第二章 5
3
リッテンバウムの月神教神殿で、神官が祈りを捧げている。
その物陰から、一人の女がそっと気配を忍ばせて辺りを窺っていた。その手には短剣が一振り、握られている。
女が、一心に祈る神官たちの背中を睨む。その視線には、殺気が籠もっている。
女はさっとそこへ躍り出ると、神官の一人にむかって短剣を振りかざした。
カーン、と乾いた音がして、短剣が床に放り出され、女の手が誰かの手に掴まれている。「衛兵を呼べ。暗殺者だ」
神官の一人がそう叫ぶと、広間はちょっとした騒ぎとなった。
「放せ」
女が叫び、暴れだす。
「この肌の色、こやつ、日神教の女です」
「む。はるかエリモスからここまでやってきたか。小賢しい」
「にっくき日神教の悪魔めが、ここで処刑してくれるわ」
口々に言う神官たちに、女は
「悪魔はどっちだい。突然やってきて村々を焼き、子供や女を殺して回り、男を捻じり上げて、家を焼いて、土地に塩を撒いたのはどこのどいつだい。悪魔は、お前らだ」
「汚らわしい日神教の女めが、どの口が言うか」
「焦げた肌の色が悪魔の証拠、この女こそ悪魔と寝た娼婦、魔女にございますぞ」
「生きたまま焼こうぞ」
「逆さ吊りにして皮を剥ごう」
神官たちが次々と言うのに、女が思わず青くなった。
「いや、まずは尋問だ。日神教のことを聞き出そう。殺すのはそれからだ」
という声が上がって、女は結局牢に入れられることになった。
「出せったら出せ。月神教め」
悪態をつきながら地下に放り込まれ、女は独房に入れられた。
悔しまぎれに石の壁を蹴っていると、そのむこうからぼそりぼそりと声がした。
「やあ、お隣さん? 君も罰を受けたの?」
その声に、女はぎょっとした。
「……誰」
そっと声を返すと、隣にいる声はふふと笑った。
「僕? 僕、フェイリア。ここの神官なんだ。でも、上役の言いつけに逆らって、罰としてここの懲罰房に入ってるの」
「罰?」
「そう。ちょっと口が滑っちゃって」
「なにを言ったの」
「別に大したことじゃないよ。日神教も月神教も同じ人の子、悪魔なんかじゃない、殺すべきじゃないって、そう言ったのさ」
「……馬鹿ね」
「同僚にもそう言われたよ。で、ここに入れられたの。君は?」
「え?」
「君はなにをしたの」
「……神官を、殺そうとしたのよ」
フェイリアの声がからからと笑った。
「神殿で、ずいぶんと大胆なことをしようとしたね。そんなことをしたら捕まるよ」
「だからここにいるのよ」
「なるほどね。じゃあ、出られないね。僕と同じ」
この地下からは、出られない。闇が、女の絶望を一層濃くした。
「君の名前は?」
「えっ?」
「君の名前、教えてよ」
「……アイシャ」
「アイシャ。お隣同士、仲良くしようよ。お互い、顔は見られないけど」
こうして、アイシャとフェイリアの奇妙な交流が始まった。
薄暗い、石造りの寒い地下牢。一日に一回の粗末な食事、堅い木のベッドに寝藁の敷き布と薄い毛布、そんな環境では心の頼りになるのは嫌でも隣人の存在だけであった。
二人は色々なことを話した。
話すのは大抵、フェイリアの方だった。
「僕らは戒律が厳しいから貝や蛸やイカなんかは食べられないんだ。でも食べてみたいとは思うんだよね。誰も見てなけりゃ、食べてもいいと思ってる。結局は気の持ちようだよ。 月神を信じる心さえ揺るがなければ、貝でも豚でも食べればいいんだよ」
「香を焚くのはね、月神に祈りを捧げる気持ちを忘れない、気持ちを戒めるためにするんだ。香を焚くといいにおいがするだろ。そうすると、気分がよくなる。自分も周りも、いい気持ちだ。その気持ちが大切なんだよ」
「日神教が悪魔だなんて言うけど、こじつけだよ。暑い国にいるんでしょう。日に灼けるのは当たり前だよ。日に灼ければ、肌の色が変わる。僕らは北国にいるから、肌が白い。 環境によって肌や髪の色が違うのは、ごく当たり前のことだ。なんでみんな、そんな簡単なことがわからないんだろう。日神教は悪魔なんかじゃない、ただの人間だよ」
こんなひとが多くいれば、自分はこんな北にやってきて復讐に及ばずともすんだのに、とアイシャは思いながら、膝を抱えてそんなことを考えていた。
「今度は君が話す番だよ」
「私? なにもないわ」
「海の話をしてよ。ここには海がないから」
「そうねえ……」
アイシャはもう見ることがないであろう故郷の海を思い浮かべながら、遠い目つきになってあの青をどうしたら壁のむこうに伝えられるだろうと考えた。
「広いわ。両手を広げてもまだ足りないくらい、大きいの。波がいつもいつも打っていて、ざーんざーんって音がして、それは白くて、静かで、舐めるとしょっぱくて、とても青いのよ」
「空みたいに青いの」
「あんな水色じゃないわ。もっと深くて、澄んだ青よ。あなたにも見せてあげたいわ。海は深くて、とっても深くて、魚や貝や海藻が海の底にいるの。真珠が採れることもあるわ」
「真珠なら見たことあるよ。白い珠だ」
「うん。あれは貝から採れるのよ」
「へえ、それは知らなかったな」
壁に寄りかかり、フェイリアの温かい声を聞きながら、アイシャはそっと目を瞑って彼の話す様を想像していた。
ねえ、あなたはどんな姿をしているの? どんな服を着ているの? どんな姿勢で今、話をしているの?
会ったことも見たこともないフェイリアという名前しか知らない男に、アイシャは興味を抱いていた。彼は絶望という常闇のなかに咲いた、一輪の花のような存在だった。
「今日はなにを話す?」
「砂漠の話をして」
「海くらい広い場所よ。とても広い、広い場所よ」
「海とどっちが広いの」
「わからないわ。どっちも同じくらい、広い」
「砂漠も青いの」
「ううん、砂漠は青くないわ。砂漠は金色だったり、オレンジだったり、灰色だったりするわ。一色であることのない、不思議な場所よ」
「どうしてそんなに色が変わるの」
「太陽の光が当たるから。光が当たると、砂漠は表情を変える。色々な色になって、それが一色だけじゃなくなって、いつも違う色になるの」
「不思議なところなんだね」
「不思議なところなのよ」
「いつか行ってみたいな」
「あなたにも見せたい」
砂漠も、海も。
あなたに見せたい。
どちらも比べられないくらい、きれいなところだから。
こんな薄暗い、しめっぽい地下牢じゃなくて、大空の下で、思い切り笑い合って。手と手を取り合って、走り回りたい。日神教も月神教も関係なく、一緒にいたい。
ある日、フェイリアはアイシャに言った。
「ねえアイシャ」
「なあに」
「僕、君のことが好きみたい」
胸がどきりと痛んだ。
「――」
「君のことを考えると、どきどきするんだ」
「――で、でも」
胸の鼓動を抑えかねて、アイシャはそれでも言った。
「私たち、一度も会ったことないわ」
「そんなこと、僕たちが話したことに比べれば些細なことだよ。目で見ることなんて、不確かな情報に過ぎない。視線から得られるものは、実は一番不明確なものなんだ」
それはそうだった。
自分は誰よりも、フェイリアという人間をよく知っているという自信があった。彼の出身、好きな食べ物、好きな本、家族のこと、神官になった理由、子供時代、戒律から教えに到るまで、およそ知らないことなどなかった。
彼がどんな姿をしていようと、恐れずに受け入れられるという確信のようなものを、アイシャは持っていた。
「君は?」
そんなことを考えながらうつむいていると、突然尋ねられて、はっとして顔を上げた。「君はどう?」
思わず、顔が赤くなった。相手は壁のむこうにいて見えていないのに、恥ずかしくなった。
「わ……私も」
やっとのことで、言葉を絞り出す。
「私も、あなたが好き」
壁に、そっと手をつく。まるで、愛しいひとの胸に手を置くように。
「……好き」
そっと呟く。
「よかった」
壁のむこうから、そんな声が聞こえてきた。
平穏な日々はある日突然破られた。
突然、物々しい足音と共に衛兵がやってきて、独房の鍵が開けられた。神官たちが入ってきて、アイシャとフェイリアにそれぞれ告げた。
「出ろ。お前たちの処刑が決まった」
アイシャは問答無用で頭に袋を被せられ、牢から無理矢理連れ出された。
処刑? 私は殺されるの?
突然、視界が白くなった。表に出たのだ。
袋が頭から外され、乱暴に背中を押された。
その時、共に突き飛ばされた男の姿が見えた。
「フェイリア……?」
日の光を受けてきらきらと輝く、淡い金の髪。明るい緑の瞳が、驚きに満ちて自分を見つめている。
「アイシャ……?」
鼓膜に響く、よく知る声。
「あ……」
アイシャは思わず、彼に手を伸ばした。フェイリアもそれに応えて、手を伸ばしてきた。
しかし衛兵が彼を引っ張って、無情にも二人は引き離された。
「これなる神官は月神教にも関わらず日神教の悪魔を人の子呼ばわりし、同胞と呼ばんと働きかけた罪で処刑するものとする」
「またこれなる女は日神教なり。神殿に侵入しあまつさえ神官を暗殺しようとした不届きものゆえ処刑するものとする」
シャッ、シャッという音がして、大きな刃がなめし皮の上で準備されている。アイシャは青くなった。
「お待ちなさい」
それを見た男が、処刑を止めんと声をかけた。
そこにいた誰もが、声のした方を振り返った。
一人の神官が、そこに立っていた。
ざわ、と場がざわめいた。
神官? 神官だ。馬鹿な。神官がなぜ処刑を止める。これは粛清だぞ。
「人命はなによりも尊いものです。なにゆえそのようにむやみに人の命を奪うのです」
その神官はざわめく人々にも怯まず、自ら進み出でて処刑場に入って来た。
「見かけぬ奴。そなた、何者だ」
「悔やむ者。かつて、奪いし者」
「なぜ処刑の邪魔をする」
「無駄なことだからです」
「無駄だと?」
「そうです。この処刑はまったくの無駄です。この二人を殺しても、なににもならない。 誰も得をしない、誰も喜ばない。血が流れる、ただそれだけです」
「悪魔に
「地獄は、この世にあります」
「なんだと」
「かつて私は、地獄をこの目で見ました」
神官は空を見上げた。
赤い空。燃える家。泣き叫ぶ女。
「地獄は、簡単に作れるのです」
「なにを訳の分からぬことを。こ奴をひったてい。共に処刑せよ」
神官は引きずりだされ、縛られた。
「私一人を殺したところで、なんの抑止にもなりません。日神教と月神教の間に必要なものは、相互の理解です」
「不届きな。それでも月神教の神官か」
「殺せ」
「その神官を殺せ」
殺せ、殺せという声があちこちから上がった。
「そなた、名を申せ。処刑してくれん」
神官長が近づいてきて、神官に尋ねた。処刑人が、あちらで大振りの剣を準備している。「かつて、私は戦地で大勢の人間を殺しました。――日神教を。その償いとして、神官になった。こうなったことに、悔いはありません」
「名を」
神官はきっぱりと顔を上げ、高らかに言った。
「――ヨシュア」
神官長が、振り上げていた手をさっと下ろした。
ザン、という音が三回、立て続けに起こったかと思うと、血飛沫が飛んだ。
その翌週――銀髪家の惨劇が起こり、リッテンバウム・エリモス両国は不可侵条約を結ぶ。
ここに長きに渡って続けられた二国の戦は終結したのである。
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