしい顔立ちをしていた。そういえば出迎えの男たちもみな、よく日に灼けている。 海に出るからだろう。

 少し歩いたところに、馬車が用意されていた。

「岩場がございますれば、少々道が悪いのはご勘弁ください。馬にてご案内いたします」 先頭の馬車にギリアドとアリシアが乗り、後ろの馬車にランスロットとヤスミンとオライオスが乗った。

 アリシアは窓から外を見て、鉄諸島の風景を見てみた。草地に、所々岩が突き出している。

「岩がたくさんある……」

「岩石に鉄分が含まれている。そこから鉄を産出しているのだ」

 ふうん、と呟いている内に、馬車が止まった。窓から見ると、尖塔がいくつもあった。

 まるで尖った岩のような、天然の要塞を思わせる城である。

 ギリアドとアリシアは城内を案内され、そこの客間に連れて行かれた。最上階から鎖で繋がれた吊り橋を渡って行かねばならない尖塔の部屋で、浴室と、大きなベッドが用意されていた。

「国王陛下と妃殿下はこちらでお休みください」

 窓から表を見ると、海が見える。ごつごつとした岩場に囲まれていて、荒波が波打っている。

「それにしても、暑いですね。本土は雨季なのに」

「ここではひと月季節が早いと言われている。それに、年中魚を食べているから肉を持って来ると喜ばれるんだ」

「公務のお話はいつなさるのですか」

「明後日だ。明日は岩場に行ってみよう」

 船旅で疲れているだろうからと、その日はみな早々に休んだ。

 翌日、天気は快晴で空気もからりと気持ちよく、アリシアはギリアドとヤスミンと共に岩場に行った。

「天気がいいから、泳げるぞ」

 ギリアドは上半身裸になって、アリシアに手を差し伸べた。

 それを見て、アリシアはどきりとした。

 そういえば、ギリアド様の身体、初めて見る。いつも一緒に寝てるのに。

「おいで」

「は、はい」

 身体が、密着する。ギリアドの太い腕が腰に回され、足を持つ。

「足を伸ばして、力を抜いて」

 どきどき、どきどき、どきどき。

 静まれ、私の胸。静まれ。

 あんまり鳴ってると、ギリアド様に聞こえてしまう。

「きゃっ泳げました」

「うまいぞ」

「まだ水が冷たいです」

「暑いとはいえ、雨月だからな」

 ヤスミンは岩場に座って、それを微笑んで見ていた。近くではランスロットが腕を組んで、泳ぐ二人をじっと見つめている。ヤスミンは勇気を出して、彼に話しかけてみた。

「あ、あの、ランスロット様」

「はい、なんでしょう」

「ランスロット様は、泳がれませんの」

「私が遊びまわっていましては、陛下になにかありました時になにもできませんから」

「そ、そうですね。そうですわね……」

 ヤスミンは恥ずかしくなって、面を伏せた。どうでもいいことを聞いてしまった。浅はかな女だと思われただろうか。

 夜になると、新鮮な魚が供された。本土では見たこともないようものが出された。

 そして、いよいよ翌日の夜は晩餐会である。

「お食事の席で、公務のお話をされるんでしょうか」

「どうだろう。さすがにそれはないと思うが」

 などと支度をしながら話していたら、扉がノックされて侍女がやってきた。

「王妃殿下には、こちらの礼服をお召いただきたいとの公爵様からのお達しでございます」

「え? でも」

「ぜひ、お願い申し上げますとのことでございます」

 アリシアは困って、ギリアドの顔を見た。

「かしこまった」

 ギリアドが代わりに返答して、侍女が下がっていった。用意された箱を開けて見てみて、アリシアは目を見開いた。

 それは、純白の礼服であったからである。

「……」

 白は、日神教の象徴の色だ。太陽の光の色である。

 月神教のアリシアが着るべき色ではない。

「アリシア……」

 ギリアドが側へ歩み寄ってきて、震えるアリシアの肩に手を置いた。

「大丈夫ですギリアド様」

 彼女は顔を上げた。

「行きましょう」

 大広間には、ヤスミンとランスロットとオライオスが先にやってきていた。ヤスミンは大広間に入ってきたアリシアの姿を見て仰天した。

「王妃様……」

 彼女が、純白の礼服を着ていたからである。

「どうしたのヤスミン王女。そんなに驚いた顔をして」

「い、いえ」

「やあやあ妃殿下。私が用意した礼服が、よくお似合いですな」

 公爵は上機嫌で席につくと、大声で言った。

「本日は国王陛下と妃殿下をお招きできて、真に光栄です。エリモス王国に栄光あれ」

 そして、杯を掲げて飲み干した。

 アリシアはそれを飲もうとして、手を止めた。

 あれ、困ったな。前もって言っておいたのに。

 それは、蒸留酒であったのだ。

 月神教の戒律では、果実酒以外の酒は禁じられている。

「いかがですかな。リュウゼツランから蒸留した酒です。お口に合いますかどうか」

「アリシア、無理をするな」

 ギリアドが小声で囁いてきた。

「大丈夫です」

 アリシアはえいっと思い、目を瞑って酒を飲み干した。蒸留酒のその強さに、頭がくらくらした。

くろがね諸島の味をお楽しみください。料理長が腕を奮いました」

 初めは、ふつうに魚が供された。次に、こちらが来るときに運んできた肉が出てきた。

 問題は、その次だった。

「魚介の煮込み料理です。秘伝の味つけだそうで、料理長の自慢の一品です」

 それには、貝と蛸が入っていたのである。

 アリシアの顔が青くなった。

 月神教の食事の戒律は厳しい。反芻しない動物、四本足以外の動物、蹄のない動物は食べてはならない。

 その他に、海産物は鱗のないものは食べてはいけないのである。

 つまり、貝も蛸もだめということになる。

 ギリアドの顔が険しくなった。

 アリシアの戒律のことは、事前にくどいほど伝えておいたはずだ。酒のことといい魚介のことといい、これはどうしたことだ。

「どうしましたかな。お召し上がりください」

「王妃様、無理なさらないで」

 ヤスミンが横から囁いた。

 アリシアの手が、恐怖で震えた。戒律を破る恐怖、会談が失敗に終わる恐怖、魚介を口にする恐怖。

「いかがされましたかな、さあどうぞ」

「アリシア」

 ギリアドが、そっと自分の手にその手を重ねてきた。

 一同の視線が、アリシアに集中した。

「さあ、どうぞ」

 公爵の声が、尚もかかる。

 ままよ――

 アリシアは覚悟を決めた。

 彼女は顔を上げて、

「いただきます」

 そして、蛸を刺して、口に運んだ。

 一同はアリシアがそれをゆっくりと噛むのを、息を飲んで見守っていた。そして彼女が飲み込み、

「……おいしいです」

 と言うと、ほーっとため息をついた。

 公爵は益々上機嫌になって、大声で笑った。

「王妃殿下におかれましては、頼もしい限りですな」

 ギリアドの限界もここまでだった。

 彼は目を吊り上げ、拳を握って公爵に詰問した。

「鉄諸島国王ダスター公爵。此度の乱行いかがいたしたることか。月神教の王妃に純白の礼服を用意し、なおかつ蒸留酒を飲ませあまつさえ戒律に違反した食べ物を食べさせるとは、不敬極まりない。言い訳があるのならば今ここで聞こうぞ」

 怒りに燃える黒い瞳に睨まれて、公爵がそこに跪いた。

「申し訳もございません」

 彼は続けた。

「国王陛下におかれましては、月神教の妃殿下とご結婚とのこと、ご乱心かと思い不覚ながら妃殿下を試させていただきました」

「王妃の器を問うたと申すか」

「は、月神教と日神教は長に渡り忌み嫌い合ってきた仲、今更融和を図ったところで解決するものではごさいません。しかし、時が経つにつれ王都からは妃殿下のよい噂を聞くようになって参りました。これはもしかして、と思い、今回ご招待させていただいた次第でございます」

 公爵は顔を上げた。

「国王陛下の賢明なご判断、真に感銘いたしました。また、御自らの戒律を破ってまで事を穏便に運ぼうとなさる妃殿下のやさしいお心に胸を打たれました。鉄諸島は、エリモス王国に永久とこしえの忠誠を誓います」

 そしてそのまま、会談となった。

 アリシアとヤスミンは先に寝室に引き上げ、休むことになった。

 湯を浴び、ほっとしていると、どこかで鐘が鳴っている。本でも読もうかな、と思っていたら、扉が開く音がした。

「あ、ギリアド様。おかえりなさ……」

 言う前にギリアドは物凄い勢いでやってきて、いきなりアリシアを抱き締めた。

「――ギリアド様?」

 その強い力に、アリシアは息ができない。

「ギリアド様、ねえ、はなしてください。くるしいです」

 彼はこたえない。

 今宵のアリシアは、見事だった。怒っても悲しんでもいいのに、そのどちらでもなく、笑顔で乗り切った。戒律を破ってまで、自分の面目を守ってくれたのだ。

 彼女が愛しくて仕方がなかった。

 身体を離して、そっとその頬に手をやった。

 その明るい青い瞳を見ていると、たまらなくなった。

「ギリ……」

 言いかけるその唇を、自分のそれで塞いだ。

「ギリ……アド様」

「アリシア……」

 夢中でアリシアの唇を貪りながら、身体を掻き抱く。

「私のものになれ」

 耳元で囁くと、抱き上げてベッドまで運んだ。剥ぎ取るように夜着を脱がせていくと、白い肌がむき出しになる。

「ギ、ギリアド様」

「なんだ」

「こ、こういうのは、あの」

「なんだ」

 手を止めずに、いらいらとしてギリアドは尋ねた。

「ひ、日取りを決めて、儀式をしなくては、い、いけないので、は」

「日神教の祭祀長は、国王の私だ」

 アリシアの首筋に舌を這わせながら、ギリアドは囁いた。

「その私がよいと言うのだから、よいのだ」

「あっ……」

「どうした」

「灯かり、消してください」

「だめだ」

「なぜですか」

「それでは私の瘢痕がどこにあるか、わからないだろう」

「……」

 ねっとりと、吐息と吐息が絡まっていく。手と手が重ねられる。

 痛いか

 ……痛いです

 正直だな

 何事にもいつも正直でいてほしいとおっしゃったのは、ギリアド様です

 ふふ、そうだったな

 風が激しく吹いている。

 二人の営みを見ていたのは、月だけであったようだ。



 港で船に乗る際、ダスター公爵はギリアドにこう言った。

「国王陛下。鉄≪くろがね≫諸島はいつでもエリモス王国と共にありますことをお忘れなく。王都の危機に、いつでも駆けつける所存です」

 そうして二人でがっちりと手を握り、採鉱した鉄を運んで、ギリアドとアリシアは帰国した。

「ご無事のご帰国、なによりでございます。なにか変わったことなどございますかな」

 宰相ザイオンがこう言って出迎えるのに、ギリアドは、大事ない、と言いかけて、少し考え、ちょっといたずらっぽく笑って、

「ああ、そうだな。私も王妃も、変わりない。王妃も無事、名実ともに王妃となったことだしな」

 と返答した。

「そうでございますか。……ん?」

 宰相はそうこたえてなにかの違和感に気づき、すたすたと執務室に歩いていく国王を慌てて、

「陛下、名実ともにというのは、あの、一体どういうことでございますか、陛下、陛下……」

 と追いかけて行った。

 ヒュウ、と雨季の湿っぽい風が吹いた。

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