第三章 1


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 その青年は目深にフードをかぶり、街に入ってきた。そしてまっすぐに王城の入り口までやって来ると、いきなり剣を抜いて衛兵にこう言ったのである。

「王に会わせろ」

 無論、それで国王に会えるはずもない。被っているフードを改めさせれば、あろうことか顔には月神教の瘢痕が施されている。

「この男、月神教だ」

「月神教?」

「どうする」

「どうするって言っても……」

 兵士たちはほとほと困って、宰相に相談することにしたのである。

「妃殿下、月神教の男が城にやってきました」

「え?」

「もしかして、お知り合いではありませんかな」

 ヤスミンと噴水の側で話していたらザイオンがやってきてこんなことを言うから、アリシアは驚いた。それは、十中八九知り合いだろう。知り合いどころか、友人に違いない。

「そのひと、どこにいるのですか」

「侵入を試みたので牢に入れようとしたのですが、妃殿下のお知り合いを入牢させるわけにもいかないので東の空き部屋に縛って入れておきました」

「ちょっと行ってきます」

 ヤスミンに言って、アリシアは東の部屋に急いだ。部屋の側まで行くと、廊下まで聞こえてくるほどの怒声が響いていた。

「出せーっ出せったら出せーっ日神教の悪魔めーっ」

 アリシアは、その声に聞き覚えがあった。そっと扉を開け、

「……ライモン?」

 となかを覗いた。そこには、淡い金髪の青年が縛られて座っていた。

「あっアリシア」

「やっぱりライモンだわ。なにしに来たの。どうしたの」

「助けに来たんだ」

「たすけに? 誰を?」

「お前をだよ」

「私を?」

 アリシアはわけがわからなくて、しきりに首を傾げている。

「お前は日神教に売られたんだ。その内改宗させられて、豚を食わせられたり鶏の生き血を飲ませられたりするに違いないないんだ。日神教の連中は容赦ない。だから、そうなる前に助けに来た。俺と逃げよう」

「ライモンたら」

 アリシアはからからと笑った。

「ここのひとたちは、そんなことしないわ。陛下もほかのひとたちも、みんないいひとばかりよ」

「お前は騙されているんだ。そうやって懐柔して、少しずつ洗脳していくのが奴らのやり方なんだ」

「ライモン」

 アリシアは真面目な顔になって青年に言った。

「私、ここにいて幸せよ。陛下はちゃんと私の戒律を尊重してくれて、私は月神教の戒律を守って暮らしてる。月の満ち欠けと共に生活しているし、豚も鶏も食べていないわ。砂漠も海も見て、色々なことを知った。私、ここにいたいの」

「アリシア……」

 ライモンは少し落ち着いてきて、そんなアリシアを見てさらに言った。

「かわいそうに、もう洗脳され始めているんだな。心配するな。俺が助け出してやるから」

「もうライモンたら」

 アリシアは立ち上がった。

「とにかく、ここにいる間は私が食事を運んであげるわね。お城に勝手に入ろうとしたんだから、すぐには出られないわよ」

 そう言って、彼女は出ていった。

「月神教の男が捕えられている?」

 宰相からの報告を受けて、ギリアドは書類から目を上げた。

「はい。一応妃殿下にお伝えしておきましたところ、お会いにいったようでございます」「そうか。それはそうだろう」

 その夜、いつものように葡萄酒を飲みながら、ギリアドはアリシアに尋ねた。

「そなたの知り合いが来ているそうだな」

「知り合いというか、友人というか」

「友人か」

「リッテンバウムの冬は長いので、娯楽のために闘技場というのがあるんです。そこで剣闘士が戦って殺し合いをするのを、人々が賭けるんです。その剣闘士は、主に奴隷がなるんです」

「北方には、奴隷がいるのか」

「砂漠には、いませんよね」

「そうだな」

「ライモンは、その奴隷の子供だったんです」

 奴隷もその子供も、罪人と同じく顔に瘢痕を施される。

「小さい頃、闘技場に連れていかれて、そこで家族とはぐれて、迷ってしまって。奴隷たちのいる控え室に入り込んでしまって、そこで彼らの果たし合いを見てしまったんです。 それが怖くて、泣いてしまって」

 アリシアはその日のことを思い出した。

 見たこともない数の人、人、人。

 父を探しても、母を探しても、どこにもいない。兄もいない。姉たちもいない。

 ここは一体どこだ? どこに行けば母たちはいる?

 背の高い大人たちに押され押されて、いつの間にか知らない場所へ来てしまった。気がつくと、顔に瘢痕がある者ばかりいる。

 恐怖で身体が竦んだ。

 お前、誰だ?

 突然誰かに話しかけられて、びくりとなった。

 なんでこんなところにいる。ここはお前みたいな身なりの人間がいるところじゃないぞ。 振り向くと、自分より少し年上くらいの少年がこちらを見ている。顔にはやはり、瘢痕がある。それでまた涙が滲んできた。

 泣くな。どこから来た。名前を言え。

 少年らしからぬ毅然とした態度に、アリシアは悲しみを忘れた。そして、名を告げた。 泣くな。お前を泣かす奴は、俺が倒してやるから。

 そう言って、少年は父と母のいる場所の近くまで連れて行ってくれたのである。

「それから、闘技場へ行くと彼を探すようになりました。彼はとても強くて、いつも勝ち進んでいました。気がついたら、彼はその年の筆頭勝利者になっていたんです」

 年間筆頭勝利者になれると、解放奴隷となり闘技場の生活からは自由になれる。それはリッテンバウムではとても名誉なことである。

「その後私もここに来たので会えなくなってしまったのですが……」

「それでそなたに会いに来たというわけか」

「なにか、誤解をしているようなんですが」

「月神教からすれば日神教の人間は悪魔に等しいと聞くからな」

 穏便にすませて、帰ってもらうしかない。ギリアドはそう思っていた。

 ところがそうはいかなかったのである。

 ライモンの解放の手続きは遅々として進まず、アリシアはその間実にまめまめしく彼に食事を運んだ。戒律があるからただ食べ物を持っていけばいいというわけにはいかず、いちいち確かめなくてはいけないから、彼女以外の人間ではわかろうはずもなかった。

「妃殿下のあの献身ぶりは、実にまめですな」

 宰相はある日そんなことをギリアドに言った。

「甚だしいというか、なんというか」

「お前が言うほどにか」

 ギリアドも、書類から目を上げた。

「それはもう、仲がよろしいようで。やはり、同じ月神教同士のほうがうまくいくのですなあ」

「ザイオン」

「はっ」

「言葉が過ぎるぞ」

「ですが陛下」

「妃と私は、既に婚儀を交わしている」

「ですが初夜の儀式がまだ」

「ではさっさと儀式をすませればよい」

「よい日取り、というものがございます。それには太陽神にお伺いを立てて……」

「若い男女が、毎晩枕を並べて眠って間違いが起きない方が奇跡だというのだ。我慢にも限界があるというものだ」

「陛下、場所柄を」

 こほん、と宰相が咳払いするのに、ギリアドはいらいらとして息をついた。

 アリシア、そうなのか。やはり月神教の男の方がいいのか。

 ギリアドはいつになく気もそぞろでその日の仕事を片づけていた。

 その頃アリシアは、ライモンに食事を持っていこうと東の部屋へ向かっていた。

「ライモン、食事よ」

 最近は縄を解いたので、彼も自由に飲み食いができるようになった。

 ライモンが食べるのを見ながら、アリシアは言った。

「ここから出られるようになったら、リッテンバウムに帰りなよ」

「お前と一緒にな」

「え?」

 ライモンはやおら立ち上がり、アリシアに当て身をして抱え上げた。そして窓から抜け出した。



「陛下、大変です」

 宰相が青くなって執務室に駆け込んできた。

「どうしたザイオン」

「月神教の男が、妃殿下を連れて武器と馬を奪い、城を抜け出しました」

「なに」

 ギリアドは立ち上がった。

「どの方向へ向かった」

「南の、廃墟でございます。ただいま兵士が」

「私が行く」

「陛下自らそのような」

「行く」

 ギリアドは廊下を走った。そして厩舎へ向かい、馬を駆った。

 その頃南の廃墟では、ライモンが気絶したアリシアを寝かせて一息入れているところであった。

 彼は表に出て、辺りを窺った。まだ追っ手は来ていない。馬が小さく嘶≪いなな≫いた。「う……ん」

 わずかな声を上げて、アリシアが目を覚ました。

「起きたか」

 ライモンはアリシアの側まで行って、水を飲ませた。

「ライモン? ここ、どこ?」

「城の外さ。抜け出したんだ。お前は自由だ。リッテンバウムに俺と帰ろう」

 アリシアはがばっと起き上がった。

「なに言ってるのよ。私はエリモスの王妃なのよ。私を帰してよ」

「馬鹿言うな。お前は日神教の連中に騙されてるんだ」

「騙されてなんかいない。私をギリアド様のところに帰して」

「そんなにあの悪魔みたいな国王のところがいいのか。俺がどんな思いで解放奴隷になったと思ってるんだ」

「――え?」

 ライモンはアリシアの両手首を握った。その力があまりにも強くて、アリシアは恐怖を覚えた。

「お前が好きだから、お前のことが好きだから……いつかお前のことを迎えに行きたくて、だから俺は」

「ライ……」

 ライモンは力いっぱいアリシアを押し倒した。そして彼女の両足を割って、そのなかに入り込んだ。

「――」

「お前は俺のものだ」

「やめ……」

「俺のものだ」

 力が入らない。声が出ない。

「俺の……」

 ライモンがアリシアの服の裾に手を入れようとした時、馬の蹄の音が遠くから響いた。 ライモンは頭を上げて、顔をそちらに向けた。

 表に出ると、一人のえらく背の高い男が馬から下りようとしていた。

「ギリアド様……!」

「アリシア」

「へえ、国王陛下直々のご出来≪しゅったい≫ってか。ご大層なこった」

 ライモンは剣を抜いて、背負うように肩をトントン、と叩いた。

「よくもアリシアを懐柔してくれたな。日神教の悪魔め」

「とんでもない言われようだな」

 ギリアドは苦笑してそれを受け流した。

「国王、俺と勝負しろ。俺が勝ったら俺がアリシアを連れて行く。お前が勝ったら、俺は引き下がる」

「……それでいいのか」

「いいとも」

「やめてライモン」

「下がってろアリシア」

 ギリアドがすらりと剣を抜いた。アリシアが小さく悲鳴を上げた。

 どうしよう。誰か止めて。誰もいない。誰か、誰か。

 ライモンが大地を蹴って、ギリアドに斬りかかった。ライモンより背の高いギリアドはそれを肩で受け止めた。それを払うと、今度はギリアドが攻める。火花が散って、二人が睨み合った。

 ライモンが右から飛びかかると、ギリアドがそれを払った。ギリアドは袈裟懸けに斬りかかり、ライモンがすんでのところでそれをよける。

 アリシアは両手を組んで、それをはらはらして見ているより他になかった。

 ――なぜだ。

 私、ここにいて幸せよ。

 なぜそんなことを言う。

 みんないいひとばかりなの。

 日神教は、悪魔じゃないのか。

 ギリアドと戦いながら、ライモンはそればかりを考えていた。今まで信じてきていたものが、音をたてて崩れ去る、そんな感触を感じていた。

 俺は、俺はお前のために今まで。

 ――お前を泣かす奴は、俺が倒す。

 あの日そう言って、俺は。勝ち抜いてきたんだ。

 アリシアは二人の一挙手一投足を見ながらも、その実力差を見抜いていた。

 ライモン、とても勝ち目がない。リッテンバウムの闘技場で一番強かったというのに。

 体格、身長、速さ。そのどれもが、違う。

 ライモンがギリアド様に圧倒されてしまっている。あれでは、負ける。

 気合いの声と共に、ライモンはギリアドの肩に剣を突き刺した。ギリアドほどの腕ならば、よけられる――と思っていた。

 しかし、この若い国王はなぜかよけなかった。

 立ち尽くして、敢えてライモンの一手をその肩に受けたのである。

 肉を裂く音がして、血が噴き出た。

 アリシアが悲鳴を上げて、走り寄った。

「ギリアド様……!」

「あ、あんた」

 ライモンは剣を抜いた。

「なんでよけなかった。よけられたはずだ。なんでだ」

「なに……あのままでは埒が明かないと思ったのでな。殴り合いの喧嘩ならば、一発でも殴れば気がすむというものだ。斬り合いならば」

「斬れば気がすむってか。馬鹿か、あんた」

 アリシアが服の裾を切り裂いて、肩に巻いた。

「痛みますか」

「大事ない」

 血が、見る見る滲んできた。

「う……」

 それを見て、アリシアの限界がきた。

 涙が見る見るこぼれてきて、アリシアは泣き出した。

「泣くなアリシア。私が悪いのだ」

 アリシアを胸に抱いて、ギリアドは言った。

「私より月神教の男の方がいいのではないかと、わずかでも疑心を抱いた」

「そ、そんな、そんなことは、ありませ……」

 あとはもう、言葉にならなかった。

「――」

 お前を泣かす奴は、俺が倒す。

 お前を泣かす奴は、誰だ。

「……俺だ」

 へっ、と声が出た。

 ライモンは踵を返して、馬のいる場所まで歩いた。

 それに気づいて、アリシアが顔を上げた。

「ライモン」

「馬鹿馬鹿しい。俺は帰る。一人でな。リッテンバウムに戻ったら、せいぜい言いふらしてやらあ。日神教の連中は悪魔でもなんでもないが、とんでもない阿呆ばっかりだってな」

 そうして馬に乗って、走って去っていった。

 知らぬ間に、夜が明けていた。


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