第三章


 今でも時々、思い出す。

 母の笑う姿。あの、笑顔。

 ギリアド、ギリアドと呼ぶ、あの声。

 そして秘かに泣いていた、あの背中を。



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 その日の王城の廊下を歩いていたアリシアは、若い娘とすれ違い、会釈されて、思わず自分も会釈し返して、

「?」

 とすれ違いざまに振り返った。誰だろう。知っているひとかしら。そして側にいたロスとラスに、

「あのお方、どなた?」

 と聞いた。

「あれは、属国リルンの第二王女ランタル様です」

 と、ロスが言うそばから、また違う娘がやってきて、アリシアに会釈して歩いて行った。「あれは、属国セネアルの第三王女レン様です」

 どちらの娘も美しかったので、アリシアはちょっと気後れした。そんなことを思っていると、やはりあちらからも二人、別の娘がやってきて、アリシアにごきげんようと挨拶して廊下のむこうに消えていく。

 不思議であった。

 国王の執務室では、宰相ザイオンが国王にこんな進言をしていた。

「陛下、そろそろご側室の選定をなさってください」

 ギリアドは書類から目を上げた。

「側室だと?」

「お世継ぎのためにも、ご側室の存在は重要でございます」

 ぱさりと持っていた書類を置いて、ギリアドはぞんざいに言った。

「側室など、いらぬ」

「陛下」

「私には正妃がいる。あれで充分だ」

「初夜のすんでいないお妃など、正妃とは言えませぬ」

 そこへ、ランスロットがやってきて、会話が中断された。

「陛下、失礼いたします。気になる情報があります。先日、反国王派の者が動いた件で、動きがございます」

「そうか。ではその件はお前に一任する。下がってよい」

 その後神官たちがやってきて祭祀の話になったので、側室選びの話はうやむやになり、ギリアドはこの話は終わりになったと思っていた。

 しかし、そうではなかった。

 夕食の席で、宰相はもう一度その話を蒸し返したのである。

「陛下、昼間の件ですが」

「昼間の件?」

「ご側室の件でございます」

 アリシアは顔を上げた。

 側室?

「ザイオン」

「既に、属国からめぼしい娘を呼んでおります。あとは、彼女たちと会って話すのみでございます。陛下、お会いするだけでも」

「ザイオン」

 ギリアドの声が、一層強くなった。

「いいではありませんか」

 アリシアが取りなすように言った。ギリアドは驚いて、横にいた彼女を見た。

「ご側室の存在は、大切です。私だってお世継ぎを生めるとは限りませんし、せっかく王女様たちが来られているのなら、お会いするべきです。ねえ陛下」

「う、む、ああ」

「どうせなら、みなさんで一緒にお食事するなんていうのはいかがですか」

「ではそのようにとりはからいましょう」

 珍しく宰相も機嫌がよくなって、そういうことになってしまった。

 その夜葡萄酒を飲みながら、いつになくギリアドは虫の居所がよくなかった。

「どうしたのですか」

 アリシアは不思議に思って、彼にそう尋ねた。しかし彼は視線をそらし、窓の外を見て、返事をしない。

 ギリアド、ギリアド。

 母上、どうなされたのですか。母上、泣いているのですか。

「……」

「ギリアド様?」

 呼びかけられて、はっとする。

 顔を上げると、案じ顔のアリシアがいる。そうだ、ここは寝所だ。私は今、アリシアといる。

「具合でも悪いのですか」

 ギリアドはそれにもこたえず、立ち上がって窓辺に寄ると、表を見た。そして外の寂寞とした砂漠の光景を見ながら、ぽつりとこんなことを言った。

「……母は、側室だった」

 初めて聞く事実に、アリシアはすぐに言葉が出ない。

「父の第四夫人で、よく笑うひとだったと記憶している」

 カーテンを握り締める手が、白い。

 ギリアド、ギリアド。前をよく見て。あまり走り回ると、転びますよ。

 目を瞑ると、あの笑顔が浮かぶ。あの声が聞こえる。

「私は第三王子だったから王位継承権はまず見込みはなくて、だから父は滅多に私のところへはやって来ず、母は寂しい思いをしていたのだと思う。だが、そんな素振りは私の前ではかけらも見せない、強い女性であった」

 しかし、そう言うギリアドの顔はどこか、寂しげだ。アリシアの前では初めて見せる表情である。アリシアの胸が痛んだ。

「ある日、私が予定より早く帰ってくると、他の夫人にひどいことを言われたのだろう、母が部屋の隅で泣いていた」

 ギリアドが顔を上げた。

「初めて見る母の涙だった」

 いつもと違う、その悲しげな佇まい。その涙。

 ギリアド、ギリアド。声が響く。

 あの笑顔は、もう見られないのだ。

 そして彼はアリシアを振り返った。

「だから、私は側室を取らない。母のようなひとはもう、作らない」

「ギリアド様……」

 アリシアは彼の側まで歩み寄って、そっとその腕に触れた。

「お辛い思いを、されたのですね」

 そしてそっと笑いかけた。

「わかりました。でも、宰相さんと約束してしまいましたから、お食事会はしましょう。 せめて楽しく、みんなでごはんを食べましょう」

「アリシア……」

 ギリアドはその笑顔で救われた気になって、そっと彼女を抱き締めていた。



 アレクサンドラ王女は居並ぶ属国の王女たちのなかでも抜きん出て美しく、ずば抜けて頭がよく、本をよく読み、歌声も涼やかで、剣を能くし、欠点がないのが欠点、と言わしめるほどの才女であった。

 そんなアレクサンドラが王妃の第一候補であったことは言うを待たず、宰相ザイオンは大いに彼女に期待して色々と世話を焼き、あれやこれやと助言もし、また国王の好みを教え、なるべく彼女が王妃になるよう画策してきた。

 その当てがまったくもって大外れに外れ、よりにもよって月神教のアリシアが王妃になってしまったのだから、ザイオンの落胆と怒りときたら、それは筆舌しがたいものであったに違いない。

 しかし諦めの悪い彼のことだからアレクサンドラを側室にするべく素早く方向転換をすると、まだ初夜の儀がすまされていないことをいいことに、このまま彼女を王妃にできはしないものかと思ってみたりもするのである。

「よろしいですな。陛下は毎日、朝食の後ここをお通りになります」

「心得ました」

 アレクサンドラと打ち合わせをすませて、ザイオンは何食わぬ顔で噴水の前を通った。 それは、国王の寝室へ向かう近道でもある。

 この日国王ギリアドは朝食を終え、宰相がいつものようにやって来ずに執務室にてお会いいたしますと侍従伝えに言ってきたのを不思議に思いながら、執務室に向かっていた。

 ふと廊下の縁に誰かが座っているのに気づいて顔を上げると、知らない娘である。

「まあ陛下。おはようございます」

 砂漠の娘らしい、日に灼けた瑞々しい肌。黒い、きらきらと輝く闇のような瞳。黒々とした鴉の濡れ羽色の髪。挨拶を返すと、その娘は名をアレクサンドラと名乗った。

「属国ヒエラの、第二王女でございます」

「ああ……」

 それで納得した。側室候補か。

 適当に躱して歩き出そうとすると、驚いたことに娘はついてこようとする。

「今日のご公務は、どのような内容ですの? お手伝いいたしますわ」

「いや、結構だ」

「そのようなことはおっしゃらないで」

 ギリアドがいくら言っても、アレクサンドラはああ言えばこう言うでなかなか引き下がろうとしない。いつものギリアドならば怒鳴りつけるところだが、女を相手にそうすることもできず、いらいらとしている間に執務室についてしまい、ならば宰相に追い払わせようとしていると、

「おや、アレクサンドラ王女ですか。あなたもご一緒にいかがですか」

 などと言って、一緒に仕事をしようとする。

「ザイオン、これはなんだ」

「なんだ、とは、なんでございますか」

 取り澄ました様子で、宰相は聞き返す。む、ギリアドは唸って、とうとうその日一日アレクサンドラ王女を一日執務室にいさせることになってしまった。

「うまくいきましたぞ。私の見たところ、陛下はあなたをお嫌いではないようだ」

「そうですか。では明日も参るとしましょう」

「そうして一日中一緒にいればお互いのことがわかってきて、いつの間にか好きになっていくというものです。男女とはそういうものなのです。陛下は月神教の小娘とは、朝食と夕食と寝る時しか時間を共にしません。一日一緒にいるあなたの方が圧倒的に有利なのです。頑張るのですよ」

「はい」

 こうして毎日毎日、アレクサンドラは執務室に日参し、ギリアドの機嫌は次第に悪くなっていった。

「ギリアド様、最近なんだかご機嫌よろしくないみたいですね」

「うむ。公務のことで、ちょっとな」

 まさか、その公務で関係のない女が絡んでいるとも言えない。ギリアドは腕を組んで、どうすればよいかを考えていた。

 あの王女、ザイオンと手を組んでいるのか。ならば、食事会まで我慢するしかないな。

 アリシアと過ごすひと時だけが、ギリアドにとっては幸いであった。



 食事会の前日、ヤスミン王女はそわそわしていた。

 あのお方にお会いできるだろうか、もう宮殿にお戻りだと聞いている。お会いできないだろうか。

 食事会には、あのお方も出席なさると聞いている。なんとかして、お話ししたい。精一杯着飾って、私だと気づいてもらいたい。

「あら? アンナス属国のヤスミン王女じゃないの」

 ぎくりとして、振り返る。

「あなたも招待されていたの? 凡庸な容姿のくせに生意気ね」

「あなたなんて大した特技もないくせに陛下の側室になろうだなんて無理に決まっているわよ」

 ひどい言葉を浴びせられて、思わず立ち去る。

 そうだ。私は平凡な女だ。そんなのわかってる。わかってるけど。

 悲しくて悲しくて、涙が出てくる。

 思わず顔を覆う。

 噴水の音で、泣き声が誤魔化せるのが有り難かった。

「あら?」

 誰かの声がした。

「どうしたの?」

 足音が近づいてくる。

「泣いているんですか?」

 はっと顔を上げる。その声は近くまでやってきて、驚いたことに隣に座ると、懐からなにかを取り出して自分の涙を拭いた。

「もう大丈夫よ」

 それは王妃だった。

「王妃様……」

「あなた、側室候補の王女様ね。明日のお食事会に来るのね」

「は、はい。私、そこでどうしてもお会いしたいお方がいて」

「お会いしたい方?」

「はい。私が小さい頃、蛮族から街を守ってくださって、その時肩の帯革の紋章を私に託してくれて。いつかお会いするときに、お返ししようってずっと思っていたんです。ここに来たらそれも叶うと思って」

「なんというお名前のお方?」

 ヤスミンは恥ずかしそうに目を伏せて言った。

「ランスロット様、といいます」

「ああ、近衛隊長。ええ、来るわよ」

「はい、そのように聞いております。ですから、とても楽しみにしていて」

 ふふ、王妃は口元を歪めて笑った。

「ランスロット隊長のことが好きなのね」

 ヤスミンは慌てて両手を振った。

「そ、そ、そんな、わ、私、そんな」

「隠さなくたって顔に書いてあるわ」

 顔が赤くなるのがわかった。恥ずかしくなって、両手で顔を覆う。

「ふふふ」

 王妃様ー、とあちらで子供の声がした。

「あ、私もう行かなくちゃ。明日のお食事会、楽しみね。じゃ」

 王妃は自分に手を振って、立ち上がって行ってしまった。

「あ……」

 お礼を言うのを、忘れてしまった。

 月神教だというけど、いいひとではないか。きっとみんな、色眼鏡で見ているんだ。

 寝床に入って、いよいよ明日のことを考えるとどきどきして眠れなかった。ランスロットに会える、そのことだけを思って、なんとか目を閉じた。

 夜、支度をしようとしてヤスミンは青くなった。

 自分の用意していた礼服が、見るも無残に引き裂かれている。

 廊下に出て、誰かを呼ぼうとしても人影はない。どうしよう。食事会はもうすぐだ。時間がない。

「あらあ? ヤスミン王女じゃないの。どうしたのそんな恰好して」

「着る服がないの?」

「あなたにはそれがお似合いじゃないの」

 人影が差して、着飾った王女たちが数人やってきた。

 くすくすと笑いながら、意地悪気にこちらを見ている。ヤスミンは彼女たちを振り向いた。

 このひとたちがやったんだ……

 涙が滲んだ。

「これじゃ、お食事会には出られないわね」

「平凡なあなたはそれがいいわね」

「ほんとほんと」

 あははは、と笑いながら、王女たちは廊下のむこうに消えていった。

 ヤスミンは廊下にしゃがみこんで、涙をこらえるのに必死になってなにもできないでいた。

 ランスロット様……お会いできなくなってしまった……もう一生お会いできない……

 せめて思い切り泣いてやろうと思った時、後ろから聞き覚えのある声が響いた。

「ヤスミン王女?」

 振り向くと、そこには彼女がいた。

「王妃様……」

「どうしたの?」

「礼服が……なくて……お支度ができなくて……」

 王妃は周りを見回した。

「ここがあなたのお部屋? いいわ、入りましょう」

「えっ?」

「早く早く」

 ぱたん、と扉が閉じられた。

 しばらくして、食事会が始まった。

 王妃は何食わぬ顔をして国王の隣に座っている。

「そなた、支度をしている時は確か青の礼服ではなかったか」

「気分が変わったので緑にしたのです」

「そうか?」

「そうです」

 側に立っていた宰相が、王女たちの面々を見て言った。

「アンナス属国のヤスミン王女がおりませんな」

 場がざわめいた。

 王女たちが聞えよがしに囁き合う。

 ヤスミン王女? ああ、あの凡庸な容姿の女ね。あんなの、私たちと同列にされたらこっちが迷惑よ。あんな大したことのない女、失礼しちゃうわ。取り立てて特技もないくせに、いい度胸よね。あんな不器量な女、いない方がいいに決まってるわよ。

 それらの声を、国王は黙って聞いている。

 その時、扉が開いて侍従が告げた。

「アンナス属国、ヤスミン王女でございます」

 青地に、金糸の刺繍をあしらったきらびやかな胴衣。思わず視線がそちらに行った。

「お、遅れてしまって、申し訳ありません」

 平凡な容姿と囁かれてはいても、これだけの装いをすればなかなかのものである。なにか自信のようなものも手伝って堂々としているのも、どこかよい。

 ヤスミン王女はテーブルにつくランスロットの側まで歩み寄ると、

「ランスロット隊長」

 と話しかけ、彼が顔をそちらに向けると、持っていた帯革の紋章を差し出した。

「これを、お返しします」

 ランスロットは目を見開いた。

「これは……」

「ずっと、お返ししたいと思っていました」

 彼は立ち上がり、それを受け取った。

「大きくなられましたな。そして、美しくなられた」

「そんな……」

 それを見ていたアリシアは、よかった、と微笑んでいた。

「そなた、あれはそなたが着るはずの礼服ではなかったのか」

「知りません」

 しきりに訝し気な顔をするギリアド、にこにこと笑うアリシア、こうして食事会の夜は更けていった。

 翌日、国王は宰相に言った。

「ザイオン、顔だけが美しい側室ではだめだ。たかが食事会に遅れてきた同輩の悪口を言うような王女を側室に迎える気はない」

「しかし陛下」

「話は終わりだ」

「ですが」

「ああそうだ」

「は?」

「あのヤスミンという王女、妃の話し相手に宮殿に滞在させるよう言うように」

「はあ……」

 なんということだ。これではアレクサンドラ王女も追い出されてしまう。なんとかしなくては。

「わたくし、ヤスミン王女の悪口なんて言っておりませんわ」

「そもそも、陛下はご側室を取るおつもりなど初めからなかったのです。計画が台無しです。月神教の小娘が王妃など……」

 アレクサンドラは爪を噛んだ。

 いつもいつも、わたくしは一番だった。いつもいつも、わたくしはそう持て囃されてきた。そのわたくしが側室に甘んじることですら我慢できなかったというのに、それすらなれなくて、あまつさえ月神教の女が王妃ですって?

 ――そんなの、絶対に許さない。

 アレクサンドラは実力行使に出ることにした。

「王妃様、これを差し上げますわ」

 帰国に際して、アレクサンドラはアリシアにあるものを渡した。

「え?」

 それはなんてことのない、三粒の真珠のような玉だった。

「友情の証に」

「なんですか?」

「これをお茶に入れて飲むと、お肌がきれいになるんです。誰にも内緒ですよ」

 まあ、とアリシアが笑顔になった。

「ありがとうございます」

 疑うことを知らないかのようなその笑みに、アレクサンドラは微笑んだ。

 わたくしが帰る頃、この女は一人でお茶を飲むだろう。この玉を入れて。それは身体のなかに入って、そして……

 馬車のなかで、くくくくく、と邪悪な笑みを浮かべて、アレクサンドラは足を伸ばした。

 そして、次の王妃になるのはわたくし。これで決まり。

 その頃案の定アリシアは、香茶の支度をしていた。

 アリシアは、砂漠の食物に疎い。なにがどういうものかを、よく知らぬ。

 だから、もらったものを素直に飲もうしていた。

「だめです」

 その手を振り払った者がいた。

「……エミリー?」

「これは毒です」

 茶器が、床に落ちた。こぼれた香茶がしゅうしゅうと毒気を放っている。

「これは……」

「体内に入ると物凄い速さで一気に吸収されて死んでしまう恐ろしい毒です」

「――」

「どこでこんなものを……」

「側室候補の王女様から……」

 エミリーはため息をついて茶器を拾い、

「その方はきっと、ご自分が王妃にならんと画策していたのでしょう。王妃様を亡き者にした後に」

「……」

「陛下に、ご報告なさいますか」

 アリシアはしばらく黙っていたが、

「……ううん、言わないでいて」

 と静かに言った。

「よろしいのですか」

「いいの。これ以上、陛下のご心労を増やしたくないの」

「王妃様がそれでよろしいのなら、私は黙っています」

 茶器を片づけて、エミリーは下がっていった。

 その夜、葡萄酒を飲みながらアリシアはギリアドに尋ねた。

「ギリアド様のご兄弟って、どんな方たちだったんですか」

「第一王子は正妃の息子で、剣が得意なひとだった。次代の王というので、大層期待されてもてはやされて育った。そうすると大抵は傲慢になりやすいがこのひとは違っていた。 彼が王になったら、エリモスはさぞかしいい国になるだろうと自分でも思っていたよ」

「どうして王様になれなかったんですか?」

「ある日真剣の稽古をしていて、その怪我がもとで亡くなってしまったんだ」

「――」

「父はもとより、母君の悲しみようは見ていられないほどだった」

 大人とは、あんなに人目を憚らず泣くものなのか。

 子供心に、そう思ったものだ。

「痛ましい事故だった」

「その次の王子は?」

「第二王子は本の好きな学者のような、どちらかというと内気な温厚なひとだった。剣など持ったことがなくて、父はそれが気に入らなくて必死で訓練させようとした」

「でも、ひとには向き不向きがあると思いますけど」

「私もそう思う。しかし、父はそうは思わなかった。毎日兄に稽古をさせた」

 今でも思い出す。

 雨の日も風の日も、窓の外を見ると、細い身体をふらふらとさせて剣を振り回す兄の姿と、それを叱咤する鬼のような父を。

「無理が祟ったのか、ある日兄は身体を壊して寝込んだ。そしてそのまま帰らぬひととなった」

 母である第二夫人は、葬儀の場で父をなじりに詰った。泣きながら人でなしと罵った。

 王になどならなくてもよかった、あの子を返してほしいと怒鳴った。

 父は、なにも言い返すことができなかった。

「それで、第三王子の私にお鉢が回ってきた。父はもう、なにもしようとしなかった」

「そうですか……」

 アリシアは胸が痛くなって、言葉を失った。

「それより」

 ギリアドは話題を変えた。

「あのヤスミンという王女、どうだ」

「話していて楽しいです。私が月神教でも気にしていないみたいで、気取っていなくて、素直で、やさしくて」

「そうか。そなたもここで友達ができてよかったな」

「はい」

 ギリアドの言葉通り、アリシアとヤスミンは毎日共に時を過ごした。ヤスミンは日神教だったが、互いに教えの垣根を越えて話した。時には、戒律の違いを教え合って理解を深めた。

 また、ヤスミンは刺繍が得意だった。ちょっとした縫い物なら、一日で仕上げてしまう名人だった。アリシアは色々な縫い方を彼女に教えてもらって、そうして時間をやり過ごしたのである。

 また、二人で砂漠の歴史を学んだ。

 アリシアはまだまだ知らないことがたくさんあったから、ヤスミンはいい師でもあった。 海のむこうには鉄≪くろがね≫諸島という属国があって、そこには船でしか行けないとか、属国の一つ一つの文化や礼服の色の作法などを細かく教えてもらったりした。

 そんなある日のことである。

 宰相がやってきて、こんなことを言った。

「妃殿下の親衛隊長を選出いたします」

「親衛隊長?」

「妃殿下直属の、妃殿下をお守りする衛士のことでございます」

「そんなのいりませんけど……」

「そうは参りません」

 強く言われて、仕方なしにヤスミンと共に兵舎へ行った。

「親衛隊長を募る旨は兵士たちに前もって言ってあります。ここに集まった者たちから、妃殿下に直々に選んで頂きます」

 と、高いところから運動場を見下ろしてみれば、誰もいない、無人である。

「あら?」

「どなたもおりませんわね」

 こほん、と宰相が咳払いした。

「月神教の信者の親衛隊長などしたくないというのが本音なのでしょうな」

 ヤスミンが咎めるようにザイオンを見た。アリシアが少しも気にせずに、

「うーん、どうしましょうね」

 と首を傾げ、

「今日のところはやめにしましょう」

 と言った時のことである。

「どいてどいて」

 と、あちらの方から誰かが走ってやってきて、宰相に激突した。ザイオンは転倒した。

「いたたたた……き、貴様何者だ」

「親衛隊長の募集って、ここでしょ。俺、親衛隊長になりたくて来たの。候補」

「なに……」

「あんた、王妃様? 俺オライオス。他にいないの? じゃ、俺があんたの親衛隊長。よろしくね」

 見れば、顔の隅に瘢痕のある男である。

「な、貴様その瘢痕、罪人の息子だな」

「だからなに? 俺がやったんじゃないんだからいいでしょ。それとも、罪人の息子が親衛隊長やっちゃいけないとでも言うの?」

「宰相さん、いいじゃないですか。私、このひとがいいです」

「な、妃殿下」

「よろしく、オライオスさん」

 アリシアはオライオスが差し出した手を握った。

 当然、ザイオンはそのことを国王に報告した。

「ほう、顔に瘢痕がある男とな」

「まったく、どういう神経をしているのやら。妃殿下も妃殿下です」

「よいではないか」

「は?」

「罪人の息子が、みな悪人だということはない。兵士のなかから募ったのはザイオン、お前だろう。王妃が見込んだ男なら、ひとまずさせてやればよい」

「しかし」

「それより、王妃にしてもらわねばならないことがあったな」

「そうでした。お手元の書類をご覧ください。国境の知事の交代の調印式に、出席せねばなりません」

「しかし私はどうしても属国の国王との会見があって出られない。そうだな」

「はい。そこで、妃殿下に代理で行っていただく形になります」

「ふむ」

 いつもなら、自分が共にいて庇ってやれる。しかし、次ばかりはアリシア一人だ。

 月神教の彼女を一人で行かせていいものか。

 不安がないわけではない。

 しかし、こういったことを一つ一つ乗り越えていけぬようでは、先はない。

 アリシアを執務室に呼んで、調印式の出席を頼んだ。

「ついでと言ってはなんだが、国境の警備をしている兵士たちへの私の激励の言葉も伝えてほしい」

「わかりました」

 親衛隊長を連れて、アリシアは国境に出立していった。

 馬車のなかで、アリシアはオライオスに尋ねた。

「どうして月神教の私の親衛隊長なんかになろうとしたの?」

 窓の外を見ながら、彼はぞんざいに言った。

「出世だよ」

「出世?」

「顔に瘢痕のある兵士なんざ、最低階級から一生抜け出せない。俺は出世したいんだ。偉くなって、俺を馬鹿にした奴らを見返したい。そのためには、出世しないと」

「ふうん……」

 顔に瘢痕があると、色々な差別を受けて育つ。

 王族の自分が想像もできないような世界で暮らしてきたのだろう。

 きっとすごく苦労してきたんだろうな、と思って、なにも言わなかった。

 突然、馬車が物凄い勢いで止まった。オライオスは扉を開けて、御者に怒鳴った。

「どうしたい」

「砂竜だ。大きいのが五体も」

 ちっ、と舌打ちして、オライオスはアリシアに、

「あんたはここにいろ」

 と言い置いて表に出た。そして素早く抜刀すると、砂地が柔らかいのにも関わらず高く高く飛んで、地中から飛び出てきた砂竜の巨体目がけて剣を突き立てた。

「すごい……」

 アリシアはそれを、窓から覗いて見ていた。

 オライオスはあっという間に砂竜五体を倒してしまうと、

「いいぜ。行きな」

 と御者に声をかけ、また馬車のなかに戻ってきた。まるで、何事もなかったとでも言いたげな顔であった。

 国境の砦には七の刻過ぎに到着したので、調印式は明日の午後ということになった。アリシアはとりあえず、知事に挨拶だけしておいた。

 その夜、兵士たちに激励の言葉をかけることになった。

 兵士たちは運動場に集まり、王妃がやってくるのを待っている。彼らはアリシアが、月神教だということをよく知っている。

 アリシアは舞台袖から集まる兵士たちを見て、ぐっと拳を握った。

 いつもなら、ギリアド様がいてくださる。でも今は、一人だ。自分でなんとかするんだ。 日神教のひとたちのなかに、一人で飛び込む。やるしかない。

 震える足を励まして、一歩踏み出した。

 舞台の中央まで行くと、不思議と肝が据わってきた。

 すう、と息を吸って、一気に言った。

「国境を守る兵士のみなさん、こんにちは」

 兵士の皆々は、いきなりの気軽な挨拶に面食らった。場はしーんとなった。

 アリシアは腹に力を入れて、もう一度言った。

「こんにちは」

 こ、こん……にち、は、と、戸惑いがちに言葉が返ってきた。

「エリモス国王陛下からみなさんに、お言葉を預かって来ました。諸君らの日々の努力と奮励によって、王都の平和は守られている。今後も一層のたゆまぬ尽力を期待すると共に、心よりの感謝の念を伝えたい、とのことです」

 アリシアはさらに言った。

「家族から離れて、毎日ご苦労さまです。頑張ってください。私からは以上です」

 そして、ぺこりと一礼した。

 兵士たちは顔を見合わせた。

 誰からともなく、ぱらぱらとまばらに拍手が起こった。アリシアの顔がぱっと輝いた。「みなさん、ありがとう」

 アリシアは舞台袖に引っ込んだ。事態を見守っていた警護隊長が、

「妃殿下、ご立派でした」

 と言葉をかけてきた。

「ありがとうございます」

「今夜はあちらのお部屋でお休みください。ご案内いたします」

 来客用の部屋に連れて行かれ、アリシアはそこで眠った。

 ところが、夜半過ぎに外が騒がしいので出ていくと、なにやら物々しい様子である。

「知事が刺されたぞ」

「この男を捕えろ」

「牢に入れておけ」

「離せ」

 見れば、捕えられているのはオライオスである。

「待ってください、彼がなにをしたのですか」

 近くの兵士に聞いてみると、

「知事が刺されました。命に別状はないのですが、顔の半分を隠した男にやられたと証言しています。この男は顔に瘢痕があります。彼がやったに違いない」

「待ってください。彼は私の親衛隊長です。理由もなしに、そんなことをするはずがありません」

「しかし顔に瘢痕がある男を信用はできません」

「離せ。俺はやってない」

 そこへ、騒ぎを聞きつけた警護隊長がやってきた。

「まあ待て。王妃殿下の親衛隊長がやっていないというのに牢屋に入れるわけにもいかん」

「しかし隊長……!」

「だが、知事の証言と彼の瘢痕も一致する」

「隊長さん、こうしましょう。私が犯人を探します」

「え?」

「それまで、オライオスさんを牢屋に入れておいてください。その間に犯人が見つかればいいんでしょう。私が探してみせます」

「あんた……」

 オライオスは両脇を掴まれたまま、アリシアを見た。

「だから、待ってて。私ちょっと行って、探してくるから」

「お一人では、街は危険です。私も同行いたします」

 警護隊長が言った。

 そうして朝が来て、アリシアは街に出てあちこちを聞き回った。

 しかし、人々は彼女の銀の髪や左手の瘢痕を見るとたちまち北方人だということや月神教だと見抜いて、王都の人間ほどではないにしろ、露骨に嫌な顔をしてそっぽを向いた。 それでも、アリシアはめげずにあちこちを尋ね歩いた。なかには親切な日神教の人間や星神教の商人などもいて、警護隊長の助けもあり、そうして時間が過ぎて行った。

 その頃砦の地下牢では、オライオスがふてくされて寝転がっていた。せっかく王妃の親衛隊長になってこれからだと思っていたというのに、台無しだった。アリシアが助けてくれるなどと、彼は少しも思っていなかった。

 王都の貧民街で、オライオスは育った。

 彼の父は当時の国王に反乱した罪で捕えられ、処刑された。罪人の子供は、一代まで遡って顔に瘢痕を入れられるのが習わしである。

 顔に瘢痕があると、貧民街のなかでも特別に差別される。貧しいなかでも、特に貧しい生活を強いられた。毎日屑を拾って日銭を稼いだ。

 ある日、母が病で倒れた。薬があれば簡単に治る病であった。

 当時五つであったオライオスは、爪に火を灯すような暮らしのなかで必死に働いて貯めてきた金をかき集めて街へ行った。

「これで薬をちょうだい。母ちゃんが病気なんだ」

 薬屋の主人は彼の顔の瘢痕を見て眉を顰めた。

「この金はどうしたね。盗んできたんじゃないだろうね」

「ち、違うよ。働いてためたんだ」

 主人はため息をついた。そして小瓶を出し、

「これを、三回に分けて飲ませなさい。水と一緒に」

 とオライオスに渡した。彼は勇んで走り出した。

 母ちゃんが治る。治るんだ。早く行ってあげないと。

 そこへ、衛士の二人組が通りかかった。

「なんだ? 瘢痕のガキがなにを慌ててやがる」

「うん? 薬なんか持って、さては盗んできたな。貸せ」

「待って、やめてよ」

「これは没収だ」

「やめて、母ちゃんが待ってるの。やめてよ」

 薬を取り上げられ、道のむこうに蹴りだされて、オライオスは気絶した。気がついたら日が暮れていて、泣きながら家に帰った。

 母親は、冷たくなっていた。

 号泣しながら、一人で母を土に埋めた。

 俺があいつらに薬を取られたのは、俺の顔に瘢痕があったからじゃない。あいつらの方が偉かったからだ。

 偉くなりたい。

 ――出世さえすれば。

「へっ、それも、これまでだな」

 頭の後ろで手を組んで、壁によりかかる。国境の砦で殺人未遂で一生牢のなかだ。

 短い栄達だった。

「オライオスさん」

 あちらから光が差して、聞き覚えのある声がした。

「犯人、見つかったよ。出られるよ」

 アリシアが走り寄ってきた。警護隊長が彼の房までやってきて、鍵を開けた。

「あ、あんた……」

「妃殿下の粘りに、感謝だな」

「いたのか、犯人」

「顔の片側に傷のある男を見たという人間がいてな。それを探したところ、包帯を巻いた男がうろうろしていた。挙動不審だったので声をかけたら逃げたので捕えたんだ。そうしたら、反国王一派の者で、知事を殺したら幹部にすると言われたと吐いたんだ」

 警護隊長はさらに言った。

「妃殿下はご自分の親衛隊長に限って殺人未遂などするはずはないとおっしゃられてな」

「――」

 言葉が出なかった。

 牢から出て、身体を伸ばした。

 知事が無事であったので、遅ればせながら調印式をすることになった。アリシアはギリアドから預かってきた玉印を書類に押印して、知事の信任とした。

「王妃さんよ」

 砦から出て、オライオスはアリシアに言った。

「ありがとよ。俺を信じてくれて」

 アリシアはふふ、と笑った。

「だって、オライオスさんは私の親衛隊長さんですもの」

 そう言って馬車に向かった。

「妃殿下、道中お気をつけて」

 警護隊長が見送りに来た。

「今回のことで、私は月神教の方を見る目が変わりました。自分がいかに偏見に満ちていたかが、わかりました」

 そしてアリシアに向かって、手を差し出した。

「どうか国王陛下にもよろしくお伝えください」

 アリシアは笑顔になって、その手を握り返した。

「必ず伝えます」

 そう言って馬車に乗り込んだ。



『お兄様へ 新しいお友達ができました。日神教のひとだけれど、とてもやさしくて、素直で、毎日が楽しいです。彼女は刺繍がとても上手なので、よく教えてもらっています。 先日、国王陛下の代理で国境へ行ってきました。兵士のみなさんは日夜忙しく働いていて、大変だったと思います。戦うことに日神教も月神教もないのですね。きっと、どれも同じことなのだと思いました。みんな日々必死に暮らしていて、そのことに戒律の垣根はないのだと。そのことを教えられました。 アリシア』

「アリシアからの手紙か」

 父王から話しかけられて、レオンはええ、と振り向いた。

「俺なんかより、よっぽど勉強しています」

 そして空を見上げた。

「よっぽどね」

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